今の日本のように長期不況が続くと、1930年代のようなファシズムが出てくるのではないか、というのはよく心配されるが、今のところ戦前のような超国家主義は大して大きな勢力にはなっていない。しかし「狂信的な社会運動」という広義のファシズムには、いろいろなパターンがある。本書も指摘するように、ファシズムにはイデオロギー的に右翼か左翼かは関係なく、中国の紅衛兵や日本の全共闘運動もその一種だった。
戦前のファシズムを代表するのは、蓑田胸喜である。今となっては忘れられた人物だが、戦前にはその影響力は強く、彼の主催する雑誌『原理日本』が国賊として糾弾した瀧川幸辰、美濃部達吉、河合栄治郎などは職を失い、蓑田の「日本主義」は皇道派青年将校の精神的支柱となった。戦前の日本を暴走させたのは軍や官僚機構の中枢ではなく、蓑田が尖兵となり朝日新聞などが迎合した「草の根ファシズム」だったのである。
最近の反原発運動に感じるのも、蓑田的な気味悪さだ。たとえば原発業界御用学者リスト@ウィキというウェブサイトでは、山下俊一氏や中川恵一氏を激しく攻撃している。それが彼らの学説に対する科学的な批判であればいいが、その論理は「政府から研究費をもらっている→御用学者だ→御用学者の主張はすべて間違っている」というものだ。
これは蓑田が日本主義に反する言論をすべて「資本主義の下僕」や「官僚機構の傀儡」として排撃したのと同じく「自分の考えと違う奴は悪者だから、悪者のいうことはすべて間違っている」という循環論法で、田中龍作氏などの自称ジャーナリストとも共通している。
こうしたデマゴーグは、戦前でも主流ではなかった。蓑田は慶応予科の講師をしていたが退職を余儀なくされ、主流のアカデミズムへのルサンチマンをつのらせた。山本太郎氏のような反原発芸能人も、ナンセンスな言動のために干されたのを「正義が迫害された」と思い込む。
おもしろいのは、蓑田も山本も官僚機構を激しく否定しながら、その論拠は天皇に対する「不敬」や「国の決めた安全基準を守っていない」という国家への盲信だということだ。山下氏も中川氏も、その国の基準に疑問があると言っているのだが、反原発派にとってはそれは「不敬罪」なのだろう。
蓑田と反原発運動に共通するのは、強烈な否定への情熱である。これは「今のままでは日本は没落する」という多くの人々のフラストレーションを代弁しているため、共感を得やすいが、建設的な代案を出すわけではない。これは紅衛兵や全共闘とも同じで、反原発運動が提唱するのも「原発ゼロ」や「自然エネルギー100%」などの夢物語だ。
もう一つの共通点は、感情の論理に対する優越である。蓑田は「人生の原理はわれらの実人生に於ける内的直接的経験によっての心証革新であって自然科学的抽象概念ではない」と、信念が科学に優越するとした。これは「科学的には微量放射線に危険性はなくても子供が心配だ」といって「リスクゼロ」を求める放射能ママと似ている。
ファシストは私利私欲のためにやったのではなく、正義の味方だった。現代からみると蓑田の主張は荒唐無稽だが、当時は天皇機関説を排撃する彼の主張は、天皇の尊厳を守る正義の論説として世論の圧倒的な支持を受けたのだ。
非科学的な「正義」を語り、「原子力村」を攻撃する山本太郎氏に喝采する自由報道協会やBLOGOSなどのウェブメディアは、『原理日本』に似てきた。幸いそれは30年代のように戦争という形の破滅にはつながらないが、無意味な除染に数兆円の税金を浪費し、原発を止めて電力コストを数兆円引き上げ、日本経済の破滅を早めるだろう。
最近の反原発運動に感じるのも、蓑田的な気味悪さだ。たとえば原発業界御用学者リスト@ウィキというウェブサイトでは、山下俊一氏や中川恵一氏を激しく攻撃している。それが彼らの学説に対する科学的な批判であればいいが、その論理は「政府から研究費をもらっている→御用学者だ→御用学者の主張はすべて間違っている」というものだ。
これは蓑田が日本主義に反する言論をすべて「資本主義の下僕」や「官僚機構の傀儡」として排撃したのと同じく「自分の考えと違う奴は悪者だから、悪者のいうことはすべて間違っている」という循環論法で、田中龍作氏などの自称ジャーナリストとも共通している。
こうしたデマゴーグは、戦前でも主流ではなかった。蓑田は慶応予科の講師をしていたが退職を余儀なくされ、主流のアカデミズムへのルサンチマンをつのらせた。山本太郎氏のような反原発芸能人も、ナンセンスな言動のために干されたのを「正義が迫害された」と思い込む。
おもしろいのは、蓑田も山本も官僚機構を激しく否定しながら、その論拠は天皇に対する「不敬」や「国の決めた安全基準を守っていない」という国家への盲信だということだ。山下氏も中川氏も、その国の基準に疑問があると言っているのだが、反原発派にとってはそれは「不敬罪」なのだろう。
蓑田と反原発運動に共通するのは、強烈な否定への情熱である。これは「今のままでは日本は没落する」という多くの人々のフラストレーションを代弁しているため、共感を得やすいが、建設的な代案を出すわけではない。これは紅衛兵や全共闘とも同じで、反原発運動が提唱するのも「原発ゼロ」や「自然エネルギー100%」などの夢物語だ。
もう一つの共通点は、感情の論理に対する優越である。蓑田は「人生の原理はわれらの実人生に於ける内的直接的経験によっての心証革新であって自然科学的抽象概念ではない」と、信念が科学に優越するとした。これは「科学的には微量放射線に危険性はなくても子供が心配だ」といって「リスクゼロ」を求める放射能ママと似ている。
ファシストは私利私欲のためにやったのではなく、正義の味方だった。現代からみると蓑田の主張は荒唐無稽だが、当時は天皇機関説を排撃する彼の主張は、天皇の尊厳を守る正義の論説として世論の圧倒的な支持を受けたのだ。
非科学的な「正義」を語り、「原子力村」を攻撃する山本太郎氏に喝采する自由報道協会やBLOGOSなどのウェブメディアは、『原理日本』に似てきた。幸いそれは30年代のように戦争という形の破滅にはつながらないが、無意味な除染に数兆円の税金を浪費し、原発を止めて電力コストを数兆円引き上げ、日本経済の破滅を早めるだろう。