dawn
多忙にかまけてすっかり見過ごしていましたが、航天機構の例によって素晴らしい共産圏コンピュータ史です。ゲーム機についても記述がありますが、そういえば中国にはファミコンクローン機から独自に発展した低年齢層向け教育パソコンがきわめて広く普及して…
『Phoenix: The Fall & Rise of Videogames』『Videogames: In The Beginning』といったゲーム史研究の必読書で知られるロレンタ・プレスより、新刊の登場です。これは世界初のヴィデオゲーム専門誌『Electronic Games』を立ち上げたひとりであるゲームドク…
DigiBarn Computer Museumより。1948年から1957年にかけての (つまりコンピュータが主力製品になる直前の) IBMの企業イメージ広告コレクションです。この種の特定製品に触れていない広告は見落とされがちなだけに、興味深いものといえるでしょう。「IBMは国…
パーソナルコンピュータの起源というのは定義次第でいろいろ変わってくるものですが、ユーザー文化の出発点はどこかということになれば、ホームブルー・コンピュータ・クラブ (HCC) をおいて他にないでしょう。それはパーソナルコンピュータに魅せられた人々…
北朝鮮の初期コンピュータ開発事情に触れた珍しい文章ということで、やや古い記事ではありますが、ご紹介させていただきます。一読するとどうも「マイクロコンピュータ」という言葉の用い方に違和感を感じますが、元記事は「초 미니컴퓨터」(超ミニコンピュ…
ところでこれら東欧のコンピュータ黎明期に、ICLやElliotといったイギリスの代表的メーカーが頻繁に顔を出すのには驚きました。没落しゆくイギリスのコンピュータ産業は、こんなところに販路を拡げていたのですね。こういった東欧への売り込みが、冷戦下でど…
当時アンペックスは、趣味の研究開発に寛容なハイテク企業として、若手エンジニアたちの人気を集めていました。1970年頃には数千人規模の研究員を抱えていたといいますが、そのなかにはブッシュネル氏らだけでなく、やがてパーソナルコンピュータ時代の革命…
―――というご質問を掲示板にていただきました。いわれてみると、ふたつの呼称が並立するようになった歴史的経緯は、まだ筋道立てて説明されたことがないようですね。これは結論からいうと、テレビ/ビデオゲーム機産業の創始者となったふたりの人物、つまりラ…
バベッジのチク・タク・ツー・マシン構想は、かくしてヴィデオゲーム時代の幕開けにまで連綿と受け継がれたわけですが、では彼の本来の夢、すなわちチェスをプレイするコンピュータは、結局いつ頃実現したのでしょうか? 簡単にその足取りを追って、締め括り…
ストレイチイのドラフトと同じ1952年に、EDSACにもコンピュータゲームが登場しました。こちらはアレクサンダ・シャフト・ダグラスという大学院生の手がけたチク・タク・ツー・プログラムです。プログラミング環境整備の重要性にどこよりも早く気付いていたケ…
プリンツがチェス研究を終えようとしていた頃、ストレイチイはマンチェスタ大学を訪れていました。彼は旧友のチューリングと彼のプログラマーズハンドブックに励まされながら、マークIでもう一度ドラフトにチャレンジしようと決心します。移植と改良は驚くほ…
それから少し遅れて、マンチェスタ大学でもゲームプログラミングへの挑戦が始まりました。マンチェスタ大学のマークIは、実用化こそBINACやEDSACに少し遅れを取ったものの、試作機 (Baby) まで含めれば世界で最初に動作した現代型コンピュータです。同大学で…
ストレイチイはもともと通信工学に精通した技術者であり、戦時中は真空管の研究に携わっていました。それが縁でアナログコンピュータに興味を持ったりもしていたのですが、戦後は一線を退いて教職に就き、コンピュータとは無縁の生活を送っていました。彼に…
実際に動作したことが確認できる最古のゲームプログラムは、意外なことに、死んだかに思われていたACEプロジェクトから生まれました。実はチューリングが去ったあとも、プロジェクトは少しずつ前進していたのです。そして1950年5月には、遅まきながら試作機…
「機械にチェスをプレイさせてみたい」という研究者たちの願望は、ハードウェアの完成前にチェスプログラミングの方法論が確立されるという、一種異様な事態を生み出しました (前回参照)。しかしこのようなソフト先行の時代は、それほど長くは続きません。ち…
おそらく「サイバネティクス」を刊行した直後あたりに、ウィーナはケヴェドの業績を発見しました。今から30年以上も前に、部分的とはいえチェスをプレイする機械が実在していたという事実は、研究者たちを多かれ少なかれ驚かせ、そして勇気づけたことでしょ…
ちょうどその頃アメリカで、チェスマシン研究に重要な転機をもたらすことになる、一冊の書物が出版されました。ノーバート・ウィーナの著した「サイバネティクス」です。同名の学問を確立したことで有名なこの大著のなかで、ウィーナはチェスをプレイする機…
第二次世界大戦中から終戦直後にかけて、興味深い現象が起こっています。まだ今日的な意味でのコンピュータが誕生していないにも関わらず、チェスをプレイするためのプログラムがいくつか考案されているのです。先陣を切ったのは、プログラム制御の汎用計算…
ニューヨーク万博で話題をふりまいたニモトロン (前回参照) は、人間と互角以上の「知性」を見せた最初の機械でした。しかしこれがバベッジの思い描いたゲームマシンだったといえるでしょうか? ニモトロンは、あまりにもニムというゲームに特殊化しすぎてい…
ゲーム専用コンピュータ開発の動きは、アヘドレシスタ以来長く途絶えていました。次なる成果が現れるのは、第二次世界大戦直前の1939年に開催されたニューヨーク万博においてです。このイベントにはニムをプレイする機械が登場しました。その名はニモトロン…
話は少し逸れますが、アヘドレシスタが披露された翌年には、「チェスには先手必勝か、後手必勝か、必ず引き分けになる戦略が存在する」ことを証明した、エルネスト・ツェルメロのゲーム定理も発表されています。ツェルメロはチェスのプロブレムが数学的に検…
Ajedrecista (初代). 実物は現在もマドリードの高速道路・運河・港湾エンジニア協会に可動状態で保存されているという。写真は "From Analytical Engine to Electronic Digital Computer: The Contributions of Ludgate, Torres, and Bush" (Brian Randell,…
いっぽう20世紀初頭には、解析機関の具現化にチャレンジする人々も、何人か現れていました。バベッジの実子である退役軍人ヘンリーや、アイルランドの会計士ルドゲイトなどです。そのなかでただ一人、バベッジのゲーム研究にもスポットを当てたのが、スペイ…
バベッジのゲーム研究 (前回参照) に追随しようという動きは、彼の死後何十年ものあいだ不在でした。その間「ターク」の焼き直しのような人形がいくつか作られているくらいですから、時代は停滞するどころか、むしろ逆方向に進んでいたといったほうが適切か…
バベッジの当初の目標は、むろん機械にチェスをプレイさせることでした。しかしミニマックス法でチェスをプレイする場合には、膨大なメモリが必要となります。フルスペックでも1000個の数値 (10進数50桁) しか記憶できなかったとされる解析機関は、明らかに…
バベッジは階差機関の挫折と前後して、プログラム方式を採用した次世代の自動計算機、すなわち解析機関の設計に着手しています。そのパーツを一通りデザインし終えたあと―――それはちょうど政府が階差機関を見放した頃でもあるのですが―――彼は20年前にやりか…
「ターク」の虚実は、バベッジにとってそれほど切実な問題ではありませんでした。彼はそれよりもむしろ、自分なら実際に自動チェス人形を作ることができるかどうかという問題に興味を持ちます。バベッジが「ターク」に影響を受けてゲーム研究を始めたことを…
バベッジが自動チェス人形「ターク」と対面したのも、やはりメルツェルによるイギリス巡業 (前回参照) においてでした。このときバベッジは28歳。王立協会の特別メンバーとして、さまざまな数学/物理学研究に勤しんでいた時期です。当時発表した論文のなかに…
19世紀初頭のイギリスでは、精巧なオートマトンに対して、単なる物珍しさ以上の関心が集まっていました。完成度の高い人形は、東インド会社を通して高値で中国に売り捌くことができたからです。ケンペレンの人形に対してこの国で一歩踏み込んだ研究がなされ…
バベッジが「ゲームをする機械」にこだわるようになった背景には、当時さかんに製造されていたオートマトンと呼ばれる精巧な自動人形たちの存在があります。あたかも生命あるもののように振舞う人形たちの姿は、少年期のバベッジに終生忘れえぬほどのインパ…