沼津の御用邸 跡が記念公園になっていると知り、訪問した
守衛室が可愛らしい。
中をのぞいてみたら座れないほど狭い、寒さは多少はしのげたかしら。
公園入口
玄関前のソテツの前になにやら竹のオブジェ
hana・花・シンフォニーという菊と竹のイベントをやっているらしい。
売店
いきなり売店に吸い寄せられてしまった。
色々な土産物の中に、目をひくものが。
女性皇族お印入りのハンカチ
麻100%で桐箱入り エレガントだな、
だけど6,000円とは、流石に手が出ない。
売店に沼津御用邸の沿革がよくわかる掲示があったので転記する。
沼津御用邸のあゆみ
沼津御用邸は、当時皇太子であった大正天皇のご静養のため、明治26年 ( 1893 ) に開設されました。御用邸とは皇室が避暑、避寒に用いる別邸を指しますが、温暖な気候と景観に恵まれた沼津の地は、明治22年の東海道線開通により一躍保養地として注目され、各地に先がけて最も早い時期に造営された御用邸でした。
松林に囲まれた旧御用邸は、本邸を中心に東と西に付属邸を配置していました。
本邸は開設当初に建てられた和風建築に、明治33年洋館を加え、100室以上も部屋を備える立派な御殿でしたが、昭和20年7月16日の沼津大空襲で惜しくも消失し、その面影をしのぶことはできません。
本邸旧御殿
本邸は100室を超える大御殿であったが、戦災で惜しくも消失した。明治26年に施工した旧御殿は最初に建築された建物である。 ( 昭和20年消失 )
本邸洋館
明治33年に建てられた本邸の洋館は明治期の御用邸としては初めての洋風建築である。木造平屋建てで、外観はルネッサンス様式を基調にまとめられている。
内部には
表御座所 と御陪食 食堂があった。 ( 昭和20年消失 )
本館の車寄せ
明治36年に本邸の東隣に赤坂離宮から木造建築を移築して設けられた東付属邸は、
主に皇族殿下 ( 明治天皇のお孫さん ) の御学問所として活用されました。
東付属邸御殿
庭から御学問所、実験室を望む。常住のための御殿ではなかったが、本邸が消失した戦後の時期には皇族方が滞在されたこともある。 ( 現存 )
現在公開されているのは旧西付属邸にあたる建物で、ご幼少の皇族殿下、のちの昭和天皇、秩父宮、高松宮の三人の皇子のために作られた御用邸です。
西付属邸御殿
庭から御座所と、渡り廊下でつながれた御玉突所の渡り廊下を望む。
戦後は、本邸に代わる御用邸として多くの皇族の方が利用された。 ( 現存 )
お懐かしげに西付属邸の庭をご散策される昭和天皇と皇太后陛下。
沼津御用邸へ最後の御幸啓。 ( 昭和45年3月 )
本邸の西隣にあった元海軍卿・
川村純義 伯爵の別荘を明治38年に買い上げ、翌39年には宮城内の賢所付属建物を移築するなど、数回の増築を経て大正11年に完成しました。
川村 純義(天保7年11月11日〈1836年12月18日〉~ 1904年〈明治37年〉8月12日)
日本の海軍軍人。海軍大将従一位勲一等伯爵。
本邸焼失後は、この西付属邸が本来の御用邸の役割を果たしてきましたが、小規模ながら謁見所などの公式な部分と住居部分とが一体となった明治期の大規模木造宮廷建築の遺構として全国的にも珍しく、当時をしのばせる家具調度品も良く保存されており、歴史的に重要な意味を持つ建築物として高く評価されています。
沼津御用邸ご滞在中、近くの松林の中で地元の子供たちに語りかけられる
貞明 皇后。 ( 昭和25年 )沼津御用邸で夏を過ごされる皇太子殿下、美智子妃殿下、ご幼少の浩宮徳仁親王
( 昭和37年8月 )
その後の環境の変化などから沼津御用邸は昭和44年に廃止となり、沼津市に移管されて、翌45年には現在の沼津御用邸記念公園が誕生しました。
沼津市では造営100周年にあたる平成5年度を期して建物の改修と庭園の整備を行い、平成6年4月から西付属邸内部の公開に踏み切りました。
改修にあたっては、建物本体はもちろん、瓦やガラス、建具や家具など、できるかぎりかつての姿に忠実に復元しました。
ということで、いざ西付属邸へ
靴脱ぎの所に中に持ち込めるステッキがある
「調度品を忠実に復元した」とあるように、ガラスも昔の和ガラスで趣がある。
この揺らぎがなんとも魅力的
玄関を左に行くと、
女官応接、警衛内舎人と並ぶ
主膳室に自転車が
大正三年 昭和天皇が学習院初等科時代にお乗りになった自転車の複製らしい
調理室
寒そうだがとても明るい造りになっている。
当時は火事を防ぐために、御殿の中ではなるべく火を使わなかったそうで、
調理室では炭火などを用いる程度。
大きな火を使う場合は、調理室の外側の石造りの
昔のままの流し台は人造石の研ぎ出しで、四つに仕切られた珍しい形。
かまど、魚焼き器は炭火を用いていた。
当初は石炭を用いる西洋釜も設けられていたとのこと。
明るい秘密はここだった!
採光と排煙を兼ねた天窓は、側面の可動式の窓をロープで開閉する仕掛けらしい。
この浴室は、職員用かな?
※ 職員用と書いたのは、後に御浴場があったからです。
案内図には、食事関係の配置がわかるように青く記されていた。
「御用邸の暮らし」という案内板があったので、その記事に即して写真をはりました。
※ 本文は説明書きの記事で、マークは私の感想
御用邸の暮らし
昔、御用邸に皇族が滞在されるときには、身の回りの品物を始め一切の家具や備品などを全て運んできたといわれます。これは経費の無駄を省くためでした。
皇族が二手に分かれる時はどうしたんだろう。
例えば大正天皇は、皇后とは別行動で自分だけ葉山の御用邸に行ったりしてたらしいから。
料理の道具類も同様で、鍋釜から食器にいたるまで長持ちやトランク、つづらなどに入れて、お召し列車や自動車で運んでいました。
また新鮮な牛乳を得るために、牛も連れてきて買っていたということで、旧沼津御用邸にも牛舎がありました。
料理の材料は内玄関から運び込まれ、職員が点検してから使用したと思われますが、内玄関の脇の仕入詰所は、出入りの商人が控えていたようです。なお、この内玄関は職員や商人などが使用し、正面玄関は皇族が用いるようになっていたそうです。
右上の写真を内玄関を外から見たところ
ここで裸になってお湯をかけてもらうのか、寒そうだな
「天皇の料理番」
料理は、
「天皇の料理番」として小説やテレビでも知られる故秋山徳蔵氏は、大正初期から昭和47年まで、約60年間にわたり厨司長、後には主厨司長 ( 現在の主厨長 ) を務めましたが、この西付属邸の調理室でも、大いに腕を振るったことでしょう。
昔、御用邸でも食事どきには、皇族の方が召し上がる一時間前に
御食堂
試嘗は毒味とは違って、料理内容が召し上がる皇族の方のご体調に合っているかどうかを調べたものといわれますが、今はこのようなことは行われていません。
現在、宮内庁では、
にひひ、古い地図がある!
同じものをネットで探してきました⤵
御用邸造営前の沼津町と楊原村
上図は、明治24年5月に発行されたもので、沼津町略図としながらも、狩野川の左岸の楊原村を含んだ図となっている。これは、沼津町と楊原村が地理的に一体であったことと、楊原村の動向に注目すべきことがあったためと考えられる。
二年前には、楊原村に御用邸が建設されるが、その候補として開発が榛原村にはじまりつつあった。
地図の下海岸線には、大山巌 ( 陸軍大臣 ) 、川村純義、大木喬任 ( 文部大臣 )、西郷従道 ( 陸・海軍大臣 ) の四人の伯爵の別荘が設けられている。
このうち、大木を除く三人は旧鹿児島県出身で、お互いに親交があったことから、別荘の設置についても、なんらかの相談があったことが想像される。
こうした別荘は、後に沼津市の千本浜付近にも数多く設けられるようになるが、この地図の時代にはまだそのような様子はうかがえない。
東海道線が開通してまだ二年目の段階で、早くも御用邸の設置される地区の周辺が保養地として注目されており、別荘や海水浴場などの開発が進んでいた状況がこの島郷地図からも読み取ることができる。
川村伯爵の努力
沼津御用邸の造営に対して、最も深い関りを持った人物の一人は、川村純義伯爵である。伯爵は旧鹿児島藩出身の海軍軍人で、明治11年には勝海舟 ( 安房、安芳 ) の後任として海軍卿 ( 後の海軍大臣 ) を務め、日本海軍の基礎づくりに貢献した。
伯爵は、第一線を退いた明治20年過ぎに、かねてからの希望どおり、沼津に近い島郷に別荘を設けることとなった。
伯爵は、後に明治天皇から
廸宮裕仁 親王 ( 昭和天皇 ) と淳宮雍仁 親王 ( 秩父宮 ) のご養育を命ぜられるなど、皇室の信任が厚く、沼津御用邸の設置についても、その数年前から気温調査を提唱し、景観面での利点を主張していた。上の表は、華氏で書かれているようなので、→摂氏に変換 太字が摂氏温度
平均温度 10月 東京は、60.28→15.7 沼津は、62.95→17.2 差 1.5
11月 東京は、50.00→10.0 沼津は、53.24→11.8 差 1.8
12月 東証は、41.00→05.0 沼津は、45.00→7.3 差 2.3
平均最高温度
10月 東京は、68.90→20.5 沼津は、71.96→22.2 差 1.7
11月 東京は、60.08→16.0 沼津は、62.95→17.2 差 1.2
12月 東京は、52.00→11.1 沼津は、55.00→12.7 差 1.6
「避寒の為に・・」というけれど、1~2度しか違わない 💦
また、その後も皇孫御用邸の必然性を訴えるなど、関係方面への強い働きかけをしていたことがうかがえる。
このことは地元の大中寺の記録「大中寺と沼津御用邸」や、伯爵の外孫に当たる作家・白洲正子さんの自伝 ( 「白洲正子自伝」芸術新潮1991年2月号、連載第2回“ふたりの祖母” ) でも明らかである。
伯爵は、裕仁親王のご誕生から三年後に亡くなったため、ご養育の期間はそれほど長くはなかったが、皇孫殿下をお預かりするためには家族の協力が不可欠であり、家庭が円満なことで知られる川村家ならではのことだったと思われる。
ご養育の場所は、東京では麻布の川村邸を、沼津では御用邸本邸の西隣の別荘を用いており、「ベルツの日記」でも沼津で伯爵の夫人や令嬢が、献身的にご養育にあたっている様子が述べられている。
伯爵は、生前から皇孫殿下御用邸の設置の必要性を訴えていたが、無くなって一年後の明治38年8月には川村家の別荘が買い上げられ、西付属邸として皇孫殿下の御用邸にあてられることとなった。
床の間に、珍しいものが飾られていた
君が代の歌詞にある「さざれ石」だ。
昭憲皇太后の写真があった
昭憲皇太后は、千本松にも句碑があるように、沼津がとてもお好きだったみたい。
明治42年 ( 1909 ) 61歳から、大正2年 ( 1913) 63歳までの5年間に沼津の大中寺への行啓が実に9回。崩御されたのも沼津御用邸だった。
沼津では、何年振りかで沢山の松の木を見た
ここにも川村伯爵との関係が書かれている。
川村純義伯爵が、皇孫殿下の養育にあたったと先に書いたが、
名誉なことでもある一方で、苦労もあったことだろう。
明治37年の夏、伯爵が重体になると皇室では川村家に御見舞いを贈るとともに、明治天皇は特別に伯爵を海軍大将に昇任させた。これは、退役した軍人に対する処遇としては、異例のことだった。
そして8月12日に伯爵が無くなると、明治天皇は弔意文を川村家に寄せて、伯爵に対する追悼と感謝の意を表した。
玉座用肘掛け椅子
西付属邸謁見所に展示している玉座用肘掛け椅子は、明治11年ころまでに作られた我が国の代表的な宮廷家具で、約120年の歳月を経た今でも、歌会始などの主な行事のときには、天皇皇后両陛下がお使いになっています。
この椅子は、昭和44年に旧沼津御用邸が廃止された際、宮内庁から沼津市が譲り受けたもので、その後の歳月の経過による痛みがあり、大幅な修復を必要とする状態でした。
そこで、今回の西付属邸改修に当たり、家具史研究家の小泉和子氏に依頼して、平成5年に伝統的な技法に元ぐく本格的な修復を行うことになりました。
謁見室
床の間の生け花が美しい
見事なサイドボード!
畳の上に絨毯を敷き、ヨーロッパのような家具を配置している和洋折衷なところは、
昭和レトロな雰囲気で、なんだか懐かしい。
御座所
英語表記が Living Loom になっている。
英語には御座所にあたる適当な言葉はないんだなあ。
室内を見学していたら、女性職員が生け花を持って現れた。
謁見室にも、御座所にも、花を絶やさずにいるのが素晴らしい。
御玉突場
皇室にも娯楽施設は必要だものね。
以上、西付属邸の内部があまりにも見どころが多かったので長文になってしまった。
沼津が御用邸跡を大切に保存管理して記念公園にしているのは、
この地が御用邸となったことへの誉の現れなのだろう。
ただ陳列するだけではなく、窓もピカピカ、床にもちり芥ひとつなく、
生け花も丁寧に飾り、職員がテキパキと働いている様子をみて、
御用邸を本当に大切にし、誇りに思っている気持ちが伝わってきた。
長くなってしまったので西付属邸の外まわりは、明日に回します。
資料
https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/goyotei/kinenshi/kinenshi.pdf
https://www.tabirai.net/localinfo/article/article-17104/