昼ごはんを終え、腹ごなしに千本松まで行くことにした。
私は歩いていけると言い張るも、「車で行こうよ」という一声につられ乗車。
そうだね、漁港の駐車場に停めておいたら駐車料金もったいないし、
確か千本松は無料の駐車スペースがあったハズ。
⤴ 事前にGoogleで歩き回ってリサーチしてました
MOURI がゴソゴソしているから何かと思えば
「綺麗な石ひろった」という
子供の頃は、どんぐりとか石とか色々拾って、
捨てられなくなったものだ ( ´艸`)
今日の風は半端じゃない
防波堤の上は、足をふんばっても吹き飛ばされそう
寒いし風は強いが、そのお陰で景色が綺麗だ
千本松の松林
凄いな、松が斜めになっている
ここも風の音がすごくておもしろい
千本松公園の配置図
沼津といえば、若山牧水さんと井上靖さんが住んでいらした場所
少しだけ歩いてみよう
井上靖さんの文学碑
背後の御影石に何か掘られている
千個の海のかけらが
千本の松の間に
挟まっていた
少年の日
私は毎日
それをひとつずつ
食べて育った
井上靖
井上靖さんといえば、よんばばさんに教えていただき読んだ「しろばんば」が思い出される。
井上靖文学碑について
作家井上靖 ( 文化勲章受章者、沼津市名誉市民 ) は、明治四十年 ( 1907 ) 5月6日軍医だった父隼雄の任地旭川で生まれました。父の転属のため、母ややゑとともに父母の故郷天城湯ヶ島に移り、五歳から十二歳までは家族と離れて養祖母かのと暮らしました。名作『しろばんば』は、その頃の天城湯ヶ島における、かのとの生活を題材にしてものです。
大正十一年 ( 1922 ) 旧制中学二年のとき、浜松中学から沼津中学 ( 現 沼津東高校 ) に転校し、沼津での中学生活を描いた自伝的小説『夏草冬濤』に登場する文学好きの友人、藤井壽雄、岐部豪治、露木豊、金井廣らと交わり、詩を書き、歌を作り、小説を論じて、文学への眼が開かれました。
旧制第四高等学校、京都帝国大学を卒業後、毎日新聞社勤務を経て戦後の文壇に颯爽と登場し、平成三年 ( 1991 ) 1月29日83歳で亡くなるまで、芥川賞など数々の賞に輝く多くのすぐれた作品を残し、人々から敬愛されています。
井上靖は、「私が小説を書くようになったのは、沼津の町のお陰であり、その頃一緒に遊び惚けていた何人かの友達のお陰である。人生というものがどんなものか、生とは、死とは、文学とは、⸻そうしたことに関する最初の関心を、私はこの町とこの町の友だちから教わったのである」と述べ、千本浜で遊んだりして過ごしたすばらしい青春の日々に思いを寄せ、井上文学の原点が沼津中学時代にあったと述懐しています。
この文学碑は、昭和38年3月沼津中学卒業性の岡野喜一郎、斉藤了英、鈴木松夫等が中心となって建立されましたが、潮風による損傷のため、平成4年3月沼津市が改修しました。設計は建築家菊竹清訓で、彫刻家木村賢太郎制作のシンボルが置かれた御影石の台座には、井上靖の代表的作品名が刻まれています。
沼津市教育委員会
説明書きにもあるように、この浜は本当に潮風が強い
松が斜めになっているのを見ただけでもわかります
風が強いと、景色は綺麗だけれど、結構疲れる (;'∀')
牧水さんの碑があるらしいところまで行こうと思ったけれど、断念します。
最後にこの説明書きを見て、移動する
くれぬまに 沼津のさとに つきにけり
しばし みてこむ 海のけしきを
うーむ、お上手なのか? しつれい
昭憲皇太后は57歳だった明治39年 ( 1906 ) に初めて訪れて以降、毎年、避寒などのためによく沼津御用邸を訪れていらしたようだ。
1912年までは1~4月、1913年は1~7月滞在した後、12月に再訪。
年を越して過ごす中で発病して危篤状態となり、1914年4月9日にここ沼津の御用邸で狭心症のため崩御。 ( 公式には4月11日 )
こんなに長い時間滞在されたのか、本当に沼津がお好きだったのだろう。
沼津旅行 つづく