Roar of the Boar

日記として

2019年2月2日

    イスタンブールをアジア側からヨーロッパ側から渡るとき思い当たる手段は主に三つ、地下鉄マルマライかバスか船か。もちろん他にも自動車とか色々あるけど今の自分は大体この三つのどれかを選択することになる。バスは酔うからNG、マルマライは風情がない、ということで基本的に急ぎではない場合は船で渡る。乗り心地は頗るよく、静かな揺れで程よく海の息づいている様を感じることができる。個人的にはトルコで一番快適に読書を楽しめるスペースなわけです。で読むのは特に理由はないんだけど『雪国』

    こう、異国にいると島村の身勝手さが理解できる気がするのだ。島村は駒子と葉子を通して「生」の美しさを見るけどそれを手に入れようとはしない。駒子が島村に本気になればなるほど島村は彼女から離れようとする。なるほどそれはそもそも所帯を持つ男の態度としては理にかなっているのかもしれないがそれでも冷酷に見える。その甲斐性の無さとそれに半ば酔っているかのような島村の態度はおそらく男性でないと理解が難しいだろう。まぁそこはどうでもいい。大切なのは「生の美」を見いだしつつも決して交わろうとしない島村の在り方なのだ。そんな分厚い作品でもなく四度ぐらい読み直して少しだけこの小説の意味が分かってきた気がするのだ。これは旅そのものを語る小説なのだ

    異国の「悲しいほど」の美しさを感じ、それに憧れつつも、決して溶け込めはしないと理解している旅人の話なのだ。駒子との逢瀬はある種旅人ならば誰もが憧れる光景だ。旅先で美しい女と美しい場所で暮らす。羨まない者がいるか。しかしそれは叶わない。それは旅ではないから。旅とは比較で成り立つ。帰る場所があるから行き先は美しく見える。もし家を捨てればそれは旅先を踏みにじる行為そのものなのだ。そういう意味では本当に悲しいのは現実を理解してしまっている島村の方なのではないか。『雪国』とはこの葛藤を描き出しているから名作なのではないだろうか。この旅に対する認識をトルコの留学で少し学んだ気がする。いや、個人的にそんなトルコに悲しいほどの美しさは見出さなかったけど、この自分が「旅人」であるという、どう足掻いても家とはなり得ないという感覚を獲得したことが『雪国』を愛読するようになった原因ではないだろうか、と勝手に分析している

    そういえば来週の今頃はとっくに自分の家か…