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堀田正睦

ほったまさよし

江戸時代末期の老中。

概要編集

1810(文化7)年8月30日~1864(元治元)年4月26日

下総佐倉藩主。

西洋事情に精通しており、蘭学奨励に努めたことから蘭癖(西洋かぶれ)とあだ名された。


1837(天保8)年7月8日に老中に就任し水野忠邦の「天保の改革」に参画する。しかし改革自体には反対しており、1843(天保14)年閏9月8日に辞任。 水野の退任前に辞めることができたことで、将来の老中復帰の可能性が残ることになった


1855(安政2)年10月9日に老中に再任。首座と外国掛を兼務する。

日米修好通商条約の調印の勅許を得るべく朝廷に願い出るが、岩倉具視をはじめとする条約調印反対派の公家に阻まれる。また時を同じくして井伊直弼大老に就任しており、実権も奪われることになった。


さらに同時期発生した第14代将軍選出に関しては、政治的に対立していた水戸藩主・徳川斉昭の子である一橋慶喜を信用できないことから南紀派に属していたが、先述の勅許を得るためやむなく一橋派に鞍替えすることとした。しかしこれが裏目に出てしまい、南紀派の井伊に実権を奪われたことで1858(安政5)年6月23日に老中を罷免され、1859(安政6)年9月6日には安政の大獄の嵐が吹き上げる中、強制的な隠居命令によって藩主を退くことになった。

安政の大獄で処分を受けた大名の中では軽いもの(隠居の上で閉門処分を受けるものが多かった)であったが、これにより「堀田が井伊に鞍替えした」との邪推を生むこととなり、桜田門外の変で井伊が討たれた後の1862(文久2)年11月20日、安政の大獄で処分された大名たちの処分の解除がされる中、朝廷と幕府より逆に蟄居の処分が下され、さらに2年後の1864(元治元)年3月21日に蟄居中のまま死去した。享年55。


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江戸時代 江戸幕府

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