活字 (Movable type) |
とは、 |
活字とは、活版印刷において文章を組むために用いられる、文字の凸刻された四角柱。名称の「活」は活版に由来する。活版印刷は西洋では聖書の普及のために15世紀から広まり、日本では江戸幕末期以降の印刷業界に普及していったものである。ハンコを沢山集めて文章を組むような技術と考えていただきたい。
材質は歴史的に様々なものが作られたが、近代ではグーテンベルクの発明に由来し、鋳造において大量生産の可能な金属活字が主流を占めている。鉛にスズ、アンチモンを加えた合金が主であった。文字の大きさを表す単位には「ポイント数(pt)」または「号数(号)」がある。高さは一定で、JIS規格では23.45mmと定められていた。
これに込め物・インテル(空白)を組み合わせて製版し、活版印刷が行われた。図や作字のために木版を組み合わせることも多かった。
活字の技術は近代、書籍、新聞などに幅広く用いられた。新聞ではより多くの活字を詰めるため、活字の扁平化が行われるなどの変化があった(新聞活字)。
また、活字に特有の字形は一部の常用字体に影響を与えた。四角に収められた仮名の活字は字体の整理や変体仮名の統一にも影響を与えたという。なお、活字で彫られる対象は文字だけでなく、記号や、”飾り罫”といった装飾のための活字も用意されていた。
活版印刷の衰退した現代では、書籍や新聞、印刷物やデジタルの媒体を含め、一つの書体でまとめられ印刷された「文章」のことを指して用いられることの方が多い。本の文章を読む愛好家のことを指して活字中毒なる言葉が生まれるほどである。
活字に用いられる文字の形(書体)のことを指すこともあるが、字型そのものとの混同を避ける目的で、活字書体とか、活字体といった呼び分けがなされる。
活字を鋳造・製造する会社を英語圏ではタイプファウンドリーと呼称した。この名称は、書体制作の現場がデジタルに変わった現在、デジタルフォントを開発または販売する会社に対して用いられている。
そもそも印刷という技術は活字とともにアジア圏から発祥したとされ、7〜8世紀における中国での「木版印刷」が原初のものと考えられている。木を彫って図や文字を表し繰り返し印刷できるようにしたものであるが、多くは版木に文章を丸ごと彫っていた(一枚刷り)。近代〜現代ではこうした木版印刷に用いられた文字全般を木版活字と言うことがある。11世紀以降の中国では盛んに印刷が行われ、北宋期、明朝体や宋朝体といった彫刻のための活字書体が成立した。
日本では10〜11世紀頃、摺経といって仏教の教典を多量印刷する供養が行われ、これに木版印刷が行われていた。ただ、これらは決まった書体に従ったものではなく、あくまでも直筆の書風が反映されたものとなっていた。
一文字一文字が分離して凸刻されたかたまり、つまり活字といわれるものの製造が始まったのもかなり早期となっている。中国においては、11世紀頃、粘土の塊を用意してそれに一文字ずつ篆刻、陶器にしたもの(膠泥活字)が知られる。一方で広く広がっていたのは木による活字(木活字)で、中国やその周辺諸国での製造がなされていた。
ひとつずつ篆刻する活字(彫刻活字)が広がる一方で、金属を鋳造して作られるいわゆる金属活字(鋳造活字)は、13世紀頃の高麗で銅活字によって刷られたとされるものが伝わっており、物的証拠は残っていないもののこれが初のものであったとされている。しかし、漢字など文字数の非常に多かったアジア圏では、製造や再版などのコストによって長らく木版印刷を超えることはなかった。
しかし15世紀、金細工師のヨハネス・グーテンベルクが鉛合金を用いて欧州における初の金属活字を発明、活版印刷が大きく勃興した。グーテンベルクが金属活字の他にも油性インキや印刷機、金属活字の鋳造装置などを発明したこと、英語圏で文字数が少なかったためにアジア圏で起こっていたネックが無かったこと、聖書の印刷需要なども手伝って急速に広がりを見せ、次々に印刷所や活字鋳造所(タイプファウンドリー)が開業した。活字を表すタイプ、文字のサイズを表すポイントなどといった用語もここから広がった。17世紀にはタイプライターという、鍵盤を打ち込むことで活字を印字できる機械が開発された。
一方日本においてはイエズス会が16世紀頃に日本にグーテンベルクの活版印刷技術を輸入し和字の活字鋳造を行ったが、やはり木版印刷からシェアを奪うことはできなかった。「学問のすゝめ」や「西国立志編」も木版による印刷であった。
幕末期、西洋の技術の輸入が進む中でようやく活版印刷も脚光を浴びることとなる。何人かが製造に成功した中で、本木昌造らは明治期に上海・美華書館のウィリア ム・ガンブルを招聘して技術を学び、同館の明朝体活字を複製、明朝体の仮名書体や新規の書体を開発するなどして活字鋳造所を開業した。これがのちの東京築地活版製造所に繋がる。東京築地活版製造所は和字・漢字含めた活字を次々と鋳造し、日本で最大のファウンドリーとなり、和文活字の礎を築き上げた。その後、東京築地活版製造所の活字をもとに非常に多くの鋳造所が開業。日本における明朝体、ゴシック体、丸ゴシック体、宋朝体、楷書体、アンチック体、ラテン体、ファンテール体といった和文書体はこの頃に整理され、ある程度の形をみせる。
築地活版の活字を元に、秀英舎(大日本印刷)が独自書体を作るようになり、またその後もイワタ、モトヤ、日本活字工業、弘道軒など独自の字母を作り上げる鋳造所が現れていった。出版社や新聞社でも独自に開発・鋳造を行うところがあり、津田三省堂などが大きな影響を残している。なお、木版活字製版業から開業した企業としては精美堂(日本リテラル)が今日まで存続している。
写真技術を用いて文字を印字する写真植字(写植)が発明されて以降も活版印刷にも一定の需要が残り、20世紀後期まで残り続けることとなっていた。また、写真植字による書籍の文字についても活字と呼ぶ用例は残り続けた。
しかし、時代が進むと共に、活字を保管するために場所を取り、コストもかかる活版印刷業界は衰退していった。DTPの登場が決定打となり、21世紀初頭以降、多くの活字製造所が閉業している。
印刷技術が進歩する中で、多くの活字鋳造所は閉業するか、DTP・オフセット印刷に移行した。活字書体を独自に開発して鋳造していたファウンドリーも、閉業するか写植を経てデジタルフォントへ制作の媒体を変化させた。
それでも、現代まで鋳造や印刷を続けている会社も残っている。2021年現在、築地活字、中村活字、佐々木活字店といった企業が現在も機械や活字を保持し、鋳造や印刷を行なっている。主に、名刺の印刷などの用途で利用する客が多いようである。
しかし、それでも安く印刷できるDTPの普及は大きく、斜陽は続いている。また、活字を鋳造できる職人の後継者、当時を知る技術者や設計士も少なくなってきている。種字彫刻師、地金彫刻師といった彫刻師はすでにほとんど残っていない。”最後の活字地金彫刻師”と謳われた清水金之助は2011年に死去した。
小塚ゴシック・明朝の開発で知られる小塚昌彦も活字を手がけていた技術者の一人である。長崎・諏訪神社に奉納されていた本木昌造らによる約3000文字の種字のうち、「三号和様平仮名」の模刻復元プロジェクトに携わっている。
近年まで活版印刷を行っていた豊文社印刷所は2021年3月をもって活版印刷業の終了を発表、また東京築地活版製造所の支流の一つとして流れを汲む活字鋳造所の築地活字も、コロナ禍において名刺の需要が落ちたこと及び後継者不足によって存続の危機に直面したと明かし、クラウドファンディングを実施。これには目標の574%もの支援が集まった。
福岡の活版印刷会社文林堂は、活版印刷の事業を後世に残すために、2022年2月4日より事業承継プラットフォームで後継者の募集を開始した。
また、使われなくなった印刷機や活字を次代に引き継ぐべく買い取り仲介を行う「活版レスキュー」という活動会社も現れている。
製造を終了した企業の中でも、凸版印刷は「印刷博物館」という博物館を開き、その技術を今に伝えている。秀英舎こと大日本印刷は2021年に「市谷の杜 本と活字館」を開いている。活字の鋳造を知る技術者へのインタビューやその書籍化なども行われてきている。
十世紀以上にわたって積み上げられてきた印刷技術と活字書体は、途絶えることなく後世に伝えられていかなくてはならない。
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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