宇都宮広綱の息子で下野宇都宮氏最後の当主。いろいろありつつも何とか生き残ってきた宇都宮氏。彼も何とか豊臣秀吉に仕え、公家成大名の一員となったが、おそらく浅野長政と石田三成の政争の余波で改易させられてしまった。
領域的には下野最大の大名となった父・宇都宮広綱は、佐竹義昭娘との婚姻を機に、佐竹氏と同盟を結んだ。以後、上杉・北条・武田の戦いに振り回されるうちに、元亀3年(1572年)に皆川俊宗が反乱する。宇都宮広綱はすでに病気であり、甲相同盟の成立が、皆川俊宗の暴走を招いたようだ。
しかし、宇都宮広綱は、佐竹義重らと連合してこれにあたる。結果、北条氏政が皆川方につき、後北条氏対「東方の衆」と呼ばれる北関東の国衆連合の戦いに入る。
しかし、天正4年(1576年)に小山秀綱の祇園城が落城。同族の結城晴朝は危機感から、宇都宮広綱の次男で宇都宮国綱の弟・結城朝勝を養子とした。かくして、佐竹・結城・宇都宮の同盟は、北条氏政の侵攻を押しとどめ続けたのである。
小牧長久手の戦いと連動した沼尻合戦でも決定的な勝負はつかず、下野は徐々に北条氏政のものとなった。宇都宮国綱は多気山に居城を移し、これに抵抗し続けた。しかし、時代は大きく変わることとなる。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏攻めを行った。ここで宇都宮国綱は、いとこ・佐竹義宣とともに、豊臣秀吉に臣従する。かくして、後北条氏滅亡後、豊臣秀吉はこの宇都宮国綱の領地で東国の配分を定める宇都宮仕置を行い、豊臣大名となった宇都宮国綱は、羽柴下野侍従として、公家成大名の一角にもなったのである。
かくして、彼の取次となったのが、浅野長政である。宇都宮国綱は浅野長政の指示で、領地の検地を進め、常陸の佐竹氏と同様、近世大名への転換を進めていた……はずだった……。
ところが、慶長2年(1597年)、宇都宮国綱が改易される。この理由として以下の3点が主張されてきた。
ここで、市村高男や江田郁夫らに検討が進められているのが、3である。これは以下の理由である。
つまり、石田三成と浅野長政の集権派、分権派の争いが、両者痛み分けに終わった結果、宇都宮国綱一人だけが盛大に割を食ったとするのである。ただし、宇都宮国綱も領知の過少申告や、浅野長重との養子縁組を断るなど、浅野氏との関係に失点が多かった。要約すると、浅野長政ともっと良好な関係が結べていれば、佐竹氏のように回避できた可能性もあったかもしれないのだ。
宇都宮国綱は、当初は悲しみつつもこの状況を受け入れた。しかし、状況を悟り始めた慶長5年(1600年)には侫人のせいでこうなったのだとしており、おおよそこれは浅野長政を指しているとされている。
改易後の旧宇都宮領には、上述の通り蒲生秀行が入った。松平忠明が書いたとされている『当代記』には、浅野長政と協力して宇都宮領を収めようとしたこと、宇都宮国綱へ豊臣政権が散々無茶振りしてきたことが一気に表面化し、宇都宮国綱がいなくなった混乱で、悲惨な状態になっていたことが書かれる。
一方で、宇都宮国綱は宇喜多秀家に預けられた。そして、復権を狙って、家臣団を引き連れ朝鮮にわたる。ところが、これが完全な徒労に終わる。とはいえ、宇都宮国綱は豊臣秀吉死後に徳川家康に接近し、この経験から一人浅草で没したとされる。結果、宇都宮国綱の息子・宇都宮義綱が徳川頼房以後の水戸徳川家に仕えたこと、国綱の娘が徳川和子の乳母になったこと、などの徳川家への接近につながったのである。
なお、結城氏に入った弟・結城朝勝は、結城秀康の養子入りに伴い追い出され、佐竹氏に付き従った。末弟の芳賀高武は石田三成に仕え、この影響で以後の史料に恵まれないとされている。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける宇都宮国綱の能力一覧。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 45 | 政治 | 48 | 魅力 | 68 | 野望 | 54 | 教養 | 54 | ||||
覇王伝 | 采配 | 75 | 戦闘 | 55 | 智謀 | 44 | 政治 | 56 | 野望 | 54 | ||||
天翔記 | 戦才 | 100 | 智才 | 96 | 政才 | 122 | 魅力 | 75 | 野望 | 66 | ||||
将星録 | 戦闘 | 45 | 智謀 | 53 | 政治 | 62 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 65 | 戦闘 | 40 | 智謀 | 61 | 政治 | 55 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 54 | 智謀 | 49 | 政治 | 46 | 野望 | 46 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 45 | 知略 | 51 | 政治 | 57 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 45 | 知略 | 51 | 政治 | 57 | 教養 | 49 | ||||||
革新 | 統率 | 58 | 武勇 | 67 | 知略 | 57 | 政治 | 64 | ||||||
天道 | 統率 | 58 | 武勇 | 67 | 知略 | 57 | 政治 | 64 | ||||||
創造 | 統率 | 56 | 武勇 | 64 | 知略 | 58 | 政治 | 64 |
掲示板
2 ななしのよっしん
2021/06/05(土) 16:17:09 ID: Kesh2LrwVu
そこら辺は荒川善男論文あたりでフォローできるので、ちょっと待っててくだせえ
後、宇都宮国綱改易事件は無茶苦茶研究史が厚いので、もっと伸ばそうと思えば伸ばせる
(正直初稿は手を抜いて済まなかった感はある)
3 ななしのよっしん
2022/12/16(金) 19:41:18 ID: QyHp2cxfuP
中央の政争に巻き込まれただけだわな
石高半分詐称説も当時の宇都宮が18万石で下野全体で37万石だから、本当は倍だったなんて話だと宇都宮だけで下野一国分なんてあり得ない数字になるし
けど宇都宮の当主ってみんな能力ありそうなのにな、成綱の後が忠綱以外ならもっと安定してたんじゃないかなあ
4 ななしのよっしん
2023/06/08(木) 13:17:38 ID: xqagWVJJpc
前半は下野宇都宮氏の記事として新たに作り、ここでは国綱の記述を主にした方がいいんじゃないかな
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最終更新:2025/01/11(土) 20:00
最終更新:2025/01/11(土) 19:00
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