嘉納治五郎(1860~1938)とは、近代日本で活躍した柔道家・教育者である。
かいつまんで説明すると近代スポーツとしての柔道の創始者。また、幻となった昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致にも尽力した人物である。柔道の近代的な側面と、父の代から続く要人との人脈や教育界の重鎮としての立場によって、柔道の地位を高めていった。
その経歴から、高校日本史には出番がないのだが、高校体育の教科書には大体名前が載っている人物である。
万延元年(1860年)という、幕末の激動の中摂津国御影村に生まれた。生家は菊正宗や白鶴を醸造する酒造(後の嘉納財閥)の分家であり、祖父・嘉納治作は酒造・廻船を営む名望家であった。さらに、日吉神社の禰宜・生源寺家の出身である父・嘉納治郎作は幕府の廻船方御用達を務め、文久2年(1862年)に勝海舟と共に砲台築造工事を請け負い、慶応3年(1867年)には幕府所有の汽船で日本初の洋式船による定期航路を開き、名字帯刀を許された人物であった。
嘉納治五郎は新政府のもとでも活躍した父に連れられて、11歳の頃東京に移住した。それ以前から四書五経を修めていたほどの秀才であったようだ。明治8年(1875年)に官立開成学校に入学。明治10年(1877年)に東京大学となるその学校で、嘉納治五郎は文学部に属し、理財学を専攻した。
大学でアーネスト・フェノロサに感化されつつ、明治14年(1881年)に文学部を、明治15年(1882年)に大学そのものを卒業する。在学中から教鞭を握っていた学習院に属し、出世を遂げ教授へと昇り詰めていった。しかし、谷干城、大鳥圭介といった歴代学長に高く評価されていたにもかかわらず、後任である三浦梧楼の華族を特別扱いする方針と対立。この結果、職を辞すこととなった。
ヨーロッパへ外遊し、教育制度等を視察したのち、竹添進一郎の次女・竹添須磨子と結婚し、熊本第五中学校の校長に抜擢。しかしすぐに東京に呼び戻され、数か月の第一高等中学校の校長の職務を経て、東京高等師範学校の校長となり、大正9年(1920年)の定年まで同職を務めた。
定年退職後も活動を続けた結果大正12年(1923年)に貴族院議員に任命。教育政策に従事していく。
一方で、明治42年(1909年)に国際オリンピック委員会の委員となり、明治45年(1912年)に日本オリンピック委員会が創立され、初代会長に就任。同年のストックホルムオリンピックでは初参加である日本選手団の団長となり、大正9年(1920年)のアントワープオリンピックでも同じく団長を務めた。
かくして昭和13年(1938年)にカイロの国際オリンピック委員会で昭和15年(1940年)の東京オリンピックを採り付けるも、その帰路で急死。東京オリンピックも戦争の激化で中止となり、幻のオリンピックと化した。
小柄で体力のなかった嘉納治五郎はいじめに遭い、柔術を習おうとしたが、父・嘉納治郎作からは上流階級の人間がやるべきではない、時代遅れ、といった理由から許可されなかった。そこで嘉納治五郎はこっそりと天神真楊流、起倒流の柔術を習い、他の流派の研究にも取り組んでいく。さらに海外のレスリングの技なども取り入れ、嘉納治五郎が講道館柔道と名付けた近代柔道が創始されたのである(なお、嘉納治五郎に言わせると「術も講ずるが、主とするところは道である」ということで柔道と名付けたとのこと)。
明治15年(1882年)に講道館を設立すると、秘密主義を廃した近代的な開かれた性格や、級・段の階級の導入による客観的な基準化が受け、成功したのであった。
また、嘉納治五郎の勤めた東京高等師範学校は中学校の校長の養成校であったため、学校で学んだ嘉納治五郎の弟子によって全国に柔道は広められていった。
さらに、警察における全国的に規格化された柔術の導入を考えていた警視総監・三島通庸との出会いによって、講道館柔道が警察に採用される。ただし、この背景には嘉納治五郎の柔道の基準化のみならず、イデオロギー的な側面があったとも。
もともと、父の代から要人に近い家柄だったので、人脈を有した人物であった。例えば品川弥二郎は父の代からの付き合いであり、講道館の黎明期には支援を受け、嘉納治五郎は彼の用心棒を引き受けたとまで言われている。他にも勝海舟との人脈によって、日本海軍への柔道の浸透が進んだともいわれている。
さらに、政治家の中でも加藤高明、西園寺公望、平沼騏一郎らとも親しく、近衛文麿が嘉納夫妻に仲人を依頼したほか、西園寺公望からの依頼で亦楽学院(後の弘文学院→宏文学院)を開き、黄興、胡漢民、魯迅などが学院で学んでいる。
一方で、嘉納治五郎が開いた講道館には、広瀬武夫、財部彪、八代六郎といった大物軍人たちも顔を出していた。講道館に華族の子弟や帝国大学の学生が多くいたことが、柔道への偏見を弱めた役割を果たしたともいわれている。
第一次世界大戦を境に、二つの時期に分かれるとされる。前期の嘉納治五郎は、伝統的な価値観を保存しながら、日本を円滑に近代化させ、欧米列強に対抗できるようにすることに焦点を置き、その過程で柔道が中心的な役割を演じるとしたのである。嘉納治五郎が柔道を万能薬的な機能を果たすと考えていた背景には、ハーバード・スペンサー等からの影響があるとされる。
ところが、第一次世界大戦後の激動の中で、嘉納治五郎は柔道は「不健全な」思想の浸透を阻止できる役割があると主張するようになる。平沼騏一郎の支援の下、大正8年(1919年)に金曜会を設立。柔道が「時弊」を矯正し、必要に応じてそれを除去する、と考えていったのであった。
演:役所広司
物語において日本におけるオリンピックをめぐる動きのトップバッターを担う、重要人物。
行き当たりばったりの破天荒な人物だが、国際社会では信用されており、スポーツの可能性を心から信じている。
ピエール・ド・クーベルタンとの対談でオリンピックの思想に惹かれ、周辺の人物を丸め込み大日本体育協会を設立。以後、日本初のオリンピック出場をかけ、天狗倶楽部の協力もあって、金栗四三、三島弥彦を明治45年(1912年)のストックホルムオリンピックに送り込む。
さらに、大正5年(1916年)のベルリンオリンピックの中止から立ち直り、次々と新機軸を打ち立てていく金栗四三に感化され、日本へのオリンピック招致を決意。田畑政治などの若者にも負けず、昭和7年(1932)年のロサンゼルスオリンピック以後本格的な招致を進める。
激化する国際情勢の中、ベニート・ムッソリーニへの根回しなど清濁併せた手でついに昭和15年(1940年)の東京オリンピックを実現するが、昭和11年(1936年)のベルリンオリンピック以後の東京オリンピック実現への動きの中で、国際社会での日本の立場悪化や軍部の台頭などもあって委員会の中でも孤立していく。ついには、田畑政治からのオリンピック返上の嘆願も振り切った昭和13年(1938年)のカイロでの国際オリンピック委員会からの帰路、平和な祭典のオリンピックを最後まで夢見ながら客死することとなった。
ところが、以後も田畑政治に聞こえる天の声として、ドラマには声だけで出演していく。
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最終更新:2024/12/23(月) 10:00
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