唐王朝とは
ここでは最も有名な1について記す。
唐王朝とは、中国にあった王朝(618~690、705~907)である。
618年の李淵の即位から、武則天の周を挟んで、907年朱全忠の即位まで存在した王朝。
日本では遣唐使もあって、日本の政治システムを越えて国家そのものに強い影響を与えた。
世は隋末期。度重なる遠征の失敗の民衆に重くのしかかった重税を主因として各地で反乱が勃発。皇帝、煬帝は部下に殺され中国は再び大戦乱時代を迎えた。その中で台頭した群雄の一人が唐の李淵である。
618年6月、長安の大極殿で唐王朝の初代皇帝、李淵の即位の儀式が行われた。これが唐の高祖である。李淵は長男の建成を皇太子に、次男の世民を秦王に、4男の元吉を斉王に任命し(三男は既に死去)、各地の抵抗勢力の鎮圧に向かわせた。
その中で活躍が光ったのは次男の李世民である。世民は若い頃から武勇と知略に優れ、父の李淵に挙兵を進言したのもこの李世民だとされる。李世民は太原を占領していた劉武周を征伐し、さらに洛陽を拠点に皇帝を名乗った王世充を破って唐の基盤を整えた。
624年、李世民は敵対勢力を5年かかって平定し長安に凱旋してきたが、世民の余りの人気に皇太子の建成は彼を疎ましく思い、626年玄武門にて四男の元吉と共に世民の暗殺を企む。しかし世民はこれを見破り、逆に二人を討ち取ってしまった。この事件を玄武門の変という(世民の方が先に二人を殺そうとしたという説もある)。
この事件を機に皇太子となった李世民は高祖を閉じ込め、二ヶ月後には位を譲らせた。中国史に残る名君、二代皇帝、唐の太宗である。
太宗は親政を開始すると、こびへつらう側近をしりぞけ魏徴などの有能な側近を重く用いるようになった。太宗の治世により、国力は高まり近隣諸国は貢ぎ物を持って唐に訪れるようになった。これを讃えて太宗の治世をその元号を用いて貞観の治と呼ぶ。
629年、出国を禁じる国法を破って一人の僧侶が天竺(インド)に旅立って行った。これが西遊記のモデルとなった玄奘(げんじょう)である。
また630年には犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らを乗せた、はじめての遣唐使が日本からやってきた。当時の長安には小野妹子と共に遣隋使として先にやってきていた南淵請安(みなぶちのしょうあん)や高向玄理(たかむこのくろまろ)が住んでおり、御田鍬は二人から唐の政治の仕組みを学んだとされる。
唐の政治の基本は律令制度であり、それを押し進めるための役所に三省六部(りくぶ)があった。三省とは、皇帝の命令を文書にする中書省、文書を審査する門下省、六部を管轄して皇帝の命令を実施する尚書省。
また六部には役人を管理する吏部、戸籍・土地・税を管理する戸部、祭祀や教育・科挙・外交を扱う礼部、軍事・警護を司る兵部、裁判や刑罰を担当する刑部、土木・建築事務を扱う工部があった。農民に土地を分け与える代わりに租(麦・米)庸(20日の労役か布)調(綾、絹、真綿など)の税が課せられる均田制が用いられており、これらの政治システムを学んだ御田鍬らは日本に戻り、日本の政治システムに取り入れていった。
630年、北方の遊牧民族、東突厥を平定した太宗はその目を西へと向けた。640年、高昌(トゥルファン)を滅ぼした唐軍は、さらに西の亀茲(クチャ)、疎勒(カシュガル)、于闐(うてん、ホータン)まで軍を進めた。この頃の東の朝鮮半島では高句麗、新羅、百斉の三国が争う三国時代であった。644年、唐は高句麗に軍を進めるも隋と同じく失敗してしまう。
645年には玄奘が16年ぶりに帰国。玄奘はインドのナーラーンダー寺院で仏教を学び、仏教の聖典を三種に分類した経蔵、律蔵、論蔵の三蔵の教えをよく知る事から三蔵法師と呼ばれ、太宗に重用された。玄奘は大慈恩寺で膨大な数の教典の翻訳にとりくみ、その教典の数は1237巻にも及んだとされる。また玄奘は天竺への旅行記として大唐西域記を著した。玄奘の旅は宋の時代に面白おかしく伝えられ、明の時代には小説家の呉承恩によって西遊記として世に広まった。
649年、太宗は亡くなり3代目皇帝として高宗が即位した。高宗の妻、王皇后には子供がいなかったのだが、王皇后は他の女に高宗を奪われる前に、かつて太宗の後宮にいて高宗が寵愛していた武照を利用して、自分の権勢を保とうとする。この武照と呼ばれた女性が後に中国史上最初で最後の女性皇帝となる武則天(則天武后)である。武照は自分の子供を扼殺し、その罪を王皇后に着せる事によって自ら皇后の地位に上り詰めた。
一方で朝鮮半島では三国の戦いが更に激しくなっていた。660年、太宗の時代から唐に接近していた新羅の武烈王は高宗とも国交を結び、これに対して高句麗と百斉は同盟を組んで新羅に対抗した。同年、百斉と高句麗の連合軍は新羅の領内に深く侵攻。唐はこれを救援するために10万の援軍を船に乗せて半島に送った。唐と新羅の連合軍は百斉の都、泗沘(しび)を陥れ、旧都の熊津(ゆうしん)をも占領し、国王の義慈も唐に連れ去られてしまった。百斉の将軍、鬼室福信は倭(日本)に救援を頼み、662年、これに応じた倭は170隻の船と安曇比羅夫(あずみのひらふ)将軍を、当時日本にいた百斉の王子、豊璋を連れさせて派遣した。
663年、斉明天皇と皇太子中大兄皇子は更に阿部比羅夫、上毛野君稚子(かみつけぬのきみわかこ)、巨勢神前臣訳語(こせのかんさきのおみおさ)ら270000の増援軍を400以上の軍船に乗せて百斉に向かわせるが、日本と百斉の連合軍は陸上でも大敗北を喫する。これが白村江の戦いである。唐の反撃を恐れた中大兄皇子は九州の太宰府に水城(みずき)を築いたとされる。
この後、唐は新羅と共に高句麗の首都平壌に攻め込み、約800年も続いた高句麗はここに滅んだ。高句麗の遺民と高句麗に服していた靺鞨人は現在の東北地方に逃れ、698年に、靺鞨人の指導者、大祚栄(だいそえい)が震(後の渤海)を建国した。渤海は9世紀に海東の盛国と呼ばれ全盛期を迎える。また新羅は高句麗を倒した後、朝鮮独立のために唐から離反し抵抗運動を開始した。
683年に高宗が亡くなると武太后の子供4代目皇帝、中宗が即位した。しかし武太后は野心を露にし、わずか54日で中宗を廃位させ、自らの傀儡である5代皇帝睿宗(えいそう)を即位させて自ら政治を執るようになった。武太后は皇帝候補である自らの子供達を次々と殺害していき、690年ついに武太后は自ら皇帝になり唐の国号を周と改めた。武周革命による武則天(則天武后)の誕生である。
武則天は漢の劉邦の妻、呂后、清末期の西太后と並び中国三大悪女とか呼ばれる程で自らの反対者を次々と粛正していった。しかし、武則天には人を見る目があったのか腐敗した役人を排除し優秀な官吏を次々登用し、更に農業を進めるように水利工事を行い農業を発展させたため、宮殿の混乱とは裏腹に社会や経済は発展した。この特徴は呂后政権にも見られることである。(西太后は贅沢ばっかしてたので反乱が多発し清朝にとどめをさした)。粛正や政治権力の乗っ取りは男なら数多くの皇帝や政治家が行っているが、呂后や武則天だけ悪として伝わるのは、直接的女性権力者の数が少ないこと、儒教文化の影響があるなどが理由とされている。また武則天は新しい則天文字というものを作り、日本にも渡ってきたがいまいち広まらなかった。唯一日本にも残る則天文字は、水戸黄門で有名な水戸光圀の「圀」の字である。これが実は則天文字なのだ。
女性皇帝として権勢を誇った武則天であるが、しかし705年に病に伏した武則天に対して、宰相の張柬之(ちょうかんし)が軍事的脅しを背景に退位を迫り、中宗が二度目の即位をして唐王朝は復活した。同年11月、武則天は崩御し、周王朝の皇帝として夫であった高宗の隣に葬られた。
皇帝に返り咲いた中宗であるが、その執政は妻の韋后のいいなりであった。中宗に政治能力はなく、政治は乱れるばかり。韋后に反対するものは大臣でもすぐに殺されてしまった。農村では家も田畑も捨てて逃げ出す者が続出した。韋后はとうとう中宗を毒殺し、武則天を見習って自ら皇帝につこうとするも、中宗の甥の李隆基に710年に反乱を起されて殺されてしまった。武則天と韋后の二人の女性が政治権力を握ったこの時期を二人の名前からとって武韋の禍と呼ぶ。
韋后の死後、李隆基の父の睿宗が二度目の皇帝位につき、その2年後712年、李隆基は玄宗として即位した。玄宗は元号を開元とした上で政治改革を次々と行った。玄宗の政治を支えたのは武則天に見いだされた姚崇 (ようすう)や宋璟(そうえい)などの政治家や、科挙出身の張説(ちょうえつ)や張九齢などの役人達であった。
717年には吉備真備や阿倍仲麻呂、僧侶の玄昉(げんぼう)を含めた557人もの遣唐使が日本からやってきた。この頃から大和から日本に国号を改めたとされている。その3年後、阿倍仲麻呂は唐の役人として玄宗皇帝に仕えることになり、朝衡と名乗るようになった。また詩仙、李白とも交友を持った。玄宗皇帝の治世は開元の治と讃えられ、千里の旅をするのに短剣一ついらないと言われるほどの平和を見せた。
しかし742年に年号を天宝と改めた頃から様々な問題が表出するようにった。安西の辺境では突厥の攻撃が激しくなり、それに対抗して現地で兵を募集するために節度使に徴税権を認めた。こうして中央政府の府兵制は崩れて行き、かわって兵を募集する募兵制が行われるようになった。徴税権は国家の非常に重要な主権である。それを節度使に認めてしまったことにより、節度使は独立勢力としての基盤を固めてしまった。この中でも特に権勢を誇ったのは安禄山であった。安禄山は父はソグド人、母は突厥人という国際人であり、最も重要な役目を担う北京周辺の3つ(平廬、へいろ・范陽・河東)の節度使となり玄宗に取り入っていた。この時に安禄山は胡人の踊りと、赤ん坊がオムツを替えられる時のモノマネが大受けしたという逸話もある。
その頃、玄宗は60歳を越えており政治に倦み始めていた。そんな中、玄宗は皇太子寿王の妃、楊玉環に夢中になり、自らの後宮に入れて寵愛した。これがかの有名な楊貴妃である。玄宗は離宮の華清宮に楊貴妃のために立派な温泉を作り、楊貴妃の一族をとりたてていった。その中でもひときわ出世したのが、またいとこの楊国忠であった。
所かわって、この頃西域から中央アジアではイスラームの勢力が勃興していた。唐の西域を守っていた安西都護の高仙芝(こうせんし)は中央アジアでの勢力の拡大を狙っていたが、これを嫌った西域の諸都市はアッバース朝に助けを求めた。651年アッバース朝と唐軍がタラス河畔(現在のカザフスタン)で激突した。この時、高仙芝の支配下にあった遊牧民のカルルク族が背いたために唐は大敗する。こうして唐は西域での勢力を減らしてしまうが、アッバース朝が獲得した捕虜から製紙法が伝わるなどの東西交流も発生した。
755年にはとうとう安禄山が楊国忠排除を名目に挙兵する。安禄山率いる西方イラン系や北方遊牧民族からなる強力な騎馬軍団はあっという間に洛陽を陥落させ、756年安禄山は大燕を建国して皇帝を名乗った。その後、安禄山は長安に兵を進ませたために、玄宗は蜀の成都に移動するも、その途中で楊国忠は殺され部下の勧めにあって楊貴妃も死を賜った。これにショックを受けた玄宗はそのまま退位して成都に向かい、皇太子の李亨(りこう)が粛宗として皇帝となった。この時代の戦乱を詠ったのが教科書にも載っている杜甫の春望である。「国破れて山河あり」のあれである。
そんなこんなしているうちに、図に乗って部下をいじめていた安禄山が息子の安慶緒に殺されてしまう。粛宗は名将軍の郭子儀を派遣して757年には長安を奪還したが反乱軍は安禄山の部下であった史思明がリーダーとなり勢力を保ち唐と戦い続けた。結局唐軍はウィグルの騎馬軍団の力を借りて反乱軍を討伐させる。この反乱は安禄山と史思明の名前をとって安史の乱と呼ばれた。
長い戦乱で疲弊した財政の回復と、ウィグルへの莫大な報酬を払うため758年、政府は塩の専売をはじめた。また、崩れてしまった均田制の代わりに、個人の土地の所有を認めて、その上で土地の生産力に応じて夏と秋の二回銅銭で税金を支払う両税法を公布した。更に茶、塩、酒などを国の専売にして重い税をかけ、その他にも様々な名目で国民に重税を強いた。
874年、塩の密売人王仙芝(おうせんし)が数千の農民を率いて山東で反乱を起こし、翌年には同じく塩の密売人であった黄巣が加わり、ここに黄巣の乱が発生した。農村地帯では日照りやイナゴの影響で農民は飢えに苦しんでいたので反乱軍はあっという間にその数を増やして行った。その中で一人の人物が台頭していく。名は朱温、後の朱全忠である。878年には王仙芝が戦死するも880年に反乱軍は洛陽を占領し、同年長安まで攻め込み、時の皇帝僖宗を四川へと敗走させる。黄巣は長安で皇帝を名乗り、国号を大斉とするが、唐の援助要請に応じた突厥の沙陀族の族長である李克用と、唐に寝返った朱全忠の反撃にあい884年に一族と共に自殺。ここに黄巣の乱は終わったが、この後に李克用と朱全忠が激しく争い、907年には朱全忠が唐皇帝から位を譲り受けて後粱を建てて、ここに建国以来290年続いた唐王朝は滅んだ。この後、他の節度使が各地で国を起こし、後梁も滅んで行くという五代十国時代が始まる。
掲示板
55 ななしのよっしん
2023/07/09(日) 12:08:09 ID: yrfbUXVvyE
56 ななしのよっしん
2024/04/28(日) 03:59:58 ID: kyGgMxi7Xg
武則天好きだから開元の治に武則天の貢献があったこと書かれてて嬉しい。
57 ななしのよっしん
2024/05/10(金) 23:58:30 ID: yMDWfX9XwR
太宗…貞観の治、行政システムの構築
高宗…西突厥、高句麗、百済をそれぞれ滅ぼす
武則天…優れた政治力と有能官吏の登用で内政安定
唐朝はこの3人の偉大な皇帝が築いた遺産でずっと持ってた印象
後はお察し…
玄宗がすべてをぶち壊したと言われるがそれ以外の皇帝も微妙なんだよね
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/26(木) 14:00
最終更新:2024/12/26(木) 13:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。