内ゲバ(うちげば)とは、
本項では1.について記述する。
正しくは内部(ないぶ)ゲバルトと称し、ドイツ語で「威力・暴力」を意味するゲバルト(Gewalt)が語源である。日本では特に左翼学生運動の用語として使われる。
本来は警察や大学などの公権力に対抗する為の暴力(外ゲバとも)を意味していたが、複数の左翼党派は「革命」という共通目的を持ちながら、路線対立などによって党派間での抗争が頻繁に起きた。これを「内ゲバ」と呼び、更に党派内での暴力抗争は「内内ゲバ」とも呼ぶ。
1950年、日本共産党がいわゆる「所感派」(主流派・武力闘争を肯定)と「国際派」(反主流派・武力闘争を否定)に分裂し、学生運動においても両派の間で対立が起きた。
これにより騒乱が頻発。それまでの学生運動に対する「国を担う若者が憂国の志を抱いて国家権力に立ち向かう」という清廉なイメージは急激に悪化し、日本共産党も支持を失った。
支持回復を目指す日本共産党は武力闘争を否定する路線を取るが、この路線を否定する形で生まれた新左翼が1960年代から先鋭・過激化し、更に複数の党派に分裂して対立を深めていった。最初は集団での小競り合いだったが、じきに対立党派のメンバーを拉致監禁して暴力を振るうようになった。
「ゲバ棒」と呼ばれる角材や鉄パイプが凶器として用いられ、あらゆる場所で内ゲバが横行した。大学構内、教室、食堂はおろか、卒業生の職場、飲食店、路上、下宿などが犯行現場となり、その場で殺害された者も多い。
特に中核派・革労協と革マル派の内ゲバは「戦争」と呼ぶに相応しく、1970年代にはヤクザも真っ青の殺し合いが続き、報復につぐ報復の泥沼に陥ったことで知られる。
一つ例として挙げると、1977年4月15日、埼玉県浦和市で発生した内ゲバが知られている。革マル派の4名がワゴン車で移動中、革労協の大型トラック2台に挟まれて停車させられた。彼らは車内に閉じ込められ、割られた窓からガソリンを流し込まれて火をつけられ、生きたまま焼き殺された。
その2日後、革労協は犯行声明をビラで配布。これは現在でも検索すれば簡単に見られるが、そこに書かれた「声明」を読んで何を思うかは人それぞれだろう。
学生運動とは無関係の民間人が人違いで襲撃されて死亡するという、あってはならない事も多発した。
原因となった党派はそれぞれ相手を非難して非を認めなかった辺りで、色々と察しがつく。
もちろん全ての新左翼党派が内ゲバを推奨していた訳ではなく、第四インターなど、テロリズムそのものを否定したセクトもある。
ただし第四インターは成田空港問題の時に管制塔を「暴力で」占拠したり、三里塚闘争で女性メンバーに性的暴行を働いたり(糾弾の上除名処分)しているので、どっちにしてもロクなものではない。
その後1972年、連合赤軍の「あさま山荘事件」「山岳ベース事件」により、新左翼運動は急速に衰退。1974年の内ゲバの発生件数は286件、死者11名・負傷者607人だったが、これをピークとして件数は右肩下がりとなった。
しかし現在でも名を変えて存続する活動家によって内ゲバは思い出したように起きており、決して遠い出来事ではない。
ちなみに「ゲバルト」という言葉は、1969年から71年まで日本テレビで放送されたバラエティ番組「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」の元ネタになっている。
一応ちゃんと意味はあり、粗製乱造が盛んだったテレビ番組に対する警鐘として、当時頻発した内ゲバの語源「ゲバルト」が使われている。多分今では不謹慎厨のおかげで絶対に出来ない。
なお番組自体は非常に好評で多くの流行語を生み、大橋巨泉のマルチタレントとしての知名度を高めた。
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最終更新:2024/12/23(月) 11:00
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
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