信貴山縁起 単語

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信貴山縁起とは、平安時代末期に描かれた絵巻物である。宝。信貴山縁起絵巻とも呼ばれる。

概要

奈良県生駒群町にある朝護孫子寺(通称・信貴山寺)に伝わる絵巻物。縦幅31.7cm、全長35m。原本は奈良国立博物館に寄託され、朝護孫子寺の霊宝館では複製が展示されている(時折霊宝館で原本が特別開されている事もある)。

寺社の縁起絵巻はその開山にまつわる話を描いたものが通常だが、信貴山縁起は信貴山の祖といわれる命蓮上人の事績について描かれている。命蓮上人は9世紀末10世紀前半の僧で、幼い頃から信貴山に籠もって修行をし、毘沙門天を信仰していた。『今昔物語』では「明練」、中世日本の歴史書『拾抄』では「明上人」と記述されている。

信貴山縁起は平安時代末期1160年頃に作られたと推定されているが、が描いたかについては未詳。一説には、数多くの絵巻作りに注力した後白河法皇の命によって作られたとも言われているがこれもはっきりしていない。

登場人物の豊かな表情や異時同図法と呼ばれる技法を用いた表現、精緻な風景描写などから芸術的に高い評価を得ており、『源氏物語絵巻』『伴大納言絵巻』『鳥獣人物戯画』とともに、日本四大絵巻物のひとつとされている。また前述した描写技法は、『鳥獣人物戯画』とともに日本漫画文化流とされる事もある。

構成・内容

信貴山縁起は現在山崎長者の巻(飛倉の巻)」「延喜加持の巻」「尼の巻」の3巻からなる。

信貴山縁起の詞書は、鎌倉時代初期成立の物語集『宇治拾遺物語』の第8巻、および末期鎌倉初期成立の物語集『古本説話集』などに収録されている「信濃事(しなののくにのひじりのこと)」の内容とほぼ一致する。また平安時代歴史書『扶桑略記』には、「延喜加持の巻」に該当する部分が記述されている。

絵巻物は通常まず詞書があってそのあとにその内容に関する絵が続くという形式だが、現存する信貴山縁起の第1巻冒頭は絵から始まっており、本来あったはずの詞書が長く伝わる間に欠落したものと思われる。なおその内容は前述の『宇治拾遺物語』などによって補されている。

以下に、信貴山縁起のあらすじを記載する。なお「山崎長者の巻」の内容は、『宇治拾遺物語』に拠る。

第1巻:山崎長者の巻(飛倉の巻)

長者の倉から唸りをあげて飛び出した鉢と、それを見て慌てふためく家人昔むかし信濃の僧が、東大寺で受を済ませたのち、東大寺から南西の方角に見える山の中で毘沙門天って修行していた。そのは人里に出てくることもなく、秘法によって鉢を飛ばして食物を運ばせていた。

あるとき山城国山崎長者に鉢を飛ばしたが、人が「またあの鉢が来た、なんという欲りな鉢だ」と鉢に何も入れずに倉の隅に放置し、倉のをかけたまま忘れてしまった。するとにわかに鉢がうなりをあげて倉から飛び出し、そのまま倉を乗せて天空高く飛び上がった。突然事にの者はみな慌てふためき、長者も驚きつつ供を引き連れて飛ぶ倉のあとを追った。やがて倉は山を越えを越え、の住まいの横に着陸した。

倉を追ってのもとに辿り着いた長者は、「いつもなら鉢に食物を入れてお返しするところ、忙しさのあまり倉の中に忘れておりましたらば、急に倉が飛び上がりここに着きました。どうか倉を返していただけないだろうか」と交渉を持ちかける。それを聞いたは「この倉は返すことができませぬ。この山にはちょうど倉がなく、どうしても必要です。ですが倉の中のものはお返しいたしましょう」と答える。しかし倉の中には千石もの俵、いかにして屋敷まで持ち帰ったものかと思案する長者に、「なにそれは簡単なこと、この鉢の上に俵をひとつ置きなされ」とが助言する。長者のお供の男がその通りにしてみると、鉢は俵を乗せたまま、またもふわりと舞い上がった。倉の中から他の俵も次々飛び出て、鉢のあとに続いた。鉢と俵はあたかも雁の群れのごとく飛び行き、長者に戻ったのであった。

第2巻:延喜加持の巻

聖の祈祷により、輪宝を転がしながら帝のもとへと天翔る剣の護法あるとき延喜の醍醐天皇)が病にせり、加持祈祷や読経が行われたが一向によくならない。ある人が大和の信(しぎ)という山に不思議な秘法を使う徳の高いがいると言うので、ならば召して祈祷を行わせようということになり、蔵人が遣いに出された。

のもとに着いた蔵人が、のご病気のために都に参じて祈祷してほしい旨を告げると、は「わざわざ参らずともここで祈祷をいたしましょう」と答える。蔵人が「いったいどうやって祈祷の効果を確かめればいいのか」と問えば、「わたしが祈祷をしたならば、の御許にった護法を遣わせましょうぞ。にでもにでもそれをがご覧になれば、お知らせくだされ」と言うので、蔵人は都に戻りそれをに伝えた。

3日ほど経った頃のこと、が微睡んでいると、きらきらるものがに入った。これがの言っていたの護法かと気づくいとまもあらばこそ、たちまちの病は快癒した。人々は喜び、を賞賛した。速褒美をとらせんと再び蔵人が遣いが出され、蔵人はからに僧位や荘園寄進を賜ることができると伝えるが、はそのようなもの用と固辞するのであった。

第3巻:尼公の巻

念願の再会を果たし、手作りの僧衣を渡す尼公とそれを受け取る命蓮聖には、信濃が一人いた。幼い頃に東大寺で受するといって信濃を出てから長く音沙汰もない命蓮を心配したの尼は、を訪ねて南都まで出てきた。山階寺(興福寺)や東大寺のあたりで尋ねてみても、流石か昔のこと、も知る人はいなかった。

なんとしてもの居場所を知りたい尼は、東大寺大仏の前で一夜を過ごし、「命蓮のいるところをにでも教えたまえ」と祈った。するとの中にが現れ、「ここから南西の方角に山がある、その山の紫雲棚引きたる処を尋ねよ」とのお告げが下った。覚めてみればいつしか明け方、南西の方角を見てみればかすかに見える山にが棚引いていた。

喜んだ尼がそこをして進んでいくと、確かにお堂が建っている。「命蓮小院はいるかや」との呼びかけのが出てみれば信濃にいるはずのの姿。おたがい長き年を経ての再会、尼は懐かしさに信濃をでてからのことを語って聞かせた。そして「こんなところでは寒かろう」と、懐から衲(だい)という僧衣を取り出す。太い糸を使って厚く頑丈につくられたそれは、衣一枚で過ごしてきた命蓮にはとても暖かく、命蓮はそれを衣の下に着て長年過ごした。の尼信濃には帰らず、命蓮とともに山で修行して暮らした。

命蓮がずっと着ていた衲はいつしか破れてぼろぼろになった。その破れた衲は、鉢に乗ってきた「飛倉」に納められた。のちに信貴山を訪れた人たちはその端切れを分けて、お守りとして身につけた。やがて飛倉も朽ち果て、その端材は毘沙門天の像を造るのに使われ、まことに霊験あらたかなものであった。いまや多くの人が訪れる毘沙門天の霊場・信貴山は、かかるように命蓮が修法をした場所なのである。

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