94年、宝塚記念。
その馬にとっては、重圧でなく、自信だった。
愛されるから強いのか。あるいはその逆か。
5馬身差の余裕、ビワハヤヒデ。
ビワハヤヒデ(Biwa Hayahide)とは、1990年生まれの競走馬。15連続連対を記録した名馬である。顔がでかい事で有名。
これはでかい。
主な勝ち鞍
1992年:デイリー杯3歳ステークス(GII)
1993年:菊花賞(GI)、神戸新聞杯(GII)
1994年:天皇賞(春)(GI)、宝塚記念(GI)、京都記念(GII)、産経賞オールカマー(GIII)
1993年JRA賞最優秀4歳牡馬、年度代表馬
1994年JRA賞最優秀5歳以上牡馬
この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「ビワハヤヒデ(ウマ娘)」を参照してください。 |
父*シャルード、母*パシフィカス、母父Northern Dancerという血統。イギリスから*パシフィカスが輸入される時にお腹に入っていた持込馬である。購入した早田牧場としても、欲しかったのは*パシフィカスであって、お腹にいたその子供には大した期待をしていなかっただろう。父は競走成績もアメリカの芝重賞を勝った程度で血統背景もいとこに*ジョリーズヘイローがいる程度と乏しく、この時点でろくな活躍馬もなかった。ハヤヒデが活躍して日本に輸入されたが、特段日本の競馬に適性があったわけでもなく、2世代を残したところで急死という不幸があったとはいえ、ハヤヒデの他に目立った産駒はいない。母は大種牡馬Northern Dancerと米GI勝ち馬のPacific Princessの間に生まれた良血ではあったが、自身の競走成績は全く芳しくなく、イギリスに残してきたハヤヒデの兄3頭もろくに走っておらず、この段階で*シャルードのような種牡馬を配合されていたのも、要はイギリスでは大した牝馬だとは思われていなかったということである。
なお、ビワハヤヒデは実は福島県生まれである。成田空港に到着した*パシフィカスが北海道に運ばれる前に出産が近づき、急遽早田牧場が福島に所有していた分場に運び込まれそこで出産を迎えたというタイミングの都合であったのだが、馬産地ではない福島生まれの名馬は非常に珍しい(クラシックホースでは他に1974年の二冠牝馬トウコウエルザのみ)。出産後早い段階で母子ともども新冠の本場へ移動し、そこで育っている。
幼少時はなんか大怪我を負ったことがあるというエピソード以外は目立たない馬であったようである。入厩舎してからも体質が強くなく、それほど注目されている訳でもなかった。
ところがデビュー戦は大差勝ちである。そこからもみじS(OP)を勝ち、デイリー杯3歳S(当時)では遊びながら2歳レコードを1秒以上更新して楽勝。見た感じモサッとしていて馬体も地味ではあったが、それでも実力は確かであり、朝日杯3歳Sでは単勝1.3倍の圧倒的人気となる。しかしここでエルウェーウィンのハナ差2着に敗れると年明け初戦の共同通信杯もハナ差2着。デビューから手綱を取り続けてきた岸滋彦騎手はここでついに交代となり、関西馬にもかかわらず関東のトップ騎手岡部幸雄に騎乗が依頼される。岡部騎手も当初は難色を示していたが、乗り替わった若葉ステークスを圧勝。岡部騎手の他のお手馬が相次いで故障したこともあり、岡部騎手とのコンビをそのまま継続してクラシック戦線の大本命に名乗りを上げることとなった。
しかし皐月賞では粘りこむところを武豊騎手鞍上のナリタタイシンの差し切りを許す。ダービーでは柴田政人鞍上のウイニングチケットの恐るべき粘りと差し返しの前にこれまた2着。ナリタタイシン、ウイニングチケットとの3頭はBNWとか呼ばれたが、結局1~3着を独占したのはダービーが最後だった。
春の惜敗に課題を感じた浜田光正調教師は、春にこれだけの活躍をしたのであれば普通は夏は避暑を兼ねて北海道に休養放牧に出すところを、ビワハヤヒデを栗東に残して過酷な調教を施した。この1993年は全国に深刻な米不足をもたらす冷夏となったため、馬房の前に氷柱を立てて扇風機で風を送れば暑さは気にならなかった。おかげで細かった馬体は秋になって見違えるような筋肉ムキムキ状態に。さらに、精神面も十分に成長したからと、レース時にはそれまでトレードマークだった赤いメンコを外すようになった。これによりそれまでメンコでごまかされていた「頭の大きさ」が天下に知れ渡ることになる。
大輪として咲け
うつむくな
肩を落とすな
立ち止まるな
花はいつか咲くだからそれまでは
ゆるまず進め
全力で挑め
おごらず戦えそうすれば君は
いまに大輪となる
秋になってライバル2頭は順調さを欠き、菊花賞は神戸新聞杯を楽勝したハヤヒデの一強ムード。実際、レコードを叩き出して5馬身差で圧勝し、初タイトルを手にしたのであった。直前にメジロマックイーンが負傷引退を余儀なくされたことで、芦毛最強伝説の後継者と目されることにもなる。
その勢いのまま有馬記念へ。この年は「史上初のGI馬8頭出走」という豪華メンバーが売りとなったが、絶好調を維持してここに臨んだという馬は少なく、その中で3歳だが安定感抜群のビワハヤヒデが一番人気だった。ところがここでは1年も休んでいたトウカイテイオーの激走に交わされて二着。しかし、1年を通じての安定した高パフォーマンスが評価されて年度代表馬に選ばれている。
4歳になり、京都記念を圧勝すると、古馬戦線はビワハヤヒデ独裁体制と言って良い状態になっていた。天皇賞(春)もナリタタイシンを問題にせずに圧勝。しかしながら、このレースでは実況の杉本清アナウンサーが「兄貴も強い!」と叫んでいた。
そう、1歳下の弟・ナリタブライアンがこの一週間前に圧倒的な強さで皐月賞を制し「三冠間違い無し!」と言われていたのである。京都記念勝利のときも、同日に東京競馬場で開催される共同通信杯にナリタブライアンが出走登録しており1940年以来54年ぶりの「兄弟同日重賞制覇」がほぼ確実視されていたのだが、降雪のために東京競馬場のレースが1日順延されこの記録は幻に終わっていた。この時点からいわゆる「兄弟対決」が噂されており、それはおそらくこの年暮れの有馬記念だろうと言われていた。
それからというもの、ナリタブライアンがダービーを楽勝すれば、ビワハヤヒデが「涼しい顔をして」宝塚記念を楽勝。競馬ファンの期待は「ナリタブライアン三冠」と「ビワハヤヒデとナリタブライアンの兄弟対決」に向けて最高潮。あれほど秋が待ち遠しかった夏はあんまりない。
秋。オールカマーを楽勝したビワハヤヒデ。ナリタブライアンは京都新聞杯で不覚を取り、無敵さ加減にやや影が指していたが、ビワハヤヒデの方は何の不安も無く秋の天皇賞に向かった。この翌週は菊花賞であり、兄弟してまた二週連続GI制覇。そして有馬で兄弟対決を!……と思ったのだが。
府中の直線。いつもならズイっと大きな顔を伸ばしてくるビワハヤヒデが下がって行く。正直言ってそれは、目を疑う光景であった。勝ったのは、ハヤヒデが勝った菊花賞で心房細動を発症して殿負けしたネーハイシーザー。ビワハヤヒデは5着に敗れ生涯で初めて連対を外すと、レース後向こう正面で岡部騎手が地下馬道に馬を運ばず下馬。屈腱炎をレース中に発症していたのである。
ビワハヤヒデはそのまま引退し、兄弟対決は夢と消えた。せめてもの救いは翌週の菊花賞でナリタブライアンが三冠を達成し、杉本アナウンサーが「弟は大丈夫だ!」と叫んだことだった。
15連続連対はシンザンに次ぐ記録である。勝ったレースは先行抜け出しの横綱相撲ばかりで特に古馬になってからは強過ぎて逆に印象に残るレースがあんまり無い。逆に、武騎手の魔法のような好騎乗が光った皐月賞、柴田騎手の執念が涙を誘うダービー、トウカイテイオーの奇跡の復活に日本中が沸いた有馬記念など負けたレースの方がドラマチックに扱われる事が多い。派手な勝ちっぷりと古馬になってからのゴタゴタで話題が何かと多い弟と比べて地味な印象が強い、何かと不憫な名馬であった。何しろファンにビワハヤヒデと言うと「ああ、あの顔のでかい奴」と言われてしまうのだ。
種牡馬としてはかなり大失敗。京都競馬場2400mのレコードホルダーのサンエムエックスを輩出するので精一杯だった[1]。2005年に種牡馬を引退し、その後は繋養地の日西牧場でそのまま功労馬となった。
2020年7月21日未明、余生を送っていた日西牧場にて老衰により死去。享年30歳。グーグルアースで日西牧場を見ると、そこにはのんびりと草を食む晩年のビワハヤヒデの姿が写っていた。
鮮やかに、ひたむきに。
その走りが、父を、母を、この世に知らしめた。
弟との対決は夢に終わったが、
レースではつねに堂々たる主役を演じてきた。
ビワハヤヒデ。強さとひたむきさをあわせもつ、
芦毛のヒーロー。
見果てぬ夢となってしまったビワハヤヒデとナリタブライアンの兄弟対決ではあるが、実際に行われていたら果たしてどちらが強かったのかは、今なお当時からの競馬ファンの強い関心事である。もちろん実際の対決が心待ちにされていた当時においてはなおのことであり、両馬がともに春のGIを2勝した1994年の夏、秋シーズンの対決を見据えて競馬評論家の井崎脩五郎氏が、コラムにおいてこの話題をいかにも井崎流というやり方で占っている。
イイデライナーという馬がいた。ナリタブライアンと同期でかつ同じ大久保正陽厩舎に所属し、ビワハヤヒデの最初の主戦であった岸滋彦が主戦騎手と、なにかと兄弟と縁のあるこの馬は、いかにも大久保厩舎の馬らしく旧3歳の11月にデビューしてから旧4歳の春シーズン終了まで休みなく12戦を走り、この間にGIII京都4歳特別(現在の京都新聞杯に相当)を勝ったほか重賞2着2回、春のクラシック2冠にともに出走し、かつ阪神競馬場での好走が多かったことから、旧4歳にもかかわらず宝塚記念で古馬にも挑戦と、この時点でかなりの出世を果たしていた実力馬であった。
そう、イイデライナーはこの時点でビワハヤヒデとナリタブライアンの両馬と同じレースに出走したことのある唯一の馬だったのである。兄弟の物差しには最適の馬であり、井崎氏がこれに注目したのは当然であった。しかし、ただそれだけなら井崎脩五郎ほどの人がわざわざコラムに取り上げたりはしない。しかも読者に対して、「ダービーと宝塚記念の、イイデライナーの結果を見てごらん?」と、敢えて自身では結論を書かずにコラムを締めている。
井崎氏にならって、筆者も敢えてここには詳細を書かず、イイデライナーの戦績表へのリンクを貼るにとどめたいと思う。ぜひご自身の目でイイデライナーの、日本ダービーと宝塚記念における着順と1着馬との着差を確認していただきたい。
*シャルード Sharrood 1983 芦毛 |
Caro 1967 芦毛 |
*フォルティノ Fortino |
Grey Sovereign |
Ranavalo | |||
Chambord | Chamossaire | ||
Life Hill | |||
Angel Island 1976 黒鹿毛 |
Cougar | Tale of Two Cities | |
Cindy Lou | |||
Who's to Know | Fleet Nasrullah | ||
Masked Lady | |||
*パシフィカス Pacificus 1981 鹿毛 FNo.13-a |
Northern Dancer 1961 鹿毛 |
Nearctic | Nearco |
Lady Angela | |||
Natalma | Native Dancer | ||
Almahmoud | |||
Pacific Princess 1973 鹿毛 |
Damascus | Sword Dancer | |
Kerala | |||
Fiji | Acropolis | ||
Rififi | |||
競走馬の4代血統表 |
掲示板
136 ななしのよっしん
2024/02/11(日) 01:58:29 ID: GplungYTyk
ビワハヤヒデの話しよ?
137 ななしのよっしん
2024/02/14(水) 03:30:48 ID: Nambb/8hSh
しているが?
138 ななしのよっしん
2024/05/26(日) 02:30:25 ID: kFHJidLL8d
https://
弟との対戦についての岡部さん評
井崎さんといいこういう〆方好き
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/10(金) 07:00
最終更新:2025/01/10(金) 07:00
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