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次の意見の賛成、反対意見疑問点などを教えてください。 いわゆる「陽キャラ」と呼ばれる活動的な人たちは、友人たちとムラ社会に似た名前のないコミュニティを形成する。この集団が拠り所となるので、彼らは活動的でいられる。 一方、それのない「陰キャラ」の人たちは、行動の自由さはありつつもすべて自己責任である。何かに打ち込めるなら良いが、近年ではその中でも「無キャ」と呼ばれる共に遊ぶ友人も何かしらの趣味もない人たちがいる。帰ってきてYouTubeやTikTokばかり見ている学生などがこれに当てはまる。 彼らはムラ社会を廃止した弊害であり、人々の幸福のためにはそれらが必要である。

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回答(3件)

前者の「子供のコミュニティ」に大人が介入し、排他的な組織活動を含む、結論に導いていると捉えられる内容であり、社会では、排他的な組織活動を含まない新しいローカルコミュニティが、ネット経由で形成されつつある認識です。 そのコミュニティに対して「(配信を強制せず)自分でやってみる」という機会を、サービスとして提供し金儲けできていない社会である辺りに、その結論に到った者が抱える課題があるのではないかと考えられます。

その意見の前提は集団に属し、直接に人とのコミュニケーションがあることが幸福であると言う前提に立っていると思います。 個人的には価値観の変遷と共に、この前提は崩れてしまっていると考えています。 以前はそもそも直接に人とのコミュニケーションするしか、社会や居場所がなかったでしょうが、今は上記に挙げたようなSNSなどコミュニケーションの場、方法が多様化しています。 また活動的であることが善、そうでないことが悪と言うのは、そもそもなぜそれが善で、それが悪なのかの前提自体も、質問者様の言う陽キャの価値観に則ったものになります。 質問者様の言う陰キャの価値観に則れば、それ自体が逆転する以上、人々の幸福をこうであると決めるのは、違うように感じます。