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身内に統合失調症の人がいます。夏目漱石の『吾輩は猫である』と『坊っちゃん』を読んでいると、『吾輩…』のご主人と、坊っちゃんは、統合失調症の感じがするのですが、そう感じる方いますか? ご主人は周囲に監視されてる、バカにされてると考え、坊っちゃんも会う人会う人にバカにされたと考え、大変そうだなと感じました。漱石自身も、奥さんから見ると、そのような傾向があったそうですね。坊っちゃんのような東京から来た新任の先生をいじめたり、漱石のような偉い先生を周囲がバカにしたりとかはあまり考えられないのですが、被害妄想なのでしょうか。『こころ』も読みましたが、こちらは別の意味で怖いですが、あまり前の2作のようには感じませんでした。この2作は被害妄想がすごいなと感じるのですが、他の人には、面白く感じるのでしょうか。漱石も、自分の感じ方を書いたわけではなく、面白い人物として書いたのでしょうか。漱石を、家族以外の周囲の人は穏やかな立派な人物と見ていたようですが、家族の前や小説でしか神経質な妄想を表現しなかったということは、統合失調症などではなかったのでしょうか。

メンタルヘルス | 文学、古典72閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25

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回答(2件)

AIの回答が優秀なので、そのまま貼っておきます。 ① 『吾輩は猫である』と「ご主人」の被害意識 『吾輩は猫である』のご主人(苦沙弥先生)は、常に他人の評価や視線を気にしています。たとえば、同僚の寒月や迷亭に皮肉を言われると、「自分が馬鹿にされた」と感じ、内心で長々と反論を繰り返します。彼は外では温厚そうに振る舞いながら、内面では「自分だけがわかっている」「他人は信用できない」と感じている。この閉じた内的独白が、読者にとって独特の滑稽さと不安感をもたらします。 こうした心理構造は、現代精神医学的にいえば「被害妄想的な傾向」や「自己中心的な認知の偏り」に似ています。ただし、漱石が描くご主人は、現実と妄想の境が完全に崩れてはいません。彼はあくまで「内心で不満を言いながらも社会的には行動を抑制する」知識人であり、そのアンバランスさが滑稽の源になっています。つまり、漱石は病理としてではなく、「知識人の神経過敏さ」や「自意識の不健康な肥大」を風刺的に描いているのです。 ② 『坊っちゃん』と「純粋すぎる正義感」 一方、『坊っちゃん』の場合は、「被害妄想」よりも「単純さと潔癖さ」が極端に出た人物像です。坊っちゃんは、他人の行動を裏の裏まで読むことができず、表面の「正義」「不正」にだけ反応して怒る。結果として、周囲との人間関係を壊してしまうのです。 あなたが感じたように、坊っちゃんは「会う人会う人にバカにされている」と感じています。実際に作中では、彼の同僚たちが悪意をもって彼を陥れたりもしますが、坊っちゃん自身の側にも「敵をつくりやすい思考のパターン」がある。これも一種の「被害的認知」です。ただし、この場合も病的な意味での妄想ではなく、漱石が人間の「素朴な正義感」と「社会適応の難しさ」を対比的に描いた結果なのです。つまり、「潔癖すぎる正義は、かえって孤立を招く」という人間ドラマとして描かれています。 ③ 漱石自身の精神状態 漱石自身は、精神的に非常に繊細で、神経症(当時の言葉で「神経衰弱」)を何度も患いました。特にロンドン留学時には、極度の孤独と不眠に苦しみ、「誰かに監視されている」「悪口を言われている」という被害感にとらわれた記録が残っています。これは一時的な「妄想状態」とも言われ、今日の診断基準では「統合失調症スペクトラム障害」や「重度の適応障害」に近い状態だったとも考えられます。 しかし、漱石の場合、その症状は慢性的ではなく、回復と再発を繰り返す一過性のものでした。後年の漱石は、『こころ』のように人間の罪悪感や孤独を理知的に描くまでに自己統制を取り戻しており、典型的な統合失調症とは違います。奥さんの回想に出てくる「神経質で疑い深い性格」も、むしろ「強迫的性格」や「過敏な気質」に近いものです。 ④ 「被害妄想」が文学として面白い理由 では、なぜ多くの読者が『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』を「怖い」ではなく「面白い」と感じるのでしょうか。 それは、漱石が「被害的な心の構造」を“笑い”に変換しているからです。彼は人間の「恥」「嫉妬」「猜疑心」といった弱さを、猫の視点や、坊っちゃんの素朴さを通して描き、深刻になりすぎず、読者が共感しながら笑えるようにしている。たとえば、猫がご主人の内心を皮肉る場面は、読者が「自分にもこういうところがある」と思わせる鏡のような仕掛けです。つまり、漱石の「被害意識」は文学的に昇華され、風刺として生きているのです。 ⑤ 漱石の「二面性」と文学的昇華 漱石は、外では穏やかで理知的な教師・作家として振る舞い、家庭内や小説でだけ神経質な一面を表現しました。この「表と裏の分裂」は、まさに近代知識人の苦悩そのものです。当時の日本では「近代化」と「個人主義」が急速に広まり、人々は「自分とは何か」「他人にどう見られているか」という問題に強く苦しむ時代でした。漱石はその苦しみを自分の神経症的体験と重ね合わせながら、小説という形で描いたのです。 ですから、漱石は「統合失調症の作家」ではなく、「神経症的な時代の精神を代表する作家」と言う方が正確です。彼の人物が被害的に見えるのは、人間が誰しも持つ「自意識の不安定さ」を極端に映し出しているからであり、それこそが文学としての普遍性をもたらしています

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別に坊ちゃんのことは知りませんが、馬鹿にされたと感じるのは統合失調症というわけではないですよ。 考え方、受け止め方、といった教養や認知的な問題で馬鹿にされたと考えてしまうのならば、統合失調症じゃないです。 統合失調症というのは、脳細胞がいかれて脳機能がハチャメチャにおかしくなる感じです。考え方とか受け止め方じゃなくて、無意識から意識にフィルターがかからず(理性や思考でコントロールできずに)にめちゃくちゃな概念が意識にどんどん入ってくる感じです。 統合失調症は教養とか認知の問題ではなく、脳機能が壊れてしまっている状態で、普段持っている教養とか認知といった理性の機能が機能しなくなり、理性を通らない無意識の有象無象に翻弄される感じです。 統合失調症というのは典型的な場合は、見たところ明らかに狂人という感じになります。薬を飲んだら治りますけどね。 明らかな狂人じゃなくて、理性的なのに症状があるということで統合失調症といっている方はいますが典型的ではない感じです。もしかしたら医者も本人も勘違いで認知心理学の問題かも?というかもいらっしゃるように感じてます。