午前中の緊急ミーティングは、今月で退職する同僚・牛島君が任されている仕事の引継ぎがテーマだった。それにしても…って僕はすこしセンチメンタルな気分になる。会議室に空席が目立つようになったからだ。未曾有の不景気にもかかわらず、ここ一年でウチの営業部は五人辞めている。ホワイトボードを走らせていたペンを休め、営業部トップである部長を見た。部長は悠然と腕を組み、眉間に皺をよせ、目をとじ…イビキをかいていた。ぐがーうあー。寝てても鬱陶しい。
話がまとまったので部長に声をかけた。びくびくっ。糞をひねりだすミミズのように痙攣したあとで、まぶたをひらいた部長は、「ダメだ!」と絶叫し、「お前らは与えられた仕事をこなしているだけだ…。お前たちに尋ねる。与えられた仕事をこなしているだけでいいのか?」と言った。目の焦点があっていない。「あた、あたた与えられた仕事、を、おえ、こなしているだけでいいのくわあ?」。寝ぼけてやがる。
俺がちょっと言うと何も言い返せねえ、これだからな、情けねえ。って舌打ちした部長は「今までの俺は甘かった。ビジネスは戦争だ。なるへそ戦争だ。戦争は人が死ぬ。これからはビシビシいく!予算を達成するためだ…。死人がでるかもしれないな。戦争だからな。覚悟しろ!」と大声で叫んだ。その声はモノローグのようだった。聞き手を要求していなかった。会議室で予算を達成していないのは、部長ただひとりだった。死人…死…人。死人。死人。死人。死。死。死、死、死、死死死死死死…。あとで総務のマヤちゃんに聞いたのだけど死のコダマは壁を二つ隔てた総務まで届いていたらしい。
会議室は重たい沈黙の底に沈んだ。
意味がわからず、ただ、圧倒されている僕らに、部長は「俺とお前らの差がわかるか?」と切り出した。狂っているか、狂っていないかの差です。と言えるようなら僕は今ごろ町内会長くらいにはなっているはずだ。「俺はお前らとちがって常に何かを学んでいる…寝る間も惜しんで学んでいる…」と居眠りしていた部長は言い切った。ボクハアイタクチガフサガリマセンデシタ。
自称、立志伝中の人物である部長はつづけた。「俺は書店のベストセラーを、会社の経費で片っ端から買う。先月は50冊買った…」。グゥレイト!数だけは多いぜ。「はあ…」。「俺はたくさんの本を買い、ほとんどを読まない。わかるか?」「いえ…」。わかるわけがない。わかりたくもない。「目次に目を通せば内容の一字一句まで把握できる…俺は読書感想文をあとがきだけで書いた男だ…」「はあ…」「俺が読んで会社のためにお前らのために選んだ本は、会社と俺の家の本棚にある。役立つ本ばかりだ。読め。ビジネス戦争で死にたくなかったら読め」。今日はやけに物騒。
誰かが、会社の経費で買って、読まなかった本、選ばれなかった本はどうなるのですか、と尋ねた。部長は一瞬、虚空を睨み、尋ねた勇者のほうを見ることなく静かに口をひらいた。「俺に文句でもあるのか?」「いえ、そういうわけでは…」「読むに値しない本は俺がわざわざ足を運んで自ら古本屋で売っている。売った金で…」僕は続く言葉をまったく予想できなかった。「俺は日々の仕事の疲れを癒す酒を飲んでいる…」ああ…。
「それ横領じゃん」。誰かがぽろりとこぼした。小さいが、はっきりとした発音で、非難の意思が明確にわかる、凛とした声だった。静まりかえった会議室にその声は楔を打つように響いた。たぶんその場にいた全員に聞こえた。「俺はこの本を読み、すぐに実践している。またひとつビジネスマンとしてパワーナップした。お前らが俺に追いつくのは不可能かもしれない…」。部長の耳は都合の悪いことは聞こえない都合のいい耳です。「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」がその本だった。
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
- 作者: 岩崎夏海
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
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「これからはビシビシいくからな覚悟しておけ」そういい残して部長は会議室を出て行った。残された人間は全員床か天井をみていた。「このままでいいのか?」誰かがいった。もしかすると僕かもしれない。「よくないな」「いいわけがない」誰かの声がした。営業部が生まれかわろうとしていた。「部長にこのままやられるのは、もうたくさんだ」「だがどうする?部長は手ごわいぞ」「まともにやったら潰されるな」「なんといってもバックには社長がいる」「社長だって馬鹿じゃない。会社にとって本当にマイナスなら決断するはずだ」。誰かの声に誰かの声がこたえて大きなうねりになっていった。
30分後。会議室に残ったメンバーは、〈部長が反論できないほどの成果を出して、顧客と、自分たちの立場を守る。同時に部長の自尊心をくすぐるような要求をわかりやすく文書で提出、部長としての責任感を植え付けコントロールして社長への連絡役として活用する。それらをもって営業部全員の昇給を目指す〉というミッションに取り組んでいこうと一致団結した。そして部長との折衝役は僕が担当することになった。ここに「マネジメント」における、事業の定義、マーケティング、イノベーション、成果、人事が一気に為されたのだ。かなり大雑把だけど。ポイントは部長への要求を文書で提出し、形として残すことにあった。誰かが言った。「部長だって本を読んでいるんだ。普通の文章なら読めるだろう」。
あれこれと将来的な話をしている仲間をよそに、ひとつ引っかかることがあった。部長はおかしい人間だが、「戦争」「死ね」というような言葉は口にしなかったはずだ。戦争と死と部長。それらはどうにも僕のなかで結びつかなかった。部長が置いていった「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」をひらいた。付箋が挟まっていた。どうやら目次だけでなく本文も読んだらしい。部長を読ませるとは、たいした本だ。付箋が挟まっているところにはこうあった。〈マネジャーの資質〉について主人公みなみがドキドキするシーンだった。
人を管理する能力、議長役や面接の能力を学ぶことはできる。管理体制、昇進制度、報酬制度を通じて人材開発に有効な方策を講ずることもできる。だがそれだけでは十分ではない。根本的は資質が必要である。真摯さである。
「真摯」という言葉に赤線がひかれていた。部長、案外普通じゃん、って思った僕は付箋の上にある、荒々しいタッチの文字をみて絶望した。
しんらつじゃねえよ。部長、読めなかったのか…。真摯→しんらつ→辛辣。部長のいう、実践。それが戦争と死を持ち出した辛辣な姿勢。部長は思ったより、はるかに手強い。こうして死地にさしこんだ一筋の光、生まれかわろうとしている営業部は、ふたたび強大な闇に覆われるのだった。誰だよ、部長は文章が読めるなんていったの…、君は部長を信用し過ぎだ。
※「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」はビジネス本をまったく読まない僕でもすいすい読めて面白かったです。