Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

喪中はがきが届いた。

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年賀はがきのやりとりを何年かかけて縮小している。やりとりをしているのは、古くからの友人、年に数回会うかどうか、あるいは全く合わない知人に限られている。年始の挨拶というよりは、生存確認の意味合いが強い。12月上旬になると少なくなったやりとりの中で喪中はがきが何枚か届く。同じようなモノトーンのデザインだ。どの喪中はがきも内容は一緒で、近い家族が亡くなったと言うもの。亡くなった人に面識はないので、僕は差し出し人を確認して、年賀状を出さないリストに入れるだけだ。20数年前、今の業界に入った数年間、お世話になった先輩からも喪中はがきが届いた。先輩からは昨年も喪中はがきが送られてきたので、2年連続だ。連続喪中はがきはめずらしくない。僕と僕に関係する人たちがそういう年齢に差し掛かったことの証だ。

20歳上の先輩と過ごした時期は暗黒の時代だった。僕が転職してきた数か月後に、先輩は後から中途で入ってきた。先輩からは業界の知識や、協会特有の営業のやり方について教えてもらった。だが、彼のために僕が動いた方がどう考えても多いので、お世話になったという気持ちも幾分控えめになってしまう。先輩は一匹狼だった。「営業は孤独だぞ。一人で戦えなくてはダメだぞ」とよく言っていた。先輩は、契約を取ること、数字を追い求めることに特化していた。数字を積み上げて目標を達成するという点では優秀だった。

ただし、その代償として周囲との争いも絶えなかった。関係部署との調整不足や条件のゴリ押しが原因。「仕事を取ってきているのだからいいだろう」といって先輩は気にしていなかったけれど、周囲からの攻撃は、先輩と行動している若い僕への風当たりの強さへと形を変えた。先輩が承諾なく隣の部署の資料を持ち出したときなどは、なぜか僕が怒鳴られた。「お前の師匠がメチャクチャなことをやっている。お前が抑えないからだ」と。
こんなふうに何度も先輩のせいで酷い目に遭った。それに対して、先輩から教えてもらったものは大変さと釣り合うものではなかった。当たり前すぎて、退屈で、奇跡的な方法や圧倒的な成果を求める若く血気盛んな僕には物足りなかったのだ。「見込み客へのこまめなアプローチ」「アプローチがうまくいってもいかなくてもフォローを欠かさない」「提案は一晩寝かせて客目線から見直す」等々。どれも当たり前の基礎だ。それを毎日、朝昼晩、くどくどしつこく言われるのだ。わかっているよ、しつこい、と頭に来る。僕は「言われなくなるまでやってやるよ!クソが!」と毒を吐いて地道に営業の基礎を繰り返した。

気がつくと先輩は何も言わなくなり、僕も意識しなくても基本を忠実に繰り返す営業マシーンになっていた。教える側になったとき、僕は、地味で面白みのない基礎を教えることの難しさに直面した。先輩のように、くどくどしつこく教えるのは教える側もしんどいのだ。それをやってくれたのだ。嫌われても。疎まれても。先輩は。若いときにはわからなくても、年齢を重ねてはじめて分かることがある。「あ、こういうことなのだ」と。ずいぶんと時間が経ったあとに先輩のやってくれたことの意味がわかって、感謝できるようになったのだ。

先輩は「営業はクソみたいにつまらない仕事だから相手と自分自身にサプライズを時々入れるといい」とも教えてくれた。先輩は商談が煮詰まってくると、突然「アッと驚く為五郎!」と大きな声で叫んだり、「これは見なかったことにしてください」と僕が苦労して作った企画書を客から奪ってビリビリと破いたりした。そういうアクションをした帰り道、先輩は「営業はつまらない仕事だから自分から面白くしていかないとやっていられなくなるぞ」と言った。まったく面白くない。「為五郎に営業開発上の効果はあるのですか?」という僕の問いに「ない。ゼロだ」と爽やかに先輩は答えたのだった。100%マイナスの効果しかなかったと思う。

営業という仕事はとことん地味に地道であること、目標に向かって毎日一歩一歩進めていくこと、ときどきバカをやって自分で楽しむようにすること、今でも僕が続けていることは先輩からくどくど言われ続けた日々にカタチ作られたものだ。あの頃の先輩のように、部下や若手に嫌われようともウザがられてようとも気にせず構わず、僕は教えているだろうか。わからない。ただ嫌われているようにも見える。わからないことだらけだけれども、為五郎と叫ぶ勇気が僕にはまだ備わっていないことだけは確かだ。

妙な胸騒ぎがして先輩からの喪中はがきを確認した。「私は永眠いたしました。生前のご厚情を感謝いたします」、先輩の喪中はがきは先輩自身が亡くなったことを知らせるものだった。差出人も先輩の名だった。サプライズ。相変わらず面白くないサプライズ。僕は先輩の言葉を思い出した。「営業は孤独。ひとりで戦えなくてはダメだぞ」。先輩は言葉どおり一人の営業マンとしてやりきったのだ。まだ70歳。一日二箱の煙草と、ストレスの多い生き方が命を縮めたのだろうか。

先輩と過ごした数年間は、お世辞にも楽しいものではなかった。あの頃の僕は常に先輩にムカついていた。苦しかった。つまらなかった。イライラしていた。いつかやり返してやろうと誓っていた。でも、長い月日を経て、僕の手の中にある喪中はがきのような、あのモノトーンの時代の記憶に少しずつ色が差しはじめている気がする。人生を彩る絵の具は薄すぎて染めるのに時間がかかってしまうのだ。あの頃の記憶も、きっと僕が引退する頃にはフルカラーになっているだろう。(所要時間26分)

果てしなきZ世代

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諸事情で離脱した同僚の代理で、これまで付き合いの少なかった部署の社員たちと一緒に仕事をしている。なるべく目立たないように仕事を進めている。なぜなら仕事デキル感が会社上層部に伝わると、給料据え置きで、業務がアドオンされるのが目に見えているからだ。さいわい代役業務のなかで「これは…」と思うことは少なく、「このまま任期が終わったらいいな、あんなことこんなこといっぱいあるけど」と浮かれている姿を神様が見ていたのだろうね、少々気になる光景に出くわしてしまった。若手社員の仕事への周囲の対応がおかしいのである。新商品(メニュー)の試作における試食をした社員たちが「いいんじゃない」「まあまあだね」と評価、意見、感想にならない言葉を発しているのである。なんとなく良い商品な空気が醸成されていた。開発を担当した若手女性社員は「ありがとうございますー」とニッコリ笑っている。ヌルすぎる。味については個人差があるのでいろいろな意見を聞かなければいけないが、コストや工程は経験と知識で判断しやすいはずだ。僕から見て、若手が担当した新商品は、工程が複雑すぎるし、コストがオーバーしているのも明らかだった。僕らはその点については指摘しなければいけない。そのはずが「いいんじゃない」「まあまあ」になっているのだからとんでもないことである。

なぜこんなことが起きているのか。人事部から若手社員を大切に丁重に扱うように指示が出ていたからだ。僕が所属している営業開発部は中途採用が中心で、ここ数年新卒がいないので最近の若者がどういうものなのかわからなかった。ただ、会社として新卒採用が難しくなっているのは知っていた。とくにウチのような中小企業は苦戦している。やっと入ってくれた新人が辞めてしまうのは大きな損失。新人の離職率が高いと、今後の新卒採用に障害が出るからと人事が警戒しているのである。そういえば、部長会議で人事担当が「最近のヤングは注意や助言を叱られていると解釈するので気をつけましょう」と発言していた。先輩社員がヒントを出して考えさせようとすると、タイプやコスパを重視する若手からは「ヒントなんていいから答えを教えてください」と言われ、答えを教えると「その程度のものですか」と言い出す始末らしい。相手にするだけでストレスフルだ。僕が「ゆとり世代だかZ世代だか知りませんけど」と前置きして発言しようとすると、人事担当は遮って「ゆとり世代とかZ世代とか、『世代』を出したらダメです。負けです。『世代』を口にすると中高年扱いされて馬鹿にされるだけです。堪えましょう」と言うのである。なぜ我々が耐え難きを耐えねばならないのか。意味がわからなかった。

ガツンと言ってやろうと思った。どうせ代役だし、お客様へのサービスのクオリティが下がるのは回避しなければならない。それで若手が潰れてしまうのならかまわない。そう思って僕は自分なりにまとめた意見を述べさせてもらった。工程とコストについて、少々厳しくなったかもしれない。僕は当該若手を戦力にしたかった。ウチの会社を辞めてもかまわない。辞めてもやっていけるような最低限のスキルと知識を身につけてもらいたかった。僕の意見を聞くと、若手は「わっかりましたー」といってニッコリ笑った。意見についての感想を求めると「部長の意見は頭の片隅に入れておきます。多様性は大事ですから」といってふたたびニッコリ。「指摘を受けてどう対応するの」「ニッコリ」「改善案は?」「ニッコリ」

僕は気づいた。彼女の笑みは外に向かっていないことに気が付いた。自身への笑みなのだ。そして現代の若者の処世術なのだと。どこから来るのかわからない自信とポジティブな自己評価を鎧にして、意見や助言を「怒られている」「非難されている」と都合よく変換し、笑みを浮かべて余裕を醸し出して突き進むのだ。楽しく、自分を、個性を表現する世代。僕はこうした若者と一緒に働くのはあと数年なので関係をうまく築こうとは思わない。そのまま進んでいただいて新しい社会を作ってもらいたい。ずっと笑っていればいい。その笑みが自身のためだけにしかならないことに気付くまで、笑ってよ君のために。とはいえ仕事は仕事なので、新商品の開発はゼロからやり直すよう命じた。周りからは面倒なことになると言われているけれど、仕事とは面倒と隣り合わせのものだ。だから仕方ない。Z世代との距離は果てしなく遠く、僕が現役でいるうちに分かり合えるとはとても思えないけれどもそれで全然かまわない。(所要時間22分)

 

就職氷河期世代は、たぶん、世の中の都合で正規雇用と非正規雇用にわかれた、最初の世代だ。

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事業部長代理として採用面接に同席した。面接の実務は担当スタッフがやってくれるので、僕は逃亡した事業部長の代わりに厳格な顔をして座っているだけである。最近、募集を出しても反応が薄い。そのなかで応じてくるのは就職氷河期世代か高齢者が多い。本音をいえば30代までの若い人間を採用して若返りをはかりたい。今回、面接にやってきたのは就職氷河期世代の男性。アラフィフ。経歴を見ると、なんとも言えない気持ちになった。募集要項にマネージャー経験や営業経験がある人優先的な記載があったはずだが、経歴書にはそれに該当するものはなかった。2001年から約25年間、派遣社員や期間工として交互に働いていて、合間を埋めるようにアルバイトとしてコンビニなどで働いていた。半年から2年を派遣社員等、数か月から1年をアルバイト、そのパターンを繰り返していた。

就職氷河期世代は、たぶん、世の中の都合で、正規雇用と非正規雇用で真っ二つに別れた最初の世代だ。そして見捨てられたままだ。新卒として社会に出るときに厳しい雇用状況にぶち当たり、当時流行っていた働き方、派遣やフリーターに流れ、そこから脱出できず、救済されることもなく、ここまで来てしまった。業績の悪化した企業のために安い労力として都合よく使われてきた。僕も氷河期世代の一員なので、当時の新卒採用の苦しさはよくわかっているつもりだ。僕は、たまたま就職できたけれども、何人かの仲間たちは派遣やフリーターになり、そこから脱出した者もいれば、沈んだままの人や音信不通の人もいる。国や政治には期待できない。だから、もし自分が採用する立場になり氷河期世代の人が現れたら、出来る範囲で救いたいと考えていた。氷河期世代の痛みがわかるのは氷河期世代しかいないのだから。

しかし、これまでもそういう機会はあったけれども、現実問題として採用する側に立ち、中年になった氷河期世代になってみると、うーん、と唸ってしまう。氷河期世代の経歴を見るたびに、「これまで苦労しただろうなぁ」という同情と、「こんなに長い間はいあがるきっかけはなかったのかな」という疑問のふたつが沸き起こるのだ。これまでは同情の方が強かった。それは、氷河期世代救済という言葉をイージーに使っているように見える政治に対する怒りからでもあった。50歳になってから就職斡旋や職業訓練を救済措置として打ち出してくるのも馬鹿にしているようにしか見えなかった。そのうえ、選挙が終わる前にそれが数字につながらないとわかると誰も口にしなくなる。馬鹿にするどころか無視である。

そんな繰り返しを見てきたので、巻き込まれた人たちへの同情は強かったのだ。だが、自分が採用する側に立ってみると、違うものが見えてくるのだ。四半世紀のあいだ派遣期間工アルバイト派遣期間工アルバイトの生活から抜け出すきっかけはなかったのか、努力はしたのか、その生活の苦しさと気楽さを天秤にかけて気楽さを取ったのではないのか、と。面接に来るのだから、正社員として働きたいという気持ちがあるのは間違いないだろう。だが、企業は相応の経験やスキルのある人物を求めている。中途採用だからなおさらだ。残念ながら50歳の将来性を買って、育てることなんてできない。僕は51歳だ。能力や体力の下降を実感する日々だ。自分と同じ年代の人間の将来性のなさはいちばんよくわかっている。僕が勤めているような中小企業では余計な人材を抱える余裕はなく、超大手企業は求められるものが高い。落ちてしまった氷河期世代を正社員として雇用できない。残酷だけど、手遅れなのだ。手を差し伸べようという気持ちがあっても手を出せないのだ。もっと早く、せめて15年前くらいに救済措置がなされていれば間に合ったかもしれないけど。

彼は不採用になった。仕事がなくて困っているというので、主婦パート2名が辞めて欠員が出た老人ホームのパートを紹介した。先月から勤務している。勤務態度は上々らしい。微力ながら助けになれば…という気持ちから仕事を紹介したけれども、見方を変えれば、僕も、かつて氷河期世代を都合よく使っていたかつての社会と同じことしていることに気がついた。彼らの経歴にプラスにならない職歴を書き加えてしまった。どうにもならないとわかっていても、後ろめたい気持ちになる。救いたくても救えない、こういう人が何十万人もいると思うと本当に暗い気持ちになる。(所要時間21分)

 

僕が30年間ノルマを達成し続けてこられたのは「生活のため」だったから。

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社会に出て働きはじめて丸30年になる。ずっと営業職だ。運にも恵まれて、30年間、ノルマ達成を続けてこられた。パーフェクトではない。月単位や週単位のノルマをしくじったことは何度もある。しくじったあとでリカバリーをして、年単位のノルマを30年間、達成し続けてきたということだ。継続できたのは、たまたま運に恵まれた結果だけれども、ノルマや目標を達成するのは最低限のタスクだと思っているので特に感想はない。「よくやってこられたなあ」と時々振り返るくらいだ。
同僚や後輩に30年間ノルマ達成の話をすると驚かれる。反応は二種類。ひとつは、「おかしい」「ヤバい」という怪物扱いと、もうひとつは「コツはありますか」というテクニック的なものの開示請求だ。後者みたいな反応には戸惑ってしまう。コツといわれても、地味にコツコツやってきただけで決定打になるテクニックなど思いつかないからだ。それに、各々、能力や条件が違うので、「これをやればオッケー」なんて言えない。無責任すぎる。
ないことはない。ただ、どうしても具体性の欠ける抽象的な言い方になってしまう。「人(顧客)の話をよく聞いて、人(顧客)の目線に立ち、自分の都合に合わせていく。特別なことに走らず、一発逆転を狙わず、計画的に進める」。これな。僕が30年間今の仕事(営業)をやってこられたのは、30年間ノルマ未達がなかったからだ。それだけだ。営業に配属された同期で営業を続けている人間はいない。自ら別の職種に移ったものもいれば、本人の意志に反して続けられなかったものもいる。結果を出し続けなければその仕事を続けられないのは、営業にかぎらず、すべての仕事に共通している。営業なら仕事・契約を取る。それだけだ。やることが決まっているならやるか、やらないかの問題になる。やればいい。特別な事は何もない。
僕は、自分の力量を悲観して、過小評価してきた。「自分には力がない」と自覚していたので「人と同じことはできない」「同じことをしては勝てない」という出発点から方向性を決めてきた。その方向性がもしかしたら人と少し違っていたかもしれない。結果的にその方向性でうまくいった。もっとうまい方法はあったかもしれないが、ifルートは確かめようがない。「ifルートをしておけばよかった」と後悔したことがない。それも30年続けられた理由だろう。

方向性についてもう少し詳しく話すと、具体的な策は回避してきた。カリスマビジネスマンやエリートセールスマンが教えてくれるような手法を追わなかった。テクニックに走らなかった。それらが世に出るときには既に古くなっているはず、と思ったし、前提条件が異なれば使い物にならないと考えた。また、他人からもたらされるものは、一度抽象化して自分に当てはまるように再調整してから使えるようにする必要もある。かなり難易度の高い作業だ。それでも自分の武器にできるともかぎらない。それならば最初から人の真似はしないほうがいい。そう考えた。

成功した人の習慣を真似る人もいるが、遠回りに僕には見える。最悪、ただのモノマネで終わってしまうだろう。それだったら自分で使えるものを有効活用する方がいい。たとえば、昨今よく書籍のタイトルなどで見かけるスタンフォード大学。アメリカの名門大学だ。スタンフォードに入る能力のない人がスタンフォード大方式を真似たところでコスプレみたいなものだ。もちろん人によっては、ある程度のところまで高められる可能性はあるだろう。しかし、モノマネでスタンフォード出身のビジネスエリートにはなれるわけがないのは明らかだ。
ビジネス本は条件付きで役に立つと思う。ビジネス本や自己啓発本には読み終わったときに「僕にも出来るかも」というやる気を得られる効能がある。中身については、参考程度に留めたほうがいいだろう。今までのやり方や考え方は間違っていなかったということを確認しながら、楽しめばいい。そのなかで自分にハマりそうな方法があれば取捨選択すればいい(僕はやらないけど)。

さらに話は逸れるけど「劇的に変わる」や「圧倒的な成果」みたいなフレーズやそれに関わるものを僕は信用してこなかった。ありえないからだ。仮に、そういったもので劇的に生まれ変わって圧倒的な成果を得た人がいるなら、その人はその時点まで全く努力をして無垢な状態であったということだろう。何もしていない人が少し真剣に取り組めば、客観的にはたいしたことのない成果でも、圧倒的なものに見えるものだ。可愛いよね。現実は厳しく、真面目に何年も働いていれば、無垢や白紙状態でいる事はなく、劇的に変化する可能性は少なくなる。そもそも劇的とか圧倒的という言葉が刺さるのはピュアすぎる。それらは便利な言葉なのだ。大昔に受けさせられたビジネスセミナーで講師が「劇的や圧倒的みたいな言葉は便利です。定量的に数字で具体的に示すと訴えられてしまうかもしれないが、劇的というファジーな言葉にすれば訴えられないし、具体性がなくても凄さは伝えられるから」と言っていた。
また、神や天才は滅多に存在しない。僕は30年働いてきたけれども、仕事をしているなかでは、神や天才とは出会えなかった。優秀な人はいくらでもいる。もし天才に見えたら、貴兄の能力や経験がたいしたことがないため、普通に優秀な人が天才に見えてしまうのだ、と自戒すべきだ。神や天才を自称する人、あるいは側近から持ち上げられている人からは距離を置いたほうがいい。ピュアな人は気付いたらツボを買わされているかもしれないから気を付けましょう。こんなふうに僕は、いわゆるビジネスハックみたいなもの、一発逆転的なもの、いかがわしいものからは距離を置いてきた。それがうまくいったようだ。

そもそも仕事は特別なものではない。仕事などは、特別なものを必要とされず、普通に進めればいいだけの、たいしたものではないのだ。全く新しいビジネスモデルを作るとなると多少特別なものが必要となるかもしれないけれども、それでも天才や神といった超人的な能力が必要なほどではない。仕事の多くは、やること、しなければならないことがすでに決まっている。仕事について悩んでいる人の多くは、やらなければならないことが明らかであるのに行動してないことが本当に多い。少しうまくいかないと「壁にぶつかった」「モチベーションがあがらない」といってインスタントに絶望する。はっきりいって仕事とは越えられる壁を越えることであり、モチベーションがなくてもこなすのが仕事なのだ。困ったら、原因を探して、考える。これしかない。多少の障害で絶望して何か特別なもの、一発逆転できるものを求めるマインドこそが仕事を続けるうえでの最大の敵だろう。
僕は仕事を特別視しない。仕事をしていても偉くもなんともない。僕にとって仕事とは時間や労力を換金する行為に過ぎない。つまり、仕事にかける時間や労力を軽くすれば効率が良くなる。そのための工夫は30年間ずっと続けてきた。ごく一時期はセミナーに出たりして、テクニックに走ろうとしたこともある。うまくいかなかった。自分の頭で考えて、試行錯誤を経て、自分にあったやり方を磨いていくほうが合っていた。ごく一般的な企業で課せられる仕事・タスクは、特別な能力を求められるようなものではない。少し頭を使ってやっていけばクリアできる程度の障害に過ぎない。まずは自分の頭で考える。これを習慣にすれば仕事なんてものはなんとでもなる。
最近はインターネットやSNSが発達して、僕が若い頃とはちがう仕事のやり方というものが出てきている。ただ、僕の観察したところでは、SNSに流れてくるようなテクニックは眉唾物だった。またいちいち成果をアピールするのは馬鹿みたいだからやめたほうがいい。仕事は成果を出すのが当たり前。トイレに入ったらうんこをするのと同じだ。わざわざアピールするようなものではない。馬鹿みたいなのでやめたほうがいいでしょう。
仕事なんて生きるための手段に過ぎない。特別なものでもない。自分の頭で考えて進めればいい。生活のためにやるからこそ真剣に取り組める。「仕事を通じて自分の能力や可能性を広げたい」などといって仕事にそういうものを求めるのは結構だけれども、能力や可能性を広げられないほとんどの仕事とどう向き合うのだろうか。私事だけれども、僕は家庭の問題もあって大学を出る際、経済的に大変困った。お金があってなんぼだと思い知らされた。なので、社会出るとき、徹底的に生活のために仕事をしようと考えた。生活のために競争に勝つ。ノルマを達成する。人の真似をしていては勝てない。自分の頭で考え抜く。理屈とか技術ではなく、生活のためという切羽詰まった気持ちがあったから、30年間ノルマを達成し続けてこられて、今の僕があるのだ。(所要時間42分)

ドリフター(drifter)

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スマホやインターネットはなかった。コカ・コーラは250mlの細い缶で飲んでいた。どこにいっても煙草を吸うおっさんがいた。電車に乗るには、改札で乗車券にハサミを入れてもらわなければならなかった。1980年代。僕は小学生だった。そういえば駅の券売機で子供価格の切符を買うには、カバーを上げてからボタンを押す必要があった。子供用切符ボタンを守っていたあのプラスティック製のカバーは、何者から僕ら子供を守っていたのだろう?

コンビニエンス・ストアはいくつかあったけれども、勢力は小さかった。まだまだ個人経営のスーパーマーケットが元気な時代。僕の家の近所にもそんなスーパーがあった。食品スーパーではない。品揃えは現在のコンビニよりもバラエティに富んでいた。肉、魚、野菜、生鮮食品コーナー。冷凍、冷蔵、加工食品のブース。店頭の焼き台からは焼き鳥やお好み焼きの匂いが流れていた。お菓子。各種飲料。文房具。店先には10円で動く遊具も置かれていた。親に連れられていった僕も、巧みな交渉術でオマケ付きのお菓子を手に入れていた。ロボットアニメのシールや、宇宙飛行士の記念切手のレプリカが入れられた、甘い甘いチューインガム。

スーパーが開店したのは僕が小学生低学年の頃だ。客は多く、商品が狭い通路に溢れていた。セールを呼びかける店員の大声が響き、店長と奥さんはいつも忙しそうだった。数年後、僕が中学生の頃にブームは終わった。理由はわからない。大手スーパーの進出やコンビニの台頭といったところだろう。中学生の目にも、ごちゃごちゃした店内は古いものに映った。コンビニに比べるとダサかった。登下校の途中に立ち寄っているところを友達に見られたら馬鹿にされそうな店になっていた。それでも週末になると駐車場は車で埋まっていたから地域の固定客に支えられていたのだろう。高校生になると、客は目に見えて減った。登下校の自転車から見たスーパーはいつもガラガラで閑散としていた。どうやって経営が成り立っているのか不思議なほど。僕は近未来の閉店を予測した。

予測は外れた。スーパーはもちこたえたのだ。僕が大学を卒業し、社会人になってもあり続けた。原チャリから見えたスーパーは、看板の文字が一文字欠け、外壁の塗装がはがれ、老朽化が進んでいた。80年代のピカピカしたものが色褪せたときに実際より老けて見えるあの感じがした。スーパーだけでなく、街自体が年老いてきていた。そして、ある日、スーパーは閉店していた。正確な閉店日を誰も知らなかった。「店長の奥さんが従業員と金を持って逃げた」という噂を母から聞いた。

スーパーの建物は、閉店後もそのままだった。二階部分が住居になっていて、日が暮れると灯りが点いていた。店長は出て行った奥さんを待ち続けているというストーリーを勝手に僕は想像した。シャッターが閉じられた店舗は、賑やかな店舗が瞬間冷凍されて保存されている。奥さんを驚かすために。そんなストーリーだ。

異変に気が付いたとき僕は30歳になっていた。正直に告白すると僕はスーパーの存在を忘れていた。大人になった僕は、閉店したスーパーに注意力を割いていられるほど余裕がなかったのだ。ある晩、帰り道にふと気になってスーパーの方を見ると、敷地内に植木鉢やプランターがたくさん置いてあるのに気付いた。ハンパな数ではない。かつて段ボールに入れた野菜が並べられていたスペースが植木鉢とプランターでぎっしり埋められていたのだ。壊れた遊具がその中に見えた。やがて、草木は伸び、名前の知らない花も咲いていた。かつてスーパーだった店舗が草木や花に包まれていた。小さな森だ。仕事の帰り道、煙草をくわえた店長がホースやジョウロで草木に水をまいている姿を何回か見かけた。彼は静かに淡々と水をまいていた。僕には店長が、店がどこかへ漂流していかないように草木に根を張らせているように思えた。あるいは店長自身が流されないように。またはいつか帰ってくる人のために。

母親から、スーパーが地域の問題になっているという話を聞かされた。管理が行き届いていないため、草木が伸び放題と苦情が出ているというのだ。僕はスーパーの草木が敷地からはみ出していないことも、ある一定の高さ以上には伸びないようにしていることも知っていた。プロが育てているわけではないから、素人っぽく、秩序が見えないだけだ。誰かの不自然は、実害がなくても、誰かの無理解と先入観によって迫害へ繋がるのだ。店長はたぶん誰にも干渉されない一人だけの王国を作りたかっただけなのだ。誰だって流されないように、居場所を守るために日々を生きている。店長も同じだった。なぜ人とちょっと違うだけで責められなければならないのだろう。スーパーを覆っていた草や木や花がなくなったのはその噂を聞いてから数か月たったころだ。住民から申し入れがあったとかなんとか。こうして店長がスーパーの跡地に築いていたひとりきりの王国は崩壊した。

 店長はいなくなった。スーパーは更地になってそのまま数年間放置されていた。先日、通りかかったら小さい白い住宅が3軒建てられていた。誰かが生きていた場所は、誰もしらない地図になって、そのうえに何も知らない誰かの新しい人生が描かれていくのだ。人間や生活のたくましさを見た気がした。今はもうあのスーパーマーケットの話をする人間はいない。子供だった僕は中年になり、大人だった人は年老いたり亡くなったりしている。街も、住んでいる人も変わった。僕は、実家の食器棚に貼ったガムのおまけのロボットアニメのシールを見るたびに、忘れられたスーパーと、店長が育てていた小さな森を思い出しては、苦さと懐かしさがぐちゃぐちゃになった気分になる。(所要時間28分)