「宗教は小説の生みの親なのでは」SNS陰謀論が広がる今小川哲が考える、信仰と小説の関係性【インタビュー】
公開日:2024/12/25
『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞受賞、『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)では2024年本屋大賞ノミネートと、様々なテーマやジャンルを横断しながらも魅力的な作品を発表し続ける作家・小川哲さんの最新短篇集『スメラミシング』が河出書房新社から発売された。
信仰と歴史を軸に時代を超えたスケールで描く「七十人の翻訳者たち」や、とある一族の子孫である主人公の虚実入り混じる現代劇「密林の殯(もがり)」、コロナ禍以降に顕在化したSNSと陰謀論を深く抉る表題作の「スメラミシング」ほか6篇を収録した本書は、信仰と宗教をテーマにした短篇集。
宗教や信仰をテーマにした理由、SNSと陰謀論について、そして作家としての執筆の目標などを著者である小川哲さんに聞いてみた。
――『スメラミシング』には陰謀論のほかにも宗教や信仰といったテーマの作品が多かったのですが、本作でこうしたテーマを中心に据えたのはなぜですか?
小川哲(以下、小川):(収録作の)「七十人の翻訳者たち」で書いたように、宗教と小説はすごく深い関係にあるというか、むしろ(宗教は)小説の生みの親とも言えるんじゃないか、というのが僕の中にありました。本当は「時間」という要素を持っていた「七十人の翻訳者たち」は『嘘と正典』(ハヤカワ文庫。第162回直木賞候補作)に入れたかったものなんですけど、この作品のもうひとつの要素であった「宗教」を今回の『スメラミシング』では書いていこうというのがコンセプトとしてありました。
――「七十人の翻訳者たち」では歴史が「信仰」を前提に作られていくというのがとても印象に残っていますが、これは例えば結末から遡って物語を作り上げるような小説のひとつの書き方と重なるのではないかと感じたのですが。
小川:テクニカルな宗教体系を信じてもらって信者を獲得するための話の作り方が小説の元というか、宗教の物語が小説的だというのはもちろんそうですね。そもそも宗教だけではなく、僕ら人間が生きていく上で何かに頼ったりすがったりすることは小説がずっと書いてきたことでもありますし、そもそも人が信じるよすがが小説的なことでもありますので、この短篇集を通じていろいろな切り口から神や宗教と小説がどういう関係にあるのかを僕なりに考えてみたかったというのがありますね。
――「密林の殯(もがり)」ではAmazonやSLUMDUNKといった実在する固有名詞がたくさん出てきます。小川さんご自身を彷彿とさせる主人公が登場する『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)と同様、虚実入り混じった作品を描いたのはなぜですか?
小川:作品ごとに到達しなきゃいけない地点というか、その作品で描かなければいけないことによると思います。「密林の殯(もがり)」は天皇の輿を運んだ八瀬童子という実際に存在する一族の話ですが、現代において運ばれる「神」が何かと考えた時にそれは「アマゾン」の商品だろうと。その2つの結びつきから本作は書かれているので、それが架空の企業だと読者が生きている現実と天皇制っていうものを常に対照化しながら読むことができなくなります。だから、「密林の殯(もがり)」においてはAmazonというイメージが必ず僕の中で必要だったんですね。そうなると、他のディテールも必然的に僕らが慣れ親しんでいる固有名詞にしなきゃいけないっていうのが、作品の要請としてありました。
ただ最後の「ちょっとした奇跡」ではむしろ固有名詞を出すと作品世界を損ねてしまう場合もあるので作品のタイプによりますね。
―― 表題作「スメラミシング」は陰謀論にフォーカスした物語ですが、『君が手にするはずだった黄金について』でも取り上げていたSNSと個人の関わりについて小川さんご自身は強く思うところがあったのでしょうか。
小川:SNSという媒体の使い方は世代や人によってバラバラだとは思いますが、かなりの人が積極的に情報収集のツールとして使っていて私たちの生活の中心になっているのですね。一方で僕らが普段直接対面しない他者と出会う場でもあるので、僕は現代社会で他者について描くときにSNSはかなり重要なツールだと感覚としては持っています。だから現代を描く作品の中で登場することが多い気がしますね。
――SNSを使った情報収集では自分の好みのものや、信じたいものだけの偏った情報だけが目に入ってくることによって思想や思考が強化され、それが陰謀論という形となってSNSで顕在化されています。こうしたSNS上でみられる陰謀論に着目した理由はなんですか。
小川:陰謀論はコロナ禍のワクチンをきっかけに可視化されたのが大きいですが、陰謀論はそれまでもずっとあったわけです。僕らは生活していく中で陰謀論とは言えないけど科学的に根拠が曖昧なものの因果を結びつけることは日常的にしているわけですよね。朝のニュースで占いを見て、今日のラッキーカラーとか星座占いを見て一喜一憂したりとか。そういった因果がないところに因果を見てしまう性が人間にはありますよね。一方で陰謀論は小説的でもあるので、因果がないところに因果を見つける人間の信じやすい回路を使って小説家は金儲けをしてるんじゃないか?みたいな側面もあります(笑)。
だからこの作品では陰謀論をバカにするのではなく、その(陰謀論の)インフラを使っている小説家として陰謀論について考えてみたいというのがありました。
――本書が宗教をテーマに据えていることを考えると、陰謀論は日本人にとって擬似的な宗教ではないかとも思えました。
小川:そうだと思います。因果の結びつけ方や、背後に神を置くかディープステートを置くかの違いだけですね。そもそも人間はたまたまとか偶然に耐えられないので、悪いことが起きるには理由があるはずだ、何か嫌なことがあったんだったら理由があるはずだという発想をしてしまうんですよね。だからそれに対してストーリーを用意するのが宗教や陰謀論ではないかと思います。
――これについては「啓蒙の光が、すべての幻を祓う日まで」でも具体的に語られていて、啓蒙と信仰や情動みたいなものとの対の構造になっていました。小川さんは啓蒙や理性と情動や信仰についてはどのように考えていますか?
小川:人間が新しい技術を見つけて社会を発展させてきたのは理性だけではなくて、その情動というか非論理的な思いつきや思い込みがきっかけになっていたりするわけで、全てロジカルに理性的になったら世界が良くなるってわけではないと思います。その理性を駆動するための根っこの部分には必ず非論理的なものがあると僕は思っていて、だからそれが「啓蒙の光が~」の中で書こうと思っていたことでもあります。この作品に出てきた宇宙人のように、情動的なものを完全に失った社会というのはそれ以上発展することはないんじゃないか、という気はしています。
だから人間の動物的な部分を簡単に否定することはできないですね。とはいえ(人間の)動物的な部分に任せるとすごく原始的な格差や差別が生まれてしまうので、その部分を理性でどうやって克服できるかっていう難しいチャレンジを人類はずっとしているんじゃないかという気がします。
――「ちょっとした奇跡」は地球の自転が止まった世界という特殊な世界観のお話ですが、この世界には学者がいないというのがとても印象に残りました。
小川さんは『ゲームの王国』(ハヤカワ文庫)でも知識層を根絶やしにしたポル・ポト時代の原始共産主義を描いていますが、このあたりは小川さんの中でリンクしている部分はあったのでしょうか。
小川:「ちょっとした奇跡」の中で少年少女が置かれている過酷な環境は、科学者や学者たちをどれだけ雇っている余裕があるのか、それが釣り合っているのかどうかが難しい問題だと思います。この世界の学者はずっと結果が出ていない中で「タダ飯食いやがって」みたいなことになっていて、とても地位が低いわけですよね。そう考えたときに(学者や専門家が)なくなることもあり得るのかなと考えたという感じですね。
実際に人文学無駄理論とか現代社会でも起こりがちな話ですけど、みんなの生活が厳しくなったり、みんなの生活にゆとりがなくなってきたりすると、即効性のない職業がやり玉に上がるということは実際に起こっているので、世の中が過酷になっていけばいくほどよりこうしたことが強く出てくるのではないかと思います。
――共産主義的なイデオロギーについては『ゲームの王国』だけでなく『嘘と聖典』でも小川さんは触れていましたが、共産主義と今回の『スメラミシング』のメインテーマである宗教は思想的にも相反するものですね。
小川:僕自身が共産主義的なものというか、そういったユートピア思想にとても興味関心があるので、作品の中に出ることは多いかもしれない。
今回は宗教とか神がテーマなので、たしかに真逆の共産主義は必然的に出てこないですね。
――SNSは自分が信じるものや好むものを能動的に受け取っている“と思える”メディア・媒体だと思いますが、「小説」も読者がとても能動的に物語を摂取する媒体です。小川さんはご自身が書かれた「小説」を読者に受け取ってもらうために考えていることなどありますか?
小川:一昨年ぐらいから痛感しているのは、小説を読む人自体がとても偏っている人というか知的で能動的な人なんですよね。だから自分が小説を書く際の指針として、(本を読まない人を含めた)世間全体の中心に作品の目標を置くのか、小説を読む人の中心に目標を置くのかがズレてきているんですよ、今。
時間に余裕がなかったり他の受動的なコンテンツや娯楽があったりする中で小説を読もうという気概を持ってくれている人ってその時点でとても知的なんじゃないかと思います。だから世間の中心に(作品の指針を)置こうとしたら、それは小説になり得るのか?ということも含めて自分が(小説を)何に向かって書くべきなのか、みたいなのは、世の中の娯楽の中心に小説があった時代とは完全に違う考え方をしないといけないかもしれないってすごく考えています。
取材・文=すずきたけし、撮影=金澤正平