磯崎新の実現されなかったプロジェクトばかりを集めた「アンビルト/反建築史」展が開かれ★一、それに合わせて『UNBUILT/反建築史』(TOTO出版)という二分冊からなる充実した書物(タイトルにもかかわらず現代建築史の資料としてもきわめて価値が高い)も出版された[図1]。そのインパクトは、実現された建築群に勝るとも劣らない。六〇年代の〈空中都市〉の、いかにもメタボリズム的な未来志向と、磯崎新独特の廃墟志向の重ね合わせ[図2・3]★二。七〇年代の〈電脳都市〉──とくに「コンピュータ・エイディッド・シティ」の、中央計算機を想定する点では古びてしまった、しかし巨大な被膜に覆われた空間の内部を自由に分割していくという点では今もって斬新な構想[図4]。磯崎新が都市から撤退しポストモダン建築の旗手とされた七〇年代半ば以降は後景に退いていたかに見えたそのような巨大都市の夢は、九〇年代に〈蜃楼都市〉──とくに「海市」という人工島の計画として甦ることになる[図5]。これらの図面、そしてとくに精巧な木製のモデルは、それ自体としても迫力に満ちているとともに、その時期に実際に建てられたさまざまな作品の背後にあった建築家のヴィジョンを知る上でもきわめて興味深い。だが、建築というジャンルの面白さがその不純さにあることもまた事実だろう。建築家の構想が、さまざまな社会的圧力や技術的制約のもとで変更を余儀なくされ、言わば満身創痍で建ち上がる。それでもやはり、建ち上がった巨大な空間は建築家の構想を超えた部分をもっているものだし、そこに刻まれたさまざまな闘いと譲歩の痕跡もまた建築に歴史的なリアリティを与えるものでもあるのだ。そういう意味も含めて、八〇年代の〈虚体都市〉の夢を託した傑作「東京都新都庁舎案」が実現されなかったことは、残念というほかない。落選を覚悟で超高層ビルというプログラムをのっけから無視して構想されたこのプランが実現していれば、東京は二〇世紀末を代表する建築を都庁舎として持ち得たはずだったのだ[図6]。
さて、磯崎新が、「アンビルト/反建築史」展で、実現されなかったからこそ無傷で残った建築と都市のユートピアを示そうとしているなら、レム・コールハースは、いかなる建築のユートピアをも粉砕しながら驀進する資本主義の「世界=都市」のおそるべきリアリティを、あくまでアイロニカルに肯定してみせる。一九九五年に出た、『S,M,L,XL』と題する、一四〇〇頁にも及ぼうかという文字通り
ところで、この『Mutations』には、「シティーズ・オン・ザ・ムーヴ」展などで似たような方向を示してみせたハンス・ウルリヒ・オブリストのキュレーションのもと世界中の人々からのメッセージを集めた「
1──『UNBUILT/反建築史』(TOTO出版)
2──《孵化過程》
3──「新宿計画(ジョイント・コア・システム)」
4──「コンピュータ・エイディッド・シティ」
5──「海市」
6──「東京都新都庁舎案」
出典=『UNBUILT/反建築史』
7──『S,M,L,XL』(010 Publishers)
8──『Mutations』(ACTAR)
9──〈 ¥€$〉のロゴ
出典=『a+u』2000年5月号臨時増刊「OMA@work.a+u」
10──ラゴス
出典=『Mutations』
11──「Urban Rumors」に寄せられた磯崎新のメッセージ
出典=『Mutations』
12──『反建築史』の冒頭の「流言都市」
註
★一──東京のギャラリー・間で二〇〇一年一月二〇日から三月二四日まで開催。
★二──私は二〇〇〇年の夏に磯崎新とシチリアを訪れたのだが、その際、彼が空中都市のドローイングを古代神殿の廃墟の図と重ね合わせている、それが実はアグリジェントのヘラ神殿だったことが確認された。デミウルゴモルフィズムを唱える建築家の源泉は、ギリシア本土のアポロン的に整った空間ではなく、マグナ・グレキア、とくにシチリアの、重層する廃墟の空間──デミウルゴスの暴乱の跡にあったのである。
★三──内容に応じて、ここではコールハースは多くの共同著者の間に自分を埋没させる道を選んだ。世界の諸都市に関する調査の多くは、彼の率いるハーヴァード都市プロジェクトの成果である。そのうち中国の珠江デルタに関する調査は一九九七年のドクメンタXで発表されたが、グローバリゼーションの理論的分析に重点を置いたこのドクメンタXを延長する形で、労働経済学のヤン・ムーリエ・ブータン(アルチュセーリアンとしても知られる)や都市経済学のサスキア・サッセンといった批判的な論者たちの論考も収められている──とはいえ、全体の論調から言えば、これらの批判的な論調はちょっとしたスパイスのようなものでしかない。その他、ヨーロッパを担当したステファノ・ボエリとアメリカを担当したサンフォード・クウィンターの名前が表紙にひときわ大きくフィーチャーされている。
★四──他にも機会はあったが、一九九〇年代を通して毎年開かれた〈ANY〉コンファレンスにコールハースも私も参加しており、とくにそこで発表を聞くことが多かった。なお、二〇〇〇年に開かれた最終回の〈ANYTHING〉コンファレンスは、建築の自律性と質に回帰するピーター・アイゼンマンと、それを破壊してゆく都市の量的ダイナミクスにあえて賭けようとするコールハースという、いささか反動的な対立構図で終わった。
★五──保守系の『フィガロ』紙二〇〇一年二月一五日号にはアンリ・ゴーダンが「退行的変異」と題する展評を寄せ、それは世界資本主義の暴走による文化の破壊と人間の動物化を肯定するものだと批判している。
★六──「コールハースの子どもたち」の代表格とも言うべきMVRDVが発表した〈データタウン〉(Metacity/Datatown, 010 Publishers)などはその典型的なあらわれである。この〈データタウン〉を、五十嵐太郎は「究極のスーパーフラット理想都市」(『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説』[INAX出版]三九八─四〇〇頁)と呼んでいるが、まさしくそれは、六〇年代末に現われたどこまでもフラットな都市のヴィジョン(たとえば磯崎新が当時いちはやく注目したアーキズームの「ノー・ストップ・シティ」など)のスーパーフラットな再版なのである。
★七──Christine Buci-Glucksman, L’esthétique du temps au Japon (Galilée)という最近の書物(とくに建築に焦点を当てて日本文化を論じ、そこから「ヴァーチュアルなもの」の美学を展開しようとする試み)で、著者が磯崎新や私との討論を踏まえて「海市」を初めとする磯崎新の仕事に「ヴァーチュアルなもの」の深い表現を見ていることを付け加えておく。
★八──磯崎新の中国語読み。