切断という決定論
日埜直彦──これまで数回にわたり都市を中心とした磯崎さんの六〇年代の関心についてお伺いしてきましたが、今回はその都市への関心が建築へ折り返されて行く過程についてお聞きしたいと思っております。
例えば『空間へ』に収められた論文を見ると、「現代都市における建築の概念」においてシンボリックなものと不定形なものの二項対立的な関係があるのに対して、「プロセス・プランニング論」においては廃墟となっても残るような建築の形式とそこに内包される有機的な諸活動という一種の反復的関係を見ることができます。「プロセス・プランニング論」というとまずは切断というキーワードを思い出すわけですが、しかしその切断が成立する前提として、そこである計画手法の提案がなされています。つまりクローズド・プランニング、モジュラー・プランニング、(オープン・プランニング)、という既存の計画手法に対して、プロセス・プランニングの可能性ですね。構造的、設備的な幹によって建物の成り立ち、あるいは形式を規定し、成長しうるその形式にある時点で切断がなされるということだったわけです。これは結局定まらないものと定めざるをえないものの葛藤を、むやみに摺り合わせるのではなくて、対立のまま建築とする発想です。個人的な印象かもしれませんが、《ジョイント・コア・システム》のあのコントラストと同質の態度があるように思います。
ご自身も以前、都市も建築もやるなら一緒と言われていましたが、しかし都市と建築を意識的に平行させて考えようとしていたのか、それとも考えていくうちに結果としてどうしてもそうならざるを得ないという格好だったのか、まずお聞かせください。
磯崎新──当時はいくつか手探りしながらに探していた切り口がありましたが、そのうちのひとつが不定形な形体です。言い換えると、ひとつの形を形式もしくはシステムとして組み立てていくという問題です。建築の実務を僕がやるようになってから実感したのは、形は建物の写真なんかを見れば大体理解できますが、地震がある日本では横力が垂直力に加わります。この物理的なストラクチャー──いずれそれをスケルトンと呼ぶことにしたのですが──つまり「骨組み」がなければならない。いわば建築の形態は、その形式とこれを支持する骨組みによって成立しています。もうひとつ、その内部での光とか空気の流れ。建築の内部空間の構成は、光の分布状態、空気の流れ方、それら流体の密度つまり濃度の分布、そして動く流れがある。空気の流れ方を強制的につくるのがアクティヴな空調システム、それにもちろん自動的な空気の流れを発生させるパッシヴな視点が必要です。実は、先ほど言った骨組みも実はスタティックではなく、動的にその内部に力が流れているとみていいでしょう。空気、光、力(重力、地震力、風力など)のこの三つを考慮することになる。そんなこと常識なんですが、誰も教えてくれるものでもないので、自分なりにデザインをロジカルにすすめるための整理をしたにすぎません。そのとき語義矛盾しているけど、形が崩れる、変形する、増殖するといった不定形へと向かう隠れたシステムがあるに違いない。ロジックをこのようなダイナミズムにむけて編成するのはどうするべきか、このあたりがテーマになっていました。
スケルトンには力が流れている。学生の時に──つまり建築の実務をやる前──構造の先生で武藤清さんや梅村魁さんがおられました。俺たちは構造計算をやる人間だから、構造計算をやれば力がどういうふうに流れていくかモーメント図でわかる。建築家はそういうことをやる必要はないけれど、パッと見て力がひとつの建築のなかにどういうふうに流れているのかがわからなかったらもう建築を辞めろ、それがわからないやつはデザインする能力がないんだと、はっきり言われたことを覚えています。メガストラクチャーにしても何にしても、スキンではなく骨組みをいつも頭に入れるようになった理由は、要するに日本は、地盤も悪く地震もあるという特殊条件があるから、それをひとつ手掛かりにして考えなければいけないと思っていたことですね。ですから、わかるわからないは別として構造の専門家と議論していると、構造のプロにも二種類あることがわかります。計算はきちんとできるけれども、力の流れを考えない人、もう一方は、全体の力の流れはこうだから、その分布状態が悪いから変えなさいということを言える人です。木村秀俊さんが一番よくそういうことをわかっていました。また、川口衞、佐々木睦朗、ピーター・ライス、セシル・バルモンドなんかはそういうことが直感的にわかる人たちです。だから、幸いなことに構造のちゃんとわかる人と付き合えたことが、計算はできないけれど、力の流れ、動きがわかるようなトレーニングになっていました。
丹下さんのところにいた頃、構造は坪井善勝さんでその下に川口衞さんがいた。彼はワックスマン・ゼミでの仲間です。上にボスが二人いたわけですが、シェルだったりサスペンションだったりする構造のさまざまな形式をどうやって探すか、その手掛かりは、彼らとの議論のなかから学びました。五〇年代後半から六〇年代のはじめにかけて、ほとんどの種類の構造の可能性、昔ながらのアナログ計算でできる範囲は大体付き合いました。それを卒業したうえで自分の仕事をはじめたのです。
プロセスの問題として、建築を、クローズド・プランニングでやるならば、石造レンガ造の時からの形式でいい。オープン・プランニングは、モデュラーシステムでもありますから、柱が均等に並んでスラブがフラットであれば済む。それ以上ではありません。プロセス・プランニングというコンセプトが突き当たる問題は、普通、完結した単体として解いている計算法を、開放系にするため、ひとつの有機体とみなすわけにいかなくなる。常識的にはエキスパンション・ジョイントにして、振動の差を調整する。横つなぎなら可能。だったら上方へは? これは誰もが経験することです。御神楽でいいじゃないか。いまふうには免震構法にもなりうるよ、とこんな次のレベルのことを考慮しないといけないことでした。ファンクションが一体化しながら繋がりたいというふうになってきた時に、部分的に成長するその度合いが違う。これをスケルトンとしてどういうかたちで追っかけていったら一体感としての建築構造を保ちながらかつ成長性を入れられるか、こんなハイブリッド的な構成を考えねばならない。つまり地震国としての特殊性を見出すこと、こんな具合のものは後半世紀のうちに、技術的にできること、無意味なこと(設問の間違い)などほとんど整理がついてしまっています。ところが、いま設計方式がデジタル化したなかで、同様レヴェルでの別の難問が多数発生しています。あの頃はアナログですから、ジョイントなどの接合点が重要だった。これは〈縫い目〉としてみえます。線がデザインのたよりだった。ところがいまはデジタルなので、縫い目なしの連続体が志向されている。シームレスの連続面です。平面、曲面は問いません。縫い目をみせるハイブリッド的集合体か、スムーズな流体かという違いかもしれません。半世紀たったのでその差がみえるのですが、ともあれ、あの頃は、崩れ、変形させることに注目が集まっていたのです。
例えばルイス・カーンの《リチャード・メディカルセンター》には有機的な構造はない、これは中心に一定のユニットになった骨組みがあって周りにコアを追加しているだけです。レンガ造の構造システムをそのまま延長したにすぎない。ダッカの議事堂でさえ独立したものの集合であって、その相互をくっつけない。このくっつけないことが、またそれなりに伝統的にあの辺では光の採り方に影響があってうまくいっている。しかし、このくっつけずに置くやり方は雨が多くて地震がある日本には合わない。このシステムは簡単には真似できない。で、一番最初は全部PCに組み立てて、PCの連続性を考えた。しかしそれで十分解けるかというといろいろ無理が起こるというのがわかってきた。結局のところ、接合が曖昧な状態のままで接合の接点を増やさないといけない、それも上に延ばすわけにも横に延ばすわけにもいかないというような、何か妙な迷路にいきあたったわけです。そこで一遍このPC案を御破算にして、ディテールまでやるとコストもかかる現場打ちにもう一遍戻すということから始まったのが最後の案です。要するに今度は逆に構造の流れ、力の流れと空気の流れとを一体のシステムとして同時に解く方法はないかということになりました。これは、例えば樹木の幹の中に樹液が流れていて、樹液が流れているのがパイプであったり空調のダクトであったり、木の全体の外側の部分が構造体になっていて、それと中の流れと一体化するにはどうしたらよいかということです。それで出てきたのが、コンクリートを無垢のビームではなくて、ボックスにして、中に空調のダクトを通すというものです。これは《大分県立図書館》を改造した時にもちょっと手を入れたくらいで現在も働いていますから、一応このシステムはあのスケールでは成立したんだと思います。
しかし、これにはプラスマイナスがある。空気の流れと、力の流れがうまく統合できるかというとそう簡単にいかない。かなり強制的にやらないといけない。それともうひとつは、光をどう流すか、光に色をどう付けるかという別の観点もあった。ヨーロッパの教会堂の光は全部トップライトです。日本でもこれをやろうというのがこの時考えた唯一の特別のことかな。しかし日本には伝統的にトップライトというのはない。京都辺りの通り庭式にちょっとあるくらいで基本的にはありません。日本の光は水平に入ってくる。ヨーロッパの光は垂直に入ってくる。この違いをどう整理しようかということですね。こういう幾つかの問題設定をしながらあのプランをつくっていたわけです。
「プロセス・プランニング論」の最後に切断をいってあります。ここから延長するよというひとつの切り口を見せる、暗示する意味がある。そこで物理的な切断を考えました。この切断は、決定です。切断を決定論に繋いだのは事後的にこんなやり方を手さぐりしたあげくのことです。
スケルトンといった背景に樹木の姿のイメージがあったことは確実ですが、それを単なる柱とは考えまいとしたところがいわゆるラーメン構造で発想するのとちょっと違っていた。あれをチューブと考えた。実際の樹木、竹がその典型かもしれませんが、外周が耐力の構造体で、その内部(中空であったとしても)に樹液が流れている。だから、中空のPCを現場打ちに変更しても、その型は残しました。水平力は平面的に背骨にあたる中央の壁にたよる、それもペアの壁をさらにペアに併立しました。
アメリカの高層建築の鉄骨の柱ですが、コアはたんにエレベーターなどの光の不要な用途に使われます。丹下さんのところのコアを固めるというのは日本独特のやり方なんですね。これは、プラスマイナスはあります。ぴったりしたコアが中のファンクションと合うかどうかは、コンセプトとしてはありえると思うんですがスケールに応じた処理をせねばならない。そんなふうにしてスケルトンが浮き上がってきた。これにとりつく枝のように、ユニットがとりつけられる。
話がとびますが、最近佐々木睦朗さんが〈流体構造(フラックス・ストラクチュア)〉といって展開している有機体のような構造方式は、フィレンツェ新駅のコンペを一緒にやったときに原型ができあがったものですが、これもまたチューブ状の構造です。垂直な柱ではなくて、空間内の最適な位置を自動的に探していく過程が非線形の方式でたどられていきます。これは佐々木さんの研究室で独自に開発したものですが、四〇年前に「プロセス・プランニング論」をやっている頃のプリミティヴなチューブ構造が突然デジタライズしたなかで、まったく姿を変えて立ち現われたのです。現在、カタールのコンヴェンション・センターで実現しつつありますが、あの頃のスケルトンが徹頭徹尾アナログだったとすれば、ほぼ半世紀後にデジタルがまったく違う様相をみせてくれることになりました。
日埜直彦氏
磯崎新氏
身体性を介した時間・空間論
日埜──今のお話はル・コルビュジェのドミノを九〇度ひっくり返したイメージで考えられるかもしれませんね。柱が設備を納めた箱形の梁となり、スラブがベアリングウォールとなり、そうしてそれが地震国なりのひとつの明確かつパラメトリックな構造の形式となったというように。そう考えてみれば《大分県立大分図書館》の耐震壁に挟まれたロビーの空間の天井は、ちょうど「自由な立面」が横倒しになったもののように、天窓というか、光が落ちてくる屋根がある。その自由な立面のハイサイドライトはいわばブレーズ・ソレイユみたいなもので、ある光の状態を作ることで、ロビー空間の機能を組織化する共に、この場所をキャラクタライズするようなものとして、作用しています。仮にこの建物が拡張されたとしてもその形式はおそらく変わらず、ひとつの個性を保ち続ける、だからこそ切断ということが可能であるわけですね。
今言われた光の質の問題について、「媒体の発見──続プロセス・プランニング論」に「光の濃度」というアイディアが登場します。「都市デザインの手法」において「空間の濃度と流れ、および場の概念」と書かれていることと並行したものを感じるのですが、この光、あるいは濃度ということについてはいかがでしょうか。
磯崎──空気、光、色彩、スケルトン、あとはひろい意味での空間というようなものがずっと並列されて、基本的な建築のコンセプトをとらえるのに必要な手掛かりにしていました。そのからみのなかで、「闇の空間」がでてきました。「プロセス・プランニング論」もそうなんですが、「闇の空間」もまだ何も実現していない頃に書いたものでした。いずれ「見えない都市」にまとめたり、「日本の都市空間」につないだようなもので、都市論の系譜、もうひとつは、手掛かりとしては《中山邸》の内部空間の問題と両方同時に頭のなかにありました。
日埜──「光の分布」と「闇の空間」は並行していたアイディアだったわけですね。
磯崎──光の濃淡の極限が闇、もう一方の極は透明を通り越して虚ということを考えていました。そのあたりは「闇の空間」の末尾に闇と虚の対比として整理してありますが、前者はより建築的で身体的、後者は都市的でメディア的とみていました。この図式はいまも変っていなくて、通用すると思っています。それをもうひとつ原理的に解釈することはありえないか、ちょうどその頃にアルド・ファン・アイクが確かプエブロインディアンの集落、あるいはアフリカ原住民の住宅の集合体を整理して、それを彼の設計した幼稚園の原型として参照しようとしていました。アルド・ファン・アイクはマルティン・ブーバーを参照していたのです。ブーバーはハイデガー系のドイツ哲学をやったユダヤ人で「我と汝」という論文が知られている。後に間主体性とか西田哲学でいう「間(あいだ)」の問題をうまく扱った論文のひとつでした。僕は「闇の空間」の書き出しをこれを手掛かりにしました。
ブーバーは、時間と空間を考える際に、抽象的なデカルト空間や絶対時間では、われわれの建築的な時間体験、空間体験に接近できない。間に人間の存在を介入させない限り、それは議論できないから、時間と空間と言わず、場所と機会というふうに読み替えたほうがいいと言っています。要するに、この「闇の空間」は、ギーディオンを初めとしたヨーロッパ近代のモダニズムが共通の理解として持っていた時間論、空間論の批判が念頭にあるのです。
ブーバー論文では、空間ではなくて場所、時間ではなく機会だと西欧の基体概念そのものを批判しています。そして、人間学的、存在論的な空間論にしなければならないとして書いたのがこの「闇の空間」なんですね。それから一〇年後にノルベルグ・シュルツが全く同じプロセスで──彼の場合はハイデガーを手掛かりにして──『実存・空間・建築』を書きます。シュルツは僕に近いジェネレーションですが当時は全然知らなくて、この本で初めて知りました。だから人間論的、存在論的な空間論を探ろうにも当時は手掛かりがないわけで、大きな哲学や思潮のなかでヨーロッパと東洋はどう繋がっていくのか、そうしたことも六〇年代初め頃は、直感でいく以外なかった。それが「闇の空間」の中での光の受け取り方、あるいは空間の感知の仕方のほうが重要なんだと書いた理由です。写真で見えるような光や空間ではなくて、単に体験されたそれでもない。そんなことから身体論に僕が関心をもったことは確かですね。それが高じて六〇年代半ば以降演劇に近づいていったりしたわけです。要するに身体論を導入しない限り、空間・時間という建築に一番繋がっているものも論じえないというように思い始めたのです。
ギーディオンの『時間・空間・建築』が講義録として出版されたのが一九四一年頃ですね。彼は一九三〇年代後半にハーヴァードでレクチャーをやっていたので、戦争前くらいには一応本になっています。戦後、僕らが学生の頃やっと英語版の第一巻が手に入って英語で読みましたが、彼が使っている時間・空間にかかわるアイディア──これを足せば四次元空間というものになる──は、当時通俗科学解説としてはやっていたミンコフスキー空間だった。ミンコフスキー空間は一九一〇年代にも美術のほうでさまざまに議論されてきたキュビズムや未来派の表現を説明するには便利だった。今日で言えば、ビックバンやブラックホールについての相対性原理による通俗解説に近いもので、四次元空間論だったわけです。デュシャンなんかも完全にそこから入ってきている。ギーディオンはそれを応用して、なんとかモダニズムの建築論を組み立てていこうとしたんですね。ギーディオンが対抗していたニコラス・ペプスナーも『西洋建築史序説』の冒頭は、建築は空間の芸術だという言い方をします。当時それは新しい定義だったんです。それまでは建築は様式論か形態論で語られ空間論はなかった。この二〇世紀ヨーロッパ建築史を押えたギーディオンとペプスナーの本以外頼りになるような本は学生の時にはなかったんですね。
というわけで「闇の空間」で僕が言いたかったのは、時間は即ちプロセス、そして空間は、目も耳も足の裏もふくむ全ての身体的な感知の仕方であるということです。そこから、抽象的な時間論、空間論と違う何かを求めなければいけない。少しずつ自分のなかでも、また周辺でも見えてき始めて、そこでエンヴァイラメントという言葉が登場してきたわけです。エンヴァイラメントについてはいろいろ定義を議論した記憶がありますが、単純に身体的な存在が介入することによって感知できる形としての時空だとみればいい。だからエンヴァイラメントは、いまで言う環境問題ではない。むしろ、人間の身体の感知できる世界における関係性です。ヨーロッパのモダニストたちが第二次大戦中にアメリカに移住して、普及活動をするなかで、五〇年代にアメリカ的なものとしての現代芸術の動きがうまれてきました。アクション・ペインティングとかチャンス・オペレーションのような身体性を介入させる方法がポロックやケージを介してクローズアップする。その後継の連中が五〇年代末からネオダダとか六〇年代になってのフルクサスやパフォーマンスの作品として登場することになる。それを身体的介入によって感知される空間性と解釈して日本ではエンヴァイラメントと呼ぶようになった。西欧近代の絶対的な抽象的時間・空間とは違うという意識がありました。
日埜──なるほど。エンヴァイラメントには後の「間」展に繋がるような文脈が最初から意識されていたんですね。
ところで環境という言葉自体を一般化させた人として浅田孝さんの名前が挙がりますが、その環境とここで言う環境とは違うものですね?
磯崎──当時の浅田孝さんは環境開発センターと自分の仕事場を呼んでいた。そこで僕は万博の時にその名前をもらって「環境計画」という会社を山口勝弘とつくったわけです。環境という言葉は当時流行っていたけれど、僕らが使った環境は日本語にならないレヴェルでのエンヴァイラメントですね。浅田さんの環境は、定型はほぼできあがっていて、いまで言うとグローバルなレベルでの環境の構図というふうなものが背後にある。見方を変えると、言わばサイエンティフィックなアプローチの手掛かりとしての環境と、アーティスティックなアプローチとしてのエンヴァイラメント、この二つが同じくある。広義のほうは、僕が一番当時重視したいと思っていたバックミンスター・フラーの「宇宙船地球号」みたいなものです。フラーの最後の仕事は、全世界の環境データの分析とアーカイヴをつくるということだったわけだから、そういうアプローチは当時大事だと思っていたんですね。フラー自身も、アートとサイエンスと建築の中間に入っていた人で、それは非常に発想としては面白かった。だから、僕は存在論的な環境論から来ていますが、サイエンティフィックな環境論もある。これはミックスしていたりパラレルであったりしていると思います。
空中を浮遊するマンハッタン
日埜──「日本の都市空間」のなかで、界隈という言葉が出てきますが、手法を類型化するあの本のなかでこの言葉はやや異質な言葉だと思います。どうしても必要だけれどうまく枠に収まりきらない感じがするんですね。この界隈に対する関心が環境へと繋がって行ったと考えて良いのでしょうか。
磯崎──先ほど難問がたくさん出てきたと言いましたが、この界隈というのも難問のひとつです。霧状の雲になるような濃度と流れというようなものだと前にもしゃべったと思います。界隈と呼ばれているものをどう表現するかということから出てきたしゃべり方だったんですね。日本の都市空間をやっている時に、界隈はパターン論で説明がつくだろうと思っていました。パターン論は、いまで言うとストラクチャーです。だけど、これだと何かが抜け落ちてしまうのではないか。極端に言うとスケルトンはレントゲンでわかるけれども、レントゲンでは通過してしまうさまざまなものがある。最近は人体のチェックでも磁石で水の分布を取るとかいろいろな手掛かりが出てきているけれども、同様に、界隈も何か別の要素がないとつかまらない。つまり骨組みだったらはっきりするけれど、パターン論というのはレントゲン的な発想なんです。それに対して、もうちょっと違うイメージがないかと思ったのですが、しかしこれは表現の手掛かりがなかったっていうのが正直なところですね。故にそれをデジタライズしてしまえば計算可能になるだろうということは予測がついたとしても、では本当に計算できるのかということになるとお手上げで、それがあの時の実感ですね。
日埜──都市の中の不定形な界隈、《大分県立大分図書館》の光の濃度、それから「闇の空間」と漆黒の闇の中で作品が明滅する岡本太郎の展覧会会場構成。こうしてみると一貫してこの関心は持続しているわけですが、この列の次に並ぶ、とりわけ重要なターニングポイントは「空間から環境へ」展でしょう。この会場も黒かったんでしょうか。
磯崎──あれはいろいろな人間がいたから完全に黒くできなかった。岡本太郎の時には会場構成はひとりだったのと、初めてだったし徹底しようとしたんですが、「空間から環境へ」展ではそういうわけにはいかなかった記憶があります。
日埜──「年代記的ノート」には「普段は落着いた展示会場であったのが、さながらグレン隊の練り歩く街頭か、陽気な遊園地の雰囲気を呈した」と書かれています。なにかしら手応えというか、実感があったのではないかと思います。
磯崎──遊園地的というかデザイナーがたくさんいたし、アーティストも例えば色彩を使う具体美術系の人たちとか、舞台芸術やさまざまに動くキネティック・アートをやる人が多かったですね。たんに壁にかけたり床置きにするのじゃない展示は六四年におわった読売アンデパンダンはじめ街頭や街の画廊で既にたくさん試みられてきたので、その連中が集合した感じでもありました。これはその後万博アートと呼ばれる側に動きました。一方、土方巽主催の暗黒舞踊や寺山修司の土俗日本と奇妙なモダニズム人体機械のようなイメージに加えて、彼の「書を捨てて街にでよう」という単純なフレーズがそんな動きに拍車をかけていました。三島由紀夫はこのあたりのラディカルな動きを一番理解できていたひとりだと思います。
六〇年代の中期の微妙な美術の動向のシフトは、やっぱりヨーロッパ・モデルからアメリカ、とりわけNYモデルに変わったことがひびいている。それはプライマリーとポップアートで代表されます。いずれもロンドン起源なのに、ニューヨークにこれが定着したこと、これはマンハッタンがメトロポリスとして、現代美術がその空間や生活を選びとったことにかかわるように思うのです。
僕ははじめて六〇年代はじめにマンハッタンを訪れて、「虚像と記号のまち ニューヨーク」という文章を書きました。それは、夕暮れの一瞬に巨大な都市空間が影を失って、浮遊感がただよう魔の刻に出逢ったことです。蛍光燈とカーテンウォールで埋められただけなのです。それがメトロポリスが歴史のなかにみずからの特性をきざみつけた最大のものと言っていい。
山口勝弘が、内照されたアクリリックの単純な形を展示したとき、重力の感じられない彫刻がうまれた。これもあのマンハッタンの気分そのものでした。二〇世紀の終わり頃全世界にそんな光景はあふれていますが、それが芸術の世界に登場したのはやっと六〇年代の初めなんです。背後にはテクノロジーがひかえている。だけど姿をみせることはない。未来派が騒音をこそメトロポリスの象徴とみたのに対して、ここでは無音になって、空中を浮遊しはじめたのです。「空間から環境へ」展はそんな光景でうずまりました。何かのシフトがあったのです。
日埜──日本の前衛と呼ばれる一連の動きが収束し、次の方向へ向き直って行くまさにそのタイミングですね。
磯崎──でしょうね。元前衛がみんなそこでねじれて変わっていったわけですから。
『他人の顔』における非実在空間
日埜──前回インタビューで勅使河原宏さんが監督をされた『他人の顔』の話が出ましたが、これが六六年ですからちょうどこの頃です。あるレクチャーで磯崎さんは次のように言われています。
「この美術で一番考えたのは、リアルなオブジェや建築の輪郭までをできるだけなくして、まったく抽象的な重力のないような背景のなかで演技が進行するような場を作りたいと思って、協力していたときがありました」。
こうしてみると先ほどのマンハッタンの印象と繋がってきます。
磯崎──ごく最近のことですが、カナダのシネマテークで勅使河原宏の映画をDVDにまとめるとき、当時のことを知っているということでインタヴューをうけました。安部公房、武満徹、勅使河原宏、みんな亡くなってしまった。少しだけ若かった僕だけが残っちまった。それであらためて昔のことを思いだそうとしています。元来、『他人の顔』の最初は美術をやることになってロケハンなどにつき合っていたのですが、丹下研で担当したスコピエの再建計画コンペに入選して、現地に行かねばならなかった。それで撮影開始から三カ月程抜けてしまった。スコピエから宏さんにスケッチやらメモを送った。インタヴューのときには「その手紙がどこにあるか知らない」と言っているのですが、今度、「勅使河原宏展」の整理の過程でみつかって、これも展示されています。ここでも無重力の浮遊する空間をつくりたいと考えていました。真白で影のない空間。
日埜──映画としてはどんな作品だったのでしょうか。
磯崎──要するにそれまでの勅使河原宏と安部公房の組み合わせは、『おとし穴』『砂の女』の両方ともカフカですね。人間関係の奇妙さが物質的関係のなかから生まれてきます。例えば『おとし穴』は炭坑の話です。『砂の女』というのは砂の中に埋まっている。そういう身動きのならない、言わば限界状態に人間は置かれていると人間の内面まで変わっていくというのが基本的な主題です。『他人の顔』もおそらくその続きで、手術して顔を変えて別の仮面をかぶったら内面も変わるのではないか、そして、人間関係も違ってくるのではないか。実は奥さんから見破られてしまう。そんな変換の起こる手術室案のデザインが僕が協力した部分です。後になって僕の送ったメモをみると、できないだろうと思いながらいくつかの指示をしています。棚の具体的な製作は三木富雄がやりました。耳にオブセッションしていたアーティストです。時期的には「闇の空間」を書いてしばらく後のこと、そのなかで虚をいっていますが、そんな非実在の空間が映画では表現可能かもしれないと期待していたけど、僕はできあがりをみて、あの映像表現は大成功したと思っています。映画づくりはつき合って、つくづく大変だということがよくわかりました。
日埜──YouTubeというネット上に動画を勝手に掲載しているサイトがあるんですけど、そこで『他人の顔』の予告編だけ見ることができました。ガラスの棚に人間の歩く姿が幾重にも反射して幻のように通り過ぎていくシーンが印象的でした。
磯崎──映画のなかでは、医者と看護婦がいてこの二人はできているらしい。この二人の診療室の様子を医者の奥さんが監視しているわけです。その奥さんが、この真っ白いところをふぁーっと幽霊みたいに通っていく。だから、映画のなかだと誰もよくわからない。影がない、シルエットだけになっている(笑)。
日埜──当時の勅使河原宏は、どちらかというと、草月流うんぬんというよりも、美術家であり、かつ草月アートセンターのディレクターとして先端的な試みを行なっていた存在ですね。
磯崎──草月アートセンターは丹下さんの前の草月会館にありました。現在の会館よりはデザインはもったりしているけど、いまとなったらこっちのほうが良いと思いますよ(笑)。その地下のホールでパフォーマンスをやっていました。彼は、映画の後にはインスタレーションをやるアーティストにもなりました。とにかく華道の家元を継がざるをえなくなった。家元になってからは生け花もやっていましたが──これはこれでとても巧かった──それが本職であると思っていなかったと思いますね。
草月アートセンターは当時でいうアヴァンギャルド・アートの唯一の中心でした。例えば、ジョン・ケージの日本での初演はここでした。オノ・ヨーコの初期のパフォーマンスも土方巽の暗黒舞踏もここでみました。唐十郎もテント架けで芝居をスタートしたけれど、ここで一度は公演するっていうのが目標だったんですね。草月アートセンターの記録を探せばたくさん出てくると思うんですけど、それがまた万博に流れていくいろんな動きを継続的につくっていったということは言えると思いますね。
日埜──勅使河原宏は安部公房と「世紀の会」を結成し、これが『他人の顔』の監督と原作者ですね。武満徹は音楽を担当していますが、むしろ彼は山口勝弘さんらとの実験工房のグループでしょう。するとそうした人たちは互いに近い存在だったんでしょうか。それともたまたまここで同席しただけでバラバラだったのか。
磯崎──みんなバラバラですね。
日埜──それには、政治が絡んでいたんでしょうか。
磯崎──その通りですね。要するに、五〇年代の日本の左翼というのは共産党が中心だったんですけれども、朝鮮戦争が始まる前後に、党が所感派と国際派に分裂したんです。国際派はどちらかというとロシア・コネクションで、インテレクチュアルな連中はみなこっちです。所感派は地道に日本の条件のなかから革命を発想するという、どちらかというと中国共産党の毛沢東主義。この二つはお互いに批判しあった。結局、国際派が負けて全部除名され、東大のなかにはもう共産党細胞もなくなった。その、東大細胞の再建をやったのが、駒場寮で同じ部屋に住んでいた津田孝です。彼ははその後二〇年くらいは所感派系統の日本共産党の文化部のポリシーをつくっていたと思います。
美術界はというと、こちらはモダニズムと社会主義を結合させようとしていた一派と、純粋社会主義リアリズムの系統とに分裂したわけです。日本アンデパンダンは後者、そのなかの一部が読売アンパンに流れ、ラディカルな芸術活動へとつきすすみ、結局自滅します。たしかに、左翼のなかでの政治的路線闘争が、芸術の世界に影響を与え、分裂していく。僕は伴走していても活動家になるほどの余裕がなかった。むしろ芸術領域でそれを別なかたちで政治化することに興味をもっていたというべきでしょうね。だから、七〇年代になってフォルマリズムに関心をもったときも、それを政治的に読み解くことをやろうとしていました。最近五〇年代頃の岡本太郎について「青山時代の岡本太郎」(「青山時代の岡本太郎 一九五四─一九七〇」二〇〇七年四月二一日─七月一日、川崎市岡本太郎美術館で開催)のカタログに書いたんです。これは、僕がなぜ丹下さんに連れられて岡本太郎のところに行ったかという経緯と、五〇年代から六〇年代の太郎さんとの付き合いを書いています。で、当時、岡本太郎のやっていた「夜の会」と現代芸術研究所の活動があって、この安部公房・勅使河原宏たちの「世紀の会」はそれに比べたらもっとマイナーでほんの数名という感じです(笑)。僕は学生の時にたまたま連れて行かれて彼らと知り合いになりました。岡本太郎は完全に孤立していました。同僚のアーティスト、美術家、文学者もほとんどいない。それで、彼は建築家とかデザイナーをオルグし「現代芸術研究所」と称した。お山の大将みたいでした。この連中が、最後に日本デザインコミッティに流れていきます。
赤瀬川原平、荒川修作たちは、まだ二〇代でしたから、主流とは無関係です。この草月アートセンターの全記録は、『美術手帖』の編集者だった福住治夫君がまとめていたはずですが、まだかたちになったのは見てないですね。当時『季刊フィルム』(フィルムアート社)という雑誌がありました。これは、草月アートセンターの活動から誕生した雑誌ですが六〇年代の芸術的、政治的な運動を知るひとつの手がかりになる雑誌だと思います。
『他人の顔』用磯崎スケッチ© 草月
『他人の顔』スチール写真© 草月
制御室としての《お祭り広場》
日埜──神奈川県立近代美術館での山口勝弘さんの展覧会に際して行われたレクチャーで、磯崎さんは「都市と建築のことをやっているが、そういう職業は存在しないから、普段やるとすれば、アーティストとしての仕事もやらないといけないことになるのではないかと思っていました」とおっしゃっています。これを真正面に受け取るわけではないんですが、しかし、そういう立場にいようという意識が当時あったんでしょうか。
磯崎──というよりも、その両方をカバーできるのは、アーティストと自称する以外しょうがないんではないかというような感覚だったんですね。当時は建築家という自覚があまりなかった。建築に関わっているっていうことはわかっていたけれど、建築家と自称したくないと思っていたんです。だから、都市デザイナーとか自称していました。一応一級建築士はもらっていましたが、建築家というようになったのは万博が終わってからです。
日埜──一九六六年の一一月の『美術手帖』増刊号「空間から環境へ」(一九六六年一一月刊)に、東野芳明さんと磯崎さんの対談があります。基本的には美術の文脈の話ではありますが、どうも半分ぐらいは都市および建築の議論であるようにも読める。乱暴に要約すると、建築単体で空間と言うことの意味が薄れてきていて、その集合としての都市にまで連続した空間を考えざるをえなくなっており、人間を包囲している物質的組織としての環境に行き着くんだというわけです。
それがこの展覧会を経て、展覧会に参加したアーティストが「エンヴァイラメントの会」を結成し、最終的にそれは万博の《お祭り広場》へと繋がっていく。「空間から環境へ」展には《福岡銀行大分支店》のインテリアの鮮やかな彩色模型が出品されています。《大分県立図書館》における光の濃度、そして闇の空間、そしていわば色の空間が既に試みられていて、さらにそこに多くのアーティストがそれぞれの立場で関わり、ひとつの環境として集大成される総合芸術を組み立てるために協働していくわけですね。環境の可能性に確信をもつにいたるきっかけというのは何だったのでしょうか。
磯崎──時代の気分なのかもしれません。万博がらみで、六七年の頃にロボットイメージを考えていて、ヒューストンのNASA本部に行った覚えがあるんです。まだアポロが月に到着する前ですから月着陸船の設計をやっているらしいと、それのモックアップもできたらしいということを伝え聞いて、それでヒューストンに行って、建物の前に置いてあるモックアップ──中身がない輪郭だけの着陸船──を見に行ったんですね。これはミッキー・マウスのぬいぐるみを見るようなもんです。むしろそこで一番関心を持ったのは、全部のオペレーションを中央制御室で集中的にコントロールしていることでした。
映画『アポロ一三号』を見ると、みんながハラハラしている制御室ばっかり出るじゃないですか。あれが一番感心したもののひとつだったんですよ。ちょうどその頃「見えない都市」を書いたのですが、この制御室というのは、一種さまざまな社会現象や都市計画などを複雑なレヴェルでコントロールしオペレーションできる、そのモデルじゃないかとその時は思ったんですね。
「アポロ計画」を制御できるコンピュータが、社会を制御できないはずはないじゃないかというのがあって、そしてその超ミニ版を《お祭り広場》でつくろうと考えたんですね。だから《お祭り広場》も同じようにつくったわけです。ダグアウトにものすごい大きいコンピュータを入れて、そして、管制塔の中に管制室のブランチをつくった。だから、ロボットは宇宙船と同じで管制室から基本的な操作ができると同時に操縦者が中に入って、自らマニュアルで操作も可能。だから地上にいる「デメ」「デク」だけでなく、天井を移動する演出照明一式も、これを吊り下った(ハンギング)ロボットと呼んでいました。面白いのは実際に、シンセサイザーなんていうのはまだ当時複雑だったのでそのプログラムをつくればいいと、コンピュータ音楽が作曲できるシステムをつくったんですね。それも連動させなきゃいけない。そして、光は点滅だったんですが、スピーカーが六〇〇個、床と天井に置いてある。音が縦横斜に走る。これを全部コンピュータでコントロールできるようにつくろうとしたんですね。つくっても誰も使えないというのが実情でした。六チャンネルのコンピュータ音楽を一柳慧たちに頼んでつくり、それが全部コンピュータに入っているというのまではやったんですが、実験的に動き始めてから六カ月はすぐ経つ。いよいよ面白くなりそうだというところで終わっちまいました。
日埜──ということはその場で作曲していたんですか?
磯崎──その場でも作曲できます。もちろん、テープをもらってきて、全部マニュアルで変奏できる。完全にコンピュータで操作もできるし、キーボードでマニュアルで動かすことできる。両方つくりました。そうするとみんなマニュアルでやるわけです(笑)。当時はまだコンピュータなんて面倒くさくてやってられないっていうのが実情でしたから。でもある程度のシステムのモデルスタディみたいなのはできたという感じです。これがうまくいったかどうかというと……誰も聴いているか聴いていないかわからないような状態(笑)。
ああいうところでは「デメ」はプリミティヴなかたちでもあったので目立ったんでしょう。だからデメを用いたいろいろなパフォーマンスは記録に残っているんですが、コンピュータで制作されたものは行方が全然わからない。もう消えちゃっているのか何も残ってない。あるいはどこか探せば月尾嘉男が何カ月かかけて書いたプログラムはあるかもしれない。その頃は売り買いできるプログラムなんてないからどうなのかな。いまから、四〇年前、技術レベルはその程度だったんです。
六九年に月にアポロが到着するその前ですから、かなりの期待感をアポロ計画には持っていました。話が全く飛びますが、いわゆるインテリジェントビル。これは何から流行ったかというと、アポロが一三号で失敗したりして月へ行ってもしょうがないと、計画を打ち切った。技術者が大量失業したんですね。そうすると、エンジニアたちは電話を含めてコントロールできるシステムを仕込んだビルを提案した。これがインテリジェントビルの始まりですよ。だからあれはアポロ計画が潰れた後利用なんですね。軍事産業がなくなると民間利用に流れる。戦後の軍事技術が建築に影響しているという例もいろいろあります。アメリカは五〇年代の建築がクオリティが一番高いと僕は思っています。六〇年代になってどんどん悪くなっていく。五〇年代がなぜいいかというと、戦争技術が平時用に転換せざるをえなかったためです。バックミンスター・フラーの五〇年代の建築的なコンセプトにしたって、彼が戦争中に軍の委託研究をやっていた時のアイディアをそのまま都市論や建築計画に持ち込んだだけの話です。ところが、これがベトナム戦争で途切れてしまう。どんどん駄目になって枯葉剤みたいなものを開発しますが、あれは後は使えない。それで、アメリカの建築も回復をしていないんだと思います。コンセプトもクオリティも寂しい。唯一、インテリジェントビルとアトリウムです(笑)。
文化大革命からポストモダンへ
日埜──万博よりは少し前になりますが、ミラノトリエンナーレのために《エレクトリックラビリンス》を制作しています。あれも環境のひとつの試みと言えるでしょう。とりわけ面白いのは観客の行動に反応するサイバネティックスが組み込まれているところだと思います。
磯崎──そうですね。あれは、あのセンサーを入れて不意に事件にまきこむということを思いついたものですが、こちらのほうは最近やたらポピュラーになった。
日埜──インタラクティヴなアートですから、人がそれを体験することで環境自体も変わるし、単にスタティックな空間を傍観者として見るというのとは全く違うことになる。だからこそラビリンスです。数年前に再制作されたものを見る機会がありましたが、環境のエッセンスのある部分が凝縮されていると思います。
磯崎──それまでのいろいろな動き、特に六五年前後の変化なり動き、それから万博に繋がっていくようなコンセプトなりが、たまたま《エレクトリックラビリンス》にある形をもってまとまったということは言えると思います。
日埜──この場合も一柳慧さんなどアーティストを何人か巻き込んで制作されていますね。
磯崎──グラフィックは杉浦康平で、写真素材は東松照明に集めてもらったんですね。
日埜──動かす仕組みは誰が作ったんですか?
磯崎──設計は僕がやって、回転のメカニズム、センサーは草月アートセンターのエンジニアで音響技術をやっていた奥村幸雄。これは、センサーで回転するんですがそれは簡単なものですよ。オートドアなんかと一緒です。彼がさっと配線図を描いてくれて、イタリアに持って行ったらすぐできたんです。
日埜──トリエンナーレの他の参加者はもう少しオーソドックスなプレゼンテーションだったのでしょうか?
磯崎──アーキグラムはイエローサブマリンという飛行船みたいなものでしたが、これは動かなかった。ハンス・ホラインはすごく狭いところの、駅の入り口みたいなところを通るわけですが、両側にさまざまな仕掛けをつくった。彼らしいインスタレーションでした。
日埜──インスタント・シティならぬインスタント・エンヴァイラメントみたいなことでしょうか。
磯崎──輪郭がスタティックだけど、彼流にいろいろ理屈がついていました。ほかは、ピーター・スミッソン、アルド・ファン・アイク、ソウル・バス、ジャンカルロ・デ・カルロなど……。
日埜──ソウル・バスの名はこの当時建築の文脈でよく見かけますが、彼はどういう存在だったんでしょうか。
磯崎──彼はグラフィック・デザイナーだけどとっても面白い仕事をしています。とりわけ初期のグラフィカルなアニメーションなんかなかなかのものです。『ウエスト・サイド物語』のタイトルバック──いまはメディアアートの定番になっているようなものですが──当時は手間がかかり大変でした。彼がこのとき制作したのは「グレーター・ナンバー」というテーマに対して、世界の赤ん坊が増えていくありさまを引き出して使ってやっていました。赤ん坊の泣き声が合唱みたいになったりして。
トリエンナーレ会場が学生たちによって封鎖されてしまった事件については、ブルーノ・ゼヴィが雑誌にコラムを書いたのが印象的で、僕は初めて彼の軽いコメントで事態の本質がみえ始めた気がしました。このあたりは『空間へ』に載せた文章にあると思いますが、言い換えると、デザイナーが、みずからの出自をみずから攻撃している。自己言及的な、自縄自縛の行動だったということ。だけどこの身動きならぬロジックこそが、次のポストモダンの時代の基底になったことが後になってより自覚的にわかってきました。もっと拡大して解釈すれば、ラディカリズムは自滅することによってのみ決着がつくという僕なりの観察にもつながります。ポストモダニズムというのはそれから一〇年後くらいから流行ってきたけれど、コンセプトとしては、その時のこの関係が具体的に、哲学にしても、美術にしても、何にしても出てきたことにすぎないのではないかと思い始めたことは確かですね。だから、僕は体験しないと考えないので、この体験は僕にとっては貴重だったと思いますね。当時中国の文化大革命にも関心をもっていたけれど、あのなかで動いていったさまざまな問題には、自己言及性みたいなものはロジックとしては一切ない。だから嫌な思い出、戦争の嫌な思い出というふうにしか受け取られていない。《エレクトリックラビリンス》を中国でやったときに、文化大革命、五月革命の時期が重要だと盛んに言ったんですけど、これはほとんど理解されなかったですね。せいぜいMITでいま教えている張永和くらいが、六八年問題を磯崎さんは言っているんですね、それで毛沢東が出るんですねというような理解をしてましたが、後は全部、毛沢東のイメージはまずいとかこういうふうな話ばかりですよ(笑)。
日埜──環境をキーワードとする磯崎さんの仕事は、随分長いタイムスパンで広がっているようです。《お祭り広場》からパレイディアムまではほんの一歩と言ってもよいかもしれませんし、そこからトリノ・オリンピックの《アイスホッケー会場》に繋げて考えることもさして難しくない。福岡オリンピック提案における競技場の巨大なテレビスタジオのような室内競技場も、メディアという新しい要素を合流させながら、ひとつの総合的環境をサポートする建築に違いありません。少なくとも六〇年代後半からごく最近に至る息の長い持続的な文脈で、一見多様な仕事の取り組みと見えるものが、きわめて緊密に結びついていたんですね。
磯崎──やはり引っ張られるんですね。大げさな言い方をすると、例えば《エレクトリックラビリンス》にはそれより前の一五年間の僕なりのスタディが周辺の問題も含めて集約されている。それから後も建築や都市だけをやっているわけでもありません。それら以外のフォーマットを借りて、つまり異なる表現形式でいつかまたつくりたいとも思いますが、まったく違ったものになるでしょうね。
ともあれ、今日の話のポイントは、一九六五年が、さまざまに流れている違う領域にパラダイム変換ともいうべきシフトが起った年だったということにつきるかもしれない。僕にとってはまだモラトリアムの時期でもありました。
[二〇〇七年八月一〇日、磯崎アトリエにて]