いかのような問題提起を考察したい。
なるほど、とても興味深い設定である。これについてできる限り考察してみよう。
異世界チート主人公系ラノベというジャンルがある。一個の現代人の主人公が常識や物理法則の違う異世界に飛ばされて、世界の差異を利用して有意に立つという筋書きの物語である。主人公はどこにでもいる一般人、それも無職とか低賃金有期雇用者とか、社会的弱者であることも多い。
ここでは2016年の人間が1900年に飛ばされて、科学知識の差を利用して活躍する筋書きである。活躍する上で、理解がクソなために科学の発展を阻害するというオチまで付けなければならない。
しかし、実証主義として考えれば、実際に観測可能な現象と一致する結論は、たとえ仮説が間違っていたとしても、科学の発展にはもたらす害悪よりも利益のほうが大きいのではないか。たとえばニュートンは筋金入りの神秘主義者で、現代の常識から考えれば非科学と迷信に凝り固まった人間ではあるが、ニュートンは確実に科学の発展に寄与している。
さて、まず1900年の科学水準について確かめてみよう。ひとまず1900年の日本語版のWikipediaを確認してみる。
1900年 - Wikipedia
- 1月2日 - 初の電気バスがニューヨーク市で開業
- 4月11日 - 米海軍が初の潜水艦ホーランド (潜水艦) を取得(就役10月12日)
- 5月1日 - 東京電気鉄道(後の都電)設立
- 5月29日 - 米国オーチス・エレベーター社がエスカレーターを商標登録
- 7月2日 - ツェッペリン(水素ガスによる飛行船)が初飛行(ボーデン湖)
- 7月19日 - パリ万国博覧会会期中にパリの地下鉄が開通
- 8月8日 - 国際数学者会議にて、ヒルベルトの23の問題のうちの10題が公開される
- 9月11日 - 日本初の自動公衆電話が東京の新橋駅と上野駅、熊本市内に設置
後にガンマ線と名付けられる放射線をポール・ヴィラールが観測したのも1900年である。
元素の発見もかなり進んでいて、放射性の元素もかなり発見されていたし、非放射性の元素はほとんど発見されていたし、未発見のものも発見は時間の問題であった。
なるほど、1900年の科学水準というのは、すでに電気バス、潜水艦、電車、エスカレーター、飛行船、地下鉄、公衆電話が存在していたどころか実用化もされていて、かつ数学もだいぶ進んでいたし、放射線の理解も進んでいたし、元素も安定したものはほとんど発見されていた。
さて、困った。1900年は思ったよりも科学水準が高い。例えば筆者程度の人間が1900年に飛ばされても、現代の科学知識を用いてチート主人公になることはできない。
ひとつ考えられるのは、この頃の一般大衆の科学水準はまだ低く、宗教や迷信が強く信じられていて、現代の進んだ心理学を元に大胆に振る舞えば、新興宗教とかネットワークビジネスの開祖としてそれなりに活躍できるのかもしれないし、「まっとうな科学の発展を阻害」するというもうひとつの目的も達成できるのかもしれないが、そういうことができる人間は現代でも新興宗教とかネットワークビジネスの開祖になれるだろう。そして、後述する言語の違いにより、この方法によるチート主人公となるのも難しいのである。
2016年と1900年で大きく違うのは、言語と人権である。この差は、おそらく主人公にはチートどころかハンディキャップになるであろう。
1900年の日本語は、現代と発音が異なる。2016年の主人公が音声学と日本の方言の考古学を専攻していて、かつ発音の実践を積んでいない限り、話し言葉による日常会話は困難であろう。1900年の価値基準で判断すると、主人公は実質的に失語症になってしまう。
書き言葉の差はもっと難しい。主人公が古文漢文に加えて草書体を相当に深く学んでいない限り、1900年の日本社会では文盲の扱いを受ける。当時は、ラテン語の読み書きができないものは論文すら読めずに、科学の世界に足を踏み入れることさえできない。文章で科学知識を伝えられなければ、いかに2016年の第一線の科学知識を持っていいようと無力である。英語はまだ世界共通語の地位を確立しておらず、ドイツ語やフランス語も科学の世界ではまだ強い力を持っていた。
たとえ筆者が2016年の最新の科学技術の知識を持っていて1900年において文書で書き残したとしても、その内容の解読には長い年月がかかり、功績が理解されるのは主人公の死後50年以上かかるであろうし、その頃には主人公の書き残した科学技術は独立して発見されているであろうから、社会への影響は、一部の歴史学者の混乱を除いて、良くも悪くも与えないだろう。
1900年においては、人権はかなり軽視されていた。たとえば1900年の1月23日には、光明寺村女工焼死事件が起こっている。これは織物工場で働く労働者の寄宿所が火事になったのだが、当時の慣習として、労働者の逃亡を防止するために、寄宿所の窓は鉄格子の上、ドアが施錠されていたから、労働者は逃げられなかったのだ。
リンカーンによる奴隷解放宣言は1862年であったが、アメリカ合衆国において黒人が選挙権を実際に行使できるようになるのは1971年からであった。
これを考えると、1900年に飛ばされた主人公は意思疎通ができず知的障害とみなされ、日銭を稼ぐために奴隷のような劣悪な労働環境に身をやつすことになるだろうと予想できる。
考察結果として、1900年の科学水準はかなり高く、2016年の一般人程度があやふやな科学知識を振りかざした程度では、異世界召喚系ラノベのような活躍はできないことが判明した。