自動車研究家“山本シンヤ”が聞いた「MORIZOがニュル24時間へ挑む理由」

第6回:豊田章男氏が「モリゾウ」と名乗り始めた経緯

2016年のデトロイトショーで「クルマ好きである」と語る豊田章男会長(当時は社長)

 豊田章男氏が「モリゾウ」という、もう1つの顔を持つようになったのは、なぜか?

 世界最高峰の草レースと称される「ニュル24時間」に参戦するには、当然のことながら国際ライセンスが必要となる。JAF公認のスポーツクラブによる推薦制度もあったが、相談にいったTOM'Sの舘信秀氏に、「推薦はダメ。順序を踏んで取ってください」と言われ国内レースに参戦することになった。

 なお、ニュル24時間に出場するには、FIAの「国際C級ライセンス」と、ドイツのレースのシリーズ(VLN/NLS)で実績を積んで「NurA級ライセンス」を取得するか、DMSB(ドイツモータースポーツ連盟)発行の「ノルトシュライフェのライセンス」を取得する必要がある。

 ただ、ドライバー名が“豊田章男”だと、さすがに一瞬で世にバレてしまう。そこで「JAFのドライバーライセンス名は、本名以外でも登録可能」を活かし、愛知万博のマスコットキャラクターにちなんで「モリゾウ」とした。要するに、当初は豊田章男を“隠す”ためのネーミングだったのだ。

レーシングドライバーを経て、トヨタ系レーシングチームおよびトヨタ車のチューニングパーツを製造する会社「トムス」を創設した舘信秀氏。氏の助言があり豊田章男氏は国内レースの参戦をスタートした

 この話は追って深堀りをしようと思っているが、今回はそれよりも昔の話、「クルマ大好き、運転大好き」を公言する章男氏の若かりしころのクルマに関わる“原体験”を紹介したい。


 豊田章男氏は、1956年5月3日に、豊田章一郎氏(名誉会長)と博子夫妻の長男として誕生。幼少期からクルマに触れる機会が多かった章男少年だが、実はレーサーになるのが夢だった。また、記憶に強く残っているのは、「父と一緒に観戦した日本グランプリ」と言う。

「実は日本グランプリは第1/2回(鈴鹿)、第3回(富士)と見に行きました。これが私とモータースポーツの原体験です。この時、モータースポーツは素直にカッコいいと思いましたし、それは今でも変わっていません。それは『好きな人が好きな事をやっている事』を『恥ずかしがらずに見せる事』を目の当たりにした事が大きいです」と語る。

 続けて、「ここで当時の章男少年が感じたように、子供たちの記憶に残るクルマやモータースポーツの原体験をしてほしい。そのために現在進めているのが、富士モータースポーツフォレストになります」と目を輝かせる章男氏。

現在も建設が着々と進められている富士モータースポーツフォレスト

 その中でも、章男氏は1966年5月3日に、富士スピードウェイで開催された第3回日本グランプリの時の事はよく覚えていると言う。奇しくもその日は章男氏の10歳の誕生日であり、プレゼントの1つだったのだろうか?

「当時トヨタの役員は富士スピードウェイに行くときは、箱根の花月園に泊まっていましたが、10歳の私は初代カローラの主査である長谷川龍雄氏のドライブする、カローラの助手席で富士スピードウェイまでドライブを経験しました。峠道を颯爽とマニュアルミッションを駆使しながらドライビングする姿を横目に見ながら、『何てカッコいいおっさんなんだ‼』と子供ながらに感じました。これも私の原体験の1つですね」。

「当時の父は、私がモータースポーツをやっているのに対して、『何をバカな事をやっているのか?』と言いましたが、私からすれば『いやいや、あなたが最初に連れてきたんでしょ』と(笑)」。

 その一方で、自らのクルマとの出会いについて、こんなことも語っている。

「生まれた時から家のガレージにはクラウンがありました。つまり、私の人生にはクラウンと共にあったと言っても過言でありません。日本グランプリからの帰り道、大渋滞に巻き込まれ、名古屋に着くころには夜が明けようとしていましたが、私は父の運転する2代目クラウンの後席で見た“日の出”を今も忘れることはありません」

 その後、16歳で運転免許を取った章男青年だが、他の若者と同じようにスポーツに打ち込む。大学在学中はホッケー部に所属し、その腕前は日本代表にも選出されるほど。章男氏が今もスポーツの持つ力に共感して、アスリートの応援をする背景には、自らがアスリートだった事も大きいはずだろう。

 ちなみに章男氏が初めて所有したクルマは、おばあちゃんに買ってもらった「コロナSR」だという。

「確かエアコン、ラジオも付いていなかった事が記憶に残っています」。

 そして自分のお金で初めて買ったクルマは「カローラセダン」。それもただのセダンではなく1.6リッターのDOHCエンジン(2T-G)を搭載した1600GT(TE71)だった。

豊田章男氏のはじめての愛車となったのが4代目カローラ1600GT(TE71)

「このカローラも私の原点ですね。店頭表示価格の102万円を99万円にまけてもらいました。このクルマには青春時代の忘れられない思い出がたくさん詰まっています。当時の私は運転が上手か下手かは正直分かりませんが、“好き”だったことは間違いありません。ただ、環境が許さなかったのでサーキットを走るような事はできず、暇な時間を見つけては山道に行って走っていました。比べる相手もいなかったので1人で黙々とでしたが……」。

 そして大学卒業後はアメリカの投資銀行に入社。トヨタ自動車フェロー・藤井英樹氏が執筆した「上司 豊田章男」の中で、「章男氏は、世の中のお金の流れや金融技術を学びたいと言う動機に加えて、1人の人間として『トヨタ』とは違う人生を歩みたい。そんな想いで選んだ道だったと思います」と述べている。

 章男は当時、「しかし、ここでも『トヨタの御曹司』と言う目からは逃れることができませんでした。『Who am I?』、『私は一体何者なのか?』そんな気持ちが大きくなってまいりました。どうしても逃れることができないなら『トヨタと真正面から向き合ってみよう』、そう考えた私は、トヨタ自動車の入社を決意したわけです」と語っている。

 結果的に章男氏は、1984年にトヨタ自動車に入社。創業家ではあるものの、特別扱いは一切なく、他の社員と同じように通常の手続きにより入社が認められ、平社員からトヨタマン人生をスタートさせた。

豊田章男氏が最初に配属されたのは8代目クラウンの生産準備だったという

 最初に配属されたのは、元町工場で8代目クラウンの生産準備だった。その後、国内営業などを経て、業務改善支援室では中古車画像検索システム(UVIS)を開発。これを元に店舗用端末ネットワーク「GAZOO」を実用化。

 さらに自動車関連の情報を総合的に提供するWebサイト「GAZOO.com」の立ち上げ、GMとの合弁企業「NUMMI(ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング:New United Motor Manufacturing, Inc.)の副社長、新興国市場をターゲットにした世界戦略車プロジェクト「IMVプロジェクト」の統括など、さまざまなプロジェクトに関わる。

 しかし、モリゾウが生まれるターニングポイントは2000年6月。取締役就任に合わせて北米から日本に帰国した直後だった。本社ビル(豊田市)でのマスターテストドライバー・成瀬弘氏と出会うが、成瀬氏はあいさつも早々に章男氏にこのように伝えた。

「あなたみたいな運転の事も分からない人に、クルマのことを『ああだ』『こうだ』と言われたくない。最低でもクルマの運転は身につけてください。われわれ評価ドライバーをはじめとして、現場は命をかけてクルマを作っている事を知って欲しい」。

 実は章男氏は北米赴任中に、アリゾナのテストコースで社内の運転資格(上級)を取得していたが、それにも関わらずその言葉を聞いた章男氏は「本当に唖然とさせられました」と語っている。このやり取りはさまざまなメディアにも掲載されているが、これにはちゃんと続きがある。

「月に一度でもいい、もしその気があるなら、僕が運転を教えるよ」。

 口下手だけど面倒見のいい成瀬氏らしい思いやりだった。この時、章男氏は「不思議と嫌な気がしなかった」と語り、好きだったゴルフを封印。運転訓練がスタートした。

山本シンヤ

東京工科自動車大学校・自動車研究科卒業。自動車メーカーの商品企画、チューニングパーツメーカーの開発を経て、いくつかの自動車雑誌を手掛けた後、2013年にフリーランスへと転身。元エンジニア、元編集者の経験を活かし、造り手と使い手の両方の気持ちを分かりやすく上手に伝えることをモットーにしつつ、クルマの評論だけでなく経済からモータースポーツまで語れる「自動車研究家」として活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員、ワールド・カー・アワード選考委員、日本自動車ジャーナリスト協会会員。YouTubeチャンネル「自動車研究家 山本シンヤの現地現物」も運営中。