今年にはいってから、あるいはもっと以前からなのかもしれないが、当欄では、リアルな政治の話題を、直接に扱うことをはばかっている。

 読んでいるみなさんは、特段にそういう印象を抱いていないかもしれないが、書いている当事者である私の側では「政治から距離を置いている」という自覚を持っている。

 理由は、簡単に言えば、めんどうくさいからだ。

 政治向きの話題は、それらについて観察を続けること自体がそもそもやっかいな作業であるわけなのだが、それ以上に、事実関係や背景を調べるのにいちいち煩瑣な手続きを求められる泥んこ仕事だったりする。記事として仕上げるのにもそれなりの手間がかかる。なにより読解力の低い読者や、狂犬みたいなアカウントからの定型的な反応に対応することが、死ぬほどめんどうくさい。

 そんなわけなので、多少気になるといった程度の話題には、自然と食指が動かなくなる。これは以前、自分でもこうなるだろうと予想していた事態で、まことによろしくない。

 一方で、政治の話題を遠ざけていると、コメント欄にその点を高く評価するご意見が思い出したように寄せられたりして、私としては、そこのところに微妙なひっかかりを感じている。

 「なるほど。オダジマが政治ネタ離れすることを喜ぶ読者層が一定数存在しているわけだな」

 と思うと、面白くないわけだ。
 ツイッターのアカウントにも、その種の反応が届く。

 要約すれば、

 「あんたは身辺雑記を書き飛ばしている限りにおいてはわりと読ませるライターだけど、政治向きの話題を扱うととたんにバカさ加減を露呈することになっているから、その点は自覚したほうがいいぞ」

 といった感じの見方を、わざわざ本人に伝えてくるアカウントが、定期的にあらわれるということだ。

 今回は、オダジマに政治の話題を書かせたくない人たちについて考えてみることにする。

 政権支持層の中に、反政権的ないしは反安倍的な記事やツイートを、とにかく全面的に排除しにかかる活動的な人々が含まれていることは、ずっと昔からはっきりしている。

 彼らの罵倒には慣れている。
 風物詩みたいなものだとすら思っている。
 なので、気になっているのはそこではない。

 私が、しばらく前から対応に苦慮しているのは、必ずしも安倍シンパだったり自民党支持層ではない集合の中に、私を政治的な話題から遠ざけようと試みる人たちが少なくないことだ。

 これは、実は、当欄のテキストを書く時にだけ感じている感覚ではない。

 とにかく私としては、私が多少なりともかかわっているあらゆる社会的な場面で、私とやりとりするすべての人々が、私の発言を穏当な範囲に誘導するべく粘り強くはたらきかけてきている感じを抱いている……と、こうやって自分のアタマの中にある考えを文字に起こしたものをあらためて読んでみると、まるっきりの被害妄想に見える。とすると、あるいは私は精神のバランスを失いはじめているのかもしれない。

 「あらゆる人間がオレを黙らせようとしている」
 「オレの思考回路を非政治的な話題に誘導するための秘密組織が暗躍している」

 とは、さすがに思っていない。

 ただ、わざわざメールを書いてくるレベルの、言ってみれば「昔からの熱心なファン」と申し上げて良い人たちの中に、私が政治的な話題を取り上げることへの懸念を伝えてくる人間が散見されることは、残念ながら、事実だ。

 そう言ってくる人たちが、政治的に私の考えと対立する立場なのかというと、そんなことはない。

 彼らは、私が書いている文章の内容を、大筋において支持してくれている人たちだ。それでも、政治的な話題を扱うことには、反対だという旨のご意見を伝えてくるのだ。

 理由は、コメント欄が荒れるのを見たくないという感じのお話だったりする。
 なんだそりゃ。
 と私は思う。余計なお世話じゃないか、と。

 しかし、そういう意見を表明してくるご当人はいたって真剣に、私のためを思ってアドバイスしているつもりだったりする。

 奇妙な話だ。

 つい昨日、ツイッター上で「共感性羞恥」という言葉が話題になっていた(こちら)。

 リンク先を辿ってみたところによると、この耳慣れない言葉は、

 「ドラマの恥ずかしいシーンや他人のミスを見たときに自分が恥ずかしい思いをしたと脳が働いて、自分が失敗したかのように感じる感情」

 を指す概念であるらしい。
 なるほど。

 もしかすると、私を応援してくれている人たちが、私の炎上を予防しようとする意図の背景には、似たような感情が介在しているのかもしれない。

 そうでなくても、若い世代の中に軋轢や摩擦や論争みたいなことを極端に嫌う人々が増えていることはどうやら事実で、もしかしたら、彼らは、他人が論争に巻き込まれていることを見ることに、圧迫を感じているのかもしれない。

 7~8年ほど前だったか、同世代の男が集まった席で、若い連中とのコミュニケーションのとり方が話題にのぼったことがある。

 「別にふつうに話せばいいんじゃないの?」
 と言った私の発言は、言下に否定された。

 「おまえは、部下というものを持ったことがないからそういうお気楽なセリフを吐いていられるということを、きちんと自覚しといたほうがいいぞ」

 「そうか? 部下なんて適当に説教しとけばOKなわけだろ?」

 「言っとくけど、おまえの言ってる説教っていうのは、先方から見ればパワハラだからな」

 「まちがいないな」

 「みんな聞け。ニュースだ。こいつは完全なパワハラ上司になるぞ」

 どうして私がいきなりパワハラ上司認定を頂戴したのかというと、彼らに言わせれば、20代や30代の若手の中には、説教どころか「異論」そのものを受忍しない人間が一定数含まれていて、うっかり彼らの言い分を全面否定したり論破したり嘲笑したりすると、翌日から出勤してこない可能性が無視できないわけで、してみると、オダジマみたいな口さがない人間を会社に配置したら、まちがいなくおとなしい若手を無思慮にやっつけて出勤不能に追い込むオレオレ上司になるはずだということだった。

「つまり、議論ができないってことか?」

「そういうわけじゃない。でも、論争とか口論とか叱責とか罵倒とか、その種の精神的負担を強いるコミュニケーションを適用しちゃいけないコたちが確実にいるということだよ」

「どうしてさ」

「どうしてもこうしてもないよ。摩擦とか軋轢とか圧力とか反発とか対立みたいな人間関係を全面的に受け容れない育ちの人間が現実に存在している以上仕方がないじゃないか」

「そんなことで社会生活がやっていけるのか?」

「ははははは。おまえから社会生活なんていう言葉を聞くとは思ってなかった。おまえは社会生活をやっていけているのか? おまえは社会人なのか?」

「いや、オレは別に若いヤツらをシバき倒して鍛え上げるべきだとか、そういうことを言っているわけじゃない。ただ、オレ自身はそんな若いヤツは見たことないってだけだよ」

「それはおまえが人の上に立って仕事をしたことがないってだけの話だよ」

 このお話には若干補足が必要だと思う。

 というのも、上記の会話文の中で軋轢を嫌う若者たちのマナーを嘆いている私たちの世代の男たちは、実は、30年前には、軋轢を嫌う意気地なしの小僧として、上の世代のおっさんたちに盛大に嘲笑された過去を共有しているからだ。

 私たちより5年から10年年長の、いわゆる「団塊の世代」は、摩擦と軋轢と対立と自己主張と徒党と抗争と弾圧と反抗がなによりも大好きな人たちだった。

 こういう書き方をすると、いくらなんでも乱暴な決めつけだと思われるかもしれないが、団塊の10年後ろを歩いていた若者であった私の目から見て、彼らがそんなふうに見えていたことが、動かしようのない事実である以上、この程度の言い方は勘弁してもらいたい。

 1970年代に新宿のゴールデン街や歌舞伎町を歩いていると、路上で殴り合いをしているおっさんたちを見かけることは決して珍しいなりゆきではなかった。これは誇張ではない。実際に私が大学生だった1970年代の後半、渋谷や新宿の街頭は、殴り合いにかぎらない各種の対人トラブルの温床みたいな場所だった。

 その摩擦と軋轢のエキスパートである彼らに比べれば、私たちは、いきなり見知らぬ人間に論争をふっかけることもしなかったし、わざわざ徒党を組んで対立するグループの若い連中を襲撃しに行く習慣も持っていなかった。

 というよりも、前の世代の対人コミュニケーションの直截さを見せつけられて、その野蛮さに辟易していたからこそ、われわれは万事に微温的であるべくつとめていた次第なのである。

 その私たちを、当時のマスコミは、「シラケ世代」あるいは「三無主義」の若者たちと名付けた。三無主義とは、無気力、無関心、無責任の3つの「無」を総称した言葉で、後に、これに無感動の無を加えて、四無主義世代と呼ばれることもあった。とにかく、私たちは、そういうおとなしい、目立たない、歯ごたえのない、数の少ない世代の若者だった。

 ちなみに1975年時点の人口ピラミッド(こちら)を見ると、当時15~19歳だった私たちの世代が、団塊の世代(24~29歳)に比べて、いかに人数が少ないかがわかる。 

 つまり、私が上記で7年前の会合の際のエピソードとして紹介したお話は、かつて三無主義世代と呼ばれた「目立たない、歯ごたえのない、数の少ない」世代の男たちが30年後に集まって、若い世代の論争耐性の低さを嘆いている場面の会話だったわけで、そう考えてみると、この間の時代の変化の大きさは、相当にとてつもないものなのである。

 現在もTBS系で放送されている「ニュース23」が、筑紫哲也氏のMCでまわされていた時代、あの番組には、「異論!反論!OBJECTION」という視聴者による街頭録音の声を紹介するコーナーがあった。

 私がこんなトリビアな話を蒸し返しているのは、「異論!反論!OBJECTION」がレギュラーの企画コーナーとして放送されていた当時は、「異論」を述べ、「反論」をぶつけ合い、「objection(異議申し立て)」を活発化することが、意義のあることだとする社会的な合意のようなものがわれわれの中に存在していたということをお知らせしたかったからだ。

 団塊の世代の人々ほどではなくても、20世紀の平均的な市民であった私たちは、人々が議論を戦わせ、互いの意見をぶつけ合う過程をおおむね歓迎していた。そうやって対立を経た先にあるはずの、実りある合意を目指すことが、民主主義を前進させるための不可欠な過程であるということを、少なくとも建前の上では、共有していたのである。

 ところが、どういう仔細でこんなことになったのかは知らないが、21世紀の平均的な日本人は、異論や反論やオブジェクションを、どうやら品の無いマナーとして忌避している。

 最近では、自分自身が論争や争い事を避けるのみならず、他人が争っている姿を見せられることすら拒絶しようとする態度が一般化しつつあるように見える。

 この感じは、前世紀までは喫煙者との同席を拒むといったあたりで折り合いをつけていた嫌煙の風潮が、今世紀に入って以降、路上を含めて視認できる範囲内でのすべての喫煙行為を排除する運動にエスカレートしている姿に、なんとなく似ている。

 ニュース23のキャスターであった筑紫哲也氏は、2002年日韓W杯当時の日本代表サッカーチームの監督であったフィリップ・トルシエ氏を番組に招いた折、

 「あなたはジョークを言いませんね」

 と言ったことがある。
 この言葉に、私は驚愕した。

 私の見たところ、トルシエは、場違いなジョークの第一人者だったからだ。

 というよりも、私にとって、フィリップ・トルシエは、ジョークにとって最も大切な要素が「違和感」であることを教えてくれた最初の人物だった。

 面白いか面白くないかは、たいした問題ではない。
 というよりも、ジョークの出来不出来は、ジョークの聴き手である世間が勝手に判断すれば良いことだ。

 しかし、場違いな要素を含まないジョークは、いけない。

 なぜなら、ジョークとは、場を破壊する意思であり、人々の間にあるコミュニケーションの約束事を一旦無効化することで更新する、一種の破壊工作だからだ。

 「時には赤信号を渡らなければならない」

 というトルシエによる有名な提言は、実にそのことを示唆している。
 われわれは、時に先方の予断を裏切って、奇天烈な言動に走らなければならない。

 軋轢を嫌う傾向は、他人に迷惑をかけることをいましめ、空気を読まない人間を拒絶し、仲間と気まずくなることを恐れる心情から派生しているところのものだ。

 私たちは、いきなり政治的な話題を振ってくる人間を警戒する。
 先方の主張に賛同しないからではない。

 現代の日本人が、政治を拒むのは、それが「分断をもたらす」話題であり、さらに言えば、参加する人々を互いに「バカ」呼ばわりさせずにおかない、爆弾リレーに似たゲームであることを知っているからだ。

 政治活動に熱心な人たちは、政治に無関心な人々の思考力を低く見ている。
 この傾向は、右でも左でも変わらない。

 彼らは、対立する陣営の人間を蛇蝎の如くに憎んでいるが、その一方で、無党派層に対しては、上から目線で対応している。

 「わかってない人たち」
 「ものを教えてあげないといけない対象」

 ぐらいな扱いだ。

 ところが、無党派層は無党派層で、政治的な人間を見下している。
 彼らにとっては、右であれ左であれ、政治に熱心だというだけで、もう人間としてひとつ格落ちの存在になる。というのも、政治に関わることは、賭博や酒やセックスにのめり込むことと同様、自制心の欠如で説明されるべき事態だからだ。

 てなわけで、どっちにどう転んでも、政治が話題になる場所では、人々は自分と同じ考えを抱かない人間を軽蔑ないしは嫌悪することになっている。

 だからこそ、多くの人々は、平和な環境に政治というタームが持ち込まれることそのものを拒絶する心情を抱くにいたる。

 これは「保守化」でも「右傾化」でもない。
 どちらかといえば、「均質化志向」というのか、「同調至上主義」みたいなものだ。

 というよりも、「みんなが仲良く、気まずい思いをしないで過ごす空気」を最優先に考えるコミュニケーション哲学は、平成から次の時代に至る基本的な時代思潮になるはずのものだと思う。

 とはいえ、その同調の重視による政治忌避がもたらす圧力は、結果として右傾化の結果とそんなに変わらない未来をもたらすかもしれない。

 どういうことなのかというと、「みんなが仲良く気まずい思いをせずに過ごすこと」を至上の価値として運営される社会の行き着く先には、おそらく「進め一億火の玉だ」が待っている、ということだ。

 同調を重んじる人々は、当面の選択として自分の内心の主張がどうであるのかとは別に、とりあえず多数派に与することを選ぶ。と、そういう空気の中で生まれてこのかた一度も他人と口論したことのない人間が大量に造成されると、その彼らは、世間の風潮に決して異を唱えることのできない大人に成長するかもしれない。

 心配だ。
 もう一回トルシエを招いて、文部科学大臣あたりのポストを任せることが可能なら、赤信号を渡れる子供たちを育成できると思うのだが。

 いや、もちろんジョークだぞ?

(文・イラスト/小田嶋 隆)

我が心はICにあらず』からの読者の私から見ますと
苦言の理由は「あの日に帰りたい」だと思います……。
オダジマさんの最新単行本は↓こちら。熟成の味わいをどうぞ。

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。


 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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