先月の30日、いわゆる「君が代不起立訴訟」について、最高裁が原告側の上告を棄却する判決を下した。
興味深い話題だ。
が、記事として取り上げるのは、正直に言って、気が重い。
今回は、私自身のこの「気後れ」を出発点に原稿を書き始めてみることにする。
「君が代」について書くことが、どうして書き手にストレスをもたらすのか。
「君が代」の最初の課題はここにある。圧力。見逃されがちだが、大切なポイントだ。
気後れの理由のひとつは、たとえば、コメント欄が荒れるところにある。
愛国心関連の記事がアップされていることが伝わる(どうせ伝わるのだよ。どこからともなく。またたく間に)と、本欄の定期的な読者ではない人々も含めて、かなりの数の野次馬が吸い寄せられてくる。その彼らは、「売国」だとか「反日」だとかいった定型的なコメントを大量に書きこんでいく。休止状態になっている私のブログにも、例によっていやがらせのコメントが押し寄せることになる。メールも届く。「はろー売国奴」とか。捨てアドレスのGmail経由で。
私は圧力を感じる。コメントを処理する編集者にも負担がかかる。デスクにも。たぶん。
ということはつまり、コメント欄を荒らしに来る人々の行動は、あれはやっぱり効果的なのだ。
この程度のことに「言論弾圧」という言葉を使うと、被害妄想に聞こえるだろう。
「何を言ってるんだ? こいつ」
「反論すると弾圧だとさ」
「ん? 読者の側に言論の自由があるとそれは著者にとっての言論弾圧になるということか?」
「どこまで思い上がってるんだ、マスゴミの連中は」
圧力と呼ばれているものの現実的なありようは、多くの場合、この程度のものだ。
憲兵がやってくるとか、公安警察の尾行が付くとか、目の据わった若者が玄関口に立つとか、そういう露骨な弾圧は、滅多なことでは現実化しない。その種の物理的な圧力が実行されるのは、お国がいよいよ滅びようとする時の、最終的な段階での話だ。
わが国のような民主的な社会では、目に見える形での弾圧はまず生じない。
圧力は、「特定の話題を記事にすると編集部が困った顔をする」といった感じの、微妙な行き違いみたいなものとして筆者の前に立ち現れる。と、書き手は、それらの摩擦に対して、「いわく言いがたい気後れ」や、「そこはかとない面倒くささ」を感じて、結果、特定の話題や用語や団体や事柄への言及を避けるようになる。
かくして、「弾圧」は、成功し、言論は萎縮する。そういうふうにして、メディアは呼吸をしている。
当初、私は、この話題を、大阪府の橋下府知事が、起立条例の法案について語ったタイミング(具体的には先々週)で、原稿にするつもりでいた。が、その週はなんとなく気持ちが乗らないので、別の話題(IMF専務理事の強制わいせつ疑惑)を選んだ。翌週も同様。メルトダウンについて書いた。
結局、私は、書きたい気持ちを持っていながら、実現を先送りにしていたわけだ。
理由は、前述した通り、面倒くさかったからだが、より実態に即して、「ビビった」というふうに申し上げても良い。
が、いずれであれ、面倒くさいからこそ書かねばならないケースがある。
君が代は、そういう話題だ。
ことほどさように、君が代は面倒くさい。
「面倒くさい」ということが、事実上の圧力になっている。
ということはつまり、繰り返すが、君が代問題は、何よりもまず第一に「圧力」の問題なのだ。
教育現場において、君が代は、指揮系統を顕在化させる踏み絵みたいなものとして機能している。
明らかな圧力だ。
「考えすぎだよ」
と、笑うムキもあるだろう。
「ただの歌じゃないか」
が、ただの歌に過ぎないものに対して、起立をするかしないかで、職責を問われる事態が現出している以上、それは圧力と考えざるを得ないのだ。
うちの国では、圧力が、暴力を伴った威圧として発動されるようなケースは滅多にない。
圧力は、通常真綿で首を絞めるような、絶妙な「面倒くささ」として立ちはだかる。
「君が代なんかほっとけよ。どうしてわざわざ地雷を踏みに行くんだ?」
と、だからたとえば親切な友人は、そういうふうに忠告してくれる。
でも、結局踏みに行くのだな。
特定の話題の周辺が地雷原になっているということは、その話題が「圧力」を獲得したことを意味している。
そういう場合、誰かが地雷を踏みに行かないと、議論が死ぬ。と、無理が通って道理が引っ込む。かくして、弾圧は成功する。考えすぎだろうか。
さてしかし、道理について述べるなら、私は、このたびの最高裁判決が「無理」な判決だったとは思っていない。
当該の判決について、5月31日付けの読売新聞は、
《君が代の起立斉唱命令を巡る訴訟で、最高裁は30日、命令を「合憲」とする初判断を示し、長く教育現場を混乱に陥れてきた憲法上の論争に終止符を打った。―後略―》
と端的に書いている。私もおおむね同意見だ。
判決は、理屈の上では筋が通っている。
私自身、自分が教師で、自分の受け持ちの生徒たちの卒業式に列席する機会があったら、起立斉唱するつもりだ。
理由?
面倒くさいからだ。
そう。自分が立たなかったり歌わなかったりすることから生じるであろう様々な波紋について思いをいたせば、答えは明らかだ。穏当に立って歌ってさえいれば誰にも文句は言われない。であれば、誰が一体風車を相手に喧嘩を売るみたいなバカなマネをする? それも子供たちの教育にかかわろうという職業の人間が。ガキじゃあるまいし。
山嵐が恫喝しに来るわけではない。
赤シャツが嫌味を言っているのでもない。
うらなり君が困った顔で歌うように頼んだ事実もない。
でも、私は立って歌うだろう。
そういうことになっているのだ。
職場の圧力というのは、それは精妙に働くものなのだ。
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