最初に訂正とお詫びです。先週の当欄で「S/N比」について、「サウンド/ノイズ比」という説明をしましたがあれは間違いです。正解は、「シグナル/ノイズ比」の略でした。私の記憶違いです。40年近く、ずっと勘違いをしていました。わかっているつもりでも確認しないといけませんね。
原稿を読んで「なるほど。サウンド/ノイズ比か、ひとつ利口になったな」なーんて思っていた人は、ひとつ愚かになっています。申し訳ありませんでした。
さて、小沢さんが負けた。
民主党代表選挙の話だ。
菅さんが勝ったのではない。
小沢さんが一方的に負けたのだと私は考えている。一人相撲での一人負け。決まり手はお手付き、だろうか。
意外だった。
勝つと思っていたからだ。
というよりも、小沢さんは、負ける戦いをしない人だというふうに私は思っていて、だから、その小沢さんがあえて勝負に打って出た以上、当然勝つのであろうと思いきめていたのだ。
結局、私もまた小沢マジックにひっかかっていたのかもしれない。
敗北という結果を受けて、いささか茫然としている。
落胆ではない。
敗北感ともちょっと違う。
安堵している部分もあるからだ。予想通りに小沢さんが勝ってしまわなくて良かった、と、心のうちの半分ぐらいではそう思っている。
が、一面、寂しくもある。そう、自分ながら不思議なのだが、私は、小沢さんが負けて、感傷的な気持ちになっているのだ。
おそらく私は小沢さんに関して、愛憎相半ばする、少しばかり厄介な思い入れを持っている。
だから、小沢さんの敗北について、国益においての評価とは別次元の、エモーショナルな反応を示していて、その反応に自分ながら面食らっている次第だ。
いずれにせよ、私をこういう気持ちにさせる政治家は、ほかにいない。
一般の政治家に対しては、私の態度はもっとはっきりしている。期待するか、でなければ興味が無いのか、どちらかだ。評価も状況次第。是々非々。それだけの話だ。
一方、政策や主張とは別に、どうしても好きになれない人たちというのがいる。正直な話をすれば、私にとって多くの政治家はこっちの分類に入る。単純に嫌いなタイプの凸型人格。テレビに顔が映ると、即座に消音ボタンを押したくなる。そういう対象だ。
以前、当欄でも書いたことがあるが、小沢さんは、高校の先輩に当たる。そういう個人的な事情も、多少は関連しているのだと思うが、そんなこんなで、ごく若い頃から、私は小沢さんに注目していた。
必ずしも支持していたわけではない。敵視していたのでもない。ともあれ、ふだん、政治には関心を持たない私が、30年間にわたって、一人の政治家をウォッチングしてきたのである。これはなかなか大変なことだ。
実際、小沢さんは、田中角栄の一の子分と言われていた時代から、注目に値する政治家だった。
竹下派の中にいた時も、新生党を旗揚げした時も、細川内閣の背後にいた時も、この30年間、いかなる場面でも小沢一郎の存在感は際立っていた。
小沢さんは、「絶対に負けない」と思わせるオーラを身にまとっている政治家だった。デビュー以来ずっとそうだ。どの政党のどの派閥に居た時も。倒れた時や、実際に負けた時でさえ。
だから、小沢さんのもとには人が集まり、票と権益とカネが集中し、議員と候補者と政策通と官僚が集うことになった。そうやって彼のまわりにはひとつの雲(←クラウド?)のごときものができあがり、その雲の上から、彼は魔法のような影響力を行使することができた――と、少なくとも、彼を信奉する人たちはそう思っていた。
この度、小沢さんがはじめて自分の顔を看板にして闘いに臨み、そして敗れたことの意味は、だから、決して小さくない。もしかするとこの敗北は、彼にとって命取りになるかもしれない。
というのも、王様の衣装が貧相な織物であったことが判明してしまうと、王様は王様でいることができなくなるからだ。同じように、クラウドの上で指揮棒を振るっていた政治家は、雲の正体が人々の恐怖心や奴隷根性に過ぎなかったことが明らかになった瞬間に、魔力を失ってしまう。
田中角栄が倒れて以来、大雑把に言って、日本の政治は小沢さんを中心に動いてきた。
小沢さんが日本の政治を動かしていたという意味ではない。
小沢さんをめぐる政治家の離散集合が、有力な対立軸になっていたということだ。
別の言い方をするなら、わが国の政治状況は、もうずっと長い間、小沢さんという個人の立ち位置を唯一の起点として、堂々巡りをしていたわけだ。
右や左という分類は、ソビエト連邦の崩壊以降、大きな説得力を持たなくなった。
リベラルと保守という立場の違いも、実際のところはっきりしないままだし、その他、親米と反米、大きな政府と小さな政府といった争点も政界を二分する分岐点にはなっていない。
都市と農村および給与生活者と自営業者の間にはそれなりに明確な利害の不一致があるように見える。が、それらの相反する立場を代表する政治勢力は、結局のところまだ生まれていない。
とすれば、1980年代以降の日本の政治は、親小沢と反小沢という二つの立場の綱引きが動かしていたといってもそんなに的外れではない。
もちろん、小沢vs非小沢の対立は、政策的なものではない。政治的な立場の違いでもない。
主張・信条というよりは手法の違いだ。あるいはもっと卑近に、選挙における戦い方の違いであったかもしれない。
とはいえ、その違いはいつもはっきりしていて、具体的で、実質的だった。
これから私が述べることは、政治の本質についての議論ではない。
分析でも提案でもない。まして処方箋などでは全然ない。
一人の小沢ウォッチャーによる暫定的な述懐のようなものだと思ってほしい。
とにかく、小沢さんをずっと見てきた者にとって、現今の状況は、重要な分節点に見える。あるいは、ひとつの結末であるようにも思える。本当にあの人はこれでおしまいなのかもしれない。
この機会に、小沢一郎とは何だったのかということを考えてみることは無駄ではないはずだ。
大学に通っていた当時、学部前広場で、知り合いの女子学生に呼びとめられたことがある。
彼女は、私の顔をまっすぐに見て
「世界を動かしているものは何だと思う?」
という意味のことを言った。
勘違いをしてはいけない。私は口説かれていたのではない。彼女は新聞系のサークルに所属している学生で、学部前広場を通りかかる知った顔に同じ質問を投げかけていたのだ。
とにかく私は、これは茶化したりはぐらかしてはいけない質問なのだな、と判断した。緊張した。で、30秒間ほど真面目に考えて、こう答えた。
「うーん。わかんないなあ」
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