自民党の谷垣禎一総裁の実務復帰は、ほとんどまったくニュースにならなかった。

 もしかしてこれは、「武士のなさけ」というやつで、ご本人にとって恥に属するなりゆきは、あまり大々的に報じないということなのであろうか。

 いや、メディアの人間にそんな温情が宿っているとは思えない。

 谷垣氏関連の報道量が少ないのは、単に記者が興味を抱いていないからだ。

 というよりも、より端的に申し上げるなら、新聞およびテレビの中の人たちは、谷垣さんには需要が無いと判断したのだ。ニュースバリューが無い、と。自民党の総裁なのに。

 むごい話だ。

 世間は相変わらず「仕分け」に夢中だ。仕込んで仕掛けて仕切って仕組めば仕事が仕上がって仕合わせだ、と、仕手の側の人々は、嬉々として作業を遂行している。やられる側にとって仕打ち、ないしは仕置きである同じ作業を、だ。あるいは、われわれは自民党と官僚たち、いわゆる親方日の丸が、かつてわれわれ弱者に対してなしたことへの、復讐をしているのかもしれない。

 谷垣さんの件については、復帰以前に、彼が休養するに至った事情自体、あまり大きな記事になっていない。
 黙殺。
 存在の耐え難い軽さ。
 野に下るということの意味を、自民党の関係者はあらためてかみしめていることだろう。
 野ざらしを心に風のしむ身かな 芭蕉。こんな感じだろうか。

 個人的には、谷垣さんには頑張ってほしいと思っている。
 なぜというに、彼は、自転車族という、どこからどう見てもカネもチカラもない圧力団体の利益代表をつとめてくれている奇特な政治家だからだ。まあ、利権はゼロでもイメージアップにはなるという計算があるのかもしれないが。

 念のために経緯を振り返っておく。
 記事は産経新聞に載ったものが一番詳しかった。以下、引用する。

《自民党の谷垣禎一総裁(64)が15日、サイクリング中に転倒し、顔を数針縫うけがを負った。谷垣氏は政界屈指の自転車愛好者。総裁就任後の選挙応援や地方行脚でも、自転車にまたがり支持を訴えていたが、今回は得意種目で思わぬつまずきを見せた格好だ。
 党本部によると、同日午前9時20分ごろ、東京都昭島市拝島の多摩川遊歩道で、自転車に乗っていた谷垣氏が、対向してきた自転車の男性と接触した。相手の男性にはけがはなかったという。(後略)》

 意外だったのは、事故の現場とされている多摩川沿いの道路が「遊歩道」と表記されていたことだ。

「遊歩道? 多摩川サイクリングロードじゃないのか?」

 私はそう思っていた。あの道は「多摩サイ」である、と。自転車愛好家は誰もがそう呼んでおり、関連ブログでも「多摩サイ」と表記するのが通例となっているからだ。というよりも、正直に申し上げて、私は「多摩サイ」以外の呼び方があることを知らなかった。

 が、調べてみると「多摩サイ」は俗称で、あれは公式には「サイクリングロード」ではない。

 多摩川沿いのあの道路は、いくつかの自治体をまたがっており、その主体ごとに扱いが微妙に違っている。いずれにしても、公式な形で「サイクリングロード」と定義している自治体は無い。

 なんということだろう。
 さらに検索してみると、ここはどうも地雷だったようで、面倒な議論が沸騰している。

「遊歩道なんだから自転車は遠慮しろよ」
「っていうか、一列横隊で自転車と走っているジョガーとかあり得ないわけだが」
「道のセンターを走るランナーは、前のめりで死にたいのだろうか」
「後ろ歩き健康法の人たちってどうしてバックミラーつけてないわけ? バカなの? 死ぬの?」
「5メートルのロングリードで犬連れてるヤツとか信じられない」
「しかも犬同士ワンワン言わせて笑ってるし」
「とにかく自転車が減速するのが前提。夜間全速走行のロード乗りとか、殺人未遂だぞ」

 荒れている。
 嫌煙VS喫煙、原発推進VS反原発ほどではないが、それでも、一見して二度と近づきたくないと思える程度には荒んだ空気を醸している。冗談じゃない。こんな議論にまきこまれてたまるものか。

 自転車乗りと河川敷野球人の対立もなかなか根深い。

「試合中だからと立て札を立てて、道路を封鎖している野球チームがあります。信じられません」
「しかも用具運搬を理由に自動車を乗り入れてるし」
「野球豚はどうしてあんなにわがもの顔なんだ?」
「一方、外野を疾走する自転車が邪魔なのも事実」
「あんなものが走ってたんじゃ、ファールボールも追えない。ってことは、試合にならない。だから封鎖する。当然じゃないか」
「河川敷道路はグラウンドの一部じゃないぞ」
「逆だよ。河川敷の道路はグラウンドや草っ原やバーベキュー場にアプローチするための導入路なのであって、元来自転車が疾走するための移動用の道路ではない」
「第一バイクが乗り入れ禁止になっている時点で、高速走行が歓迎されてないことぐらいは悟るべき」

 調べれば調べるほど問題が出て来る。とてもじゃないが整理しきれない。
 かように、自転車の周辺には交通をめぐる様々な問題が集約されている。

 自転車愛好家の内部にすら対立がある。
 たとえば、「ローディー」または「ロード」と呼ばれる、スポーツタイプの高速自転車に乗る人々と、ママチャリで川原を流しているライダーでは、「走る」ということについての考え方が、根本のところで異なっている。

「時速40キロオーバーですっ飛ばして良い気持ちになっているロード乗りのおかげで、多摩サイは自転車乗り入れ禁止になりかねない。暴走はやめてほしい」
「むしろママチャリで並走してたり、手信号も出さずに左右にスラロームしたりするド素人が危険因子なわけだが」
「ノーヘルGパンでペコペコ空気圧のロード乗りとかも勘弁。徐行が好きならママチャリに乗れ」
「っていうか、レーパンのロード乗りって一般人から見れば暴走族と一緒だぞ」
「見た目ショッカーだし」

 結局、ひとつの道に、違う立場の通行者が集うと、道は道として機能できなくなる。困ったことだ。

 ちょっと古い記事で、こんなのが出てきた。
 記事によれば、昨今、多摩サイでは自転車をめぐる事故が急増している。

 いや、「多摩サイ」ではない。記事はこの道を「多摩川左岸に続く約53キロの歩行者・自転車用の道路」と定義しており、あわせて東京都が昨年(2008年)の7月に、公募で「たまリバー50キロ」という愛称を名付けた旨を付記している。

 たまりバー。なるほど。
 「突っ走るところじゃないぞ。たまり場だぞ。広場だぞ」というふうに聞こえるのは、偶然だろうか。自転車に対する悪意ではないのだろうか。これが公募? 本当か? にしても、自転車嫌いの担当者が選んだ名前だよな。

 ともあれ、「サイクリングロード」だと思っているこっちの受け止め方自体が、そもそも勘違いである点は、どうやら動かしようがない。厄介な事態だ。

 私が住んでいる近所にある「荒川サイクリングロード」も、調べてみると、公式にはサイクリングロードではない。役所の言い方では、「荒川河川敷道路」になる。この道は、多摩川沿いの道路に比べると道幅もずっと広くて自転車が走るには好適なのだが、その荒川河川敷道路にも、最近、対自転車用に「20キロ」という速度制限標識が設置されている。なるほど。コウモリは鳥ではない。したがって空を飛ぶのは違反。無論、地面を歩くのも御法度。どうしても移動したいなら空を這うか地面を泳ぐかしろ、と、そういうことだな。了解した。

 多摩川沿いの関連自治体の中では、特に府中市が自転車に対して厳しい姿勢を見せている。
 府中市は、市内を流れる多摩川沿いの道路を「府中多摩川かぜのみち」と呼んでいるのだが、その道に、スピードバンプ(強制的な凹凸)を設けて高速自転車を牽制する工事をしているのである。

 この処置は、自動車愛好家の間では、悪評サクサクだ。
 なにより危険だからだ。

 全速力でこのバンプに乗り上げた場合、自転車は非常なショックを受ける。
 無論、バンプの前後の路面には道に凹凸がある旨を知らせる表示が大々的に表示されている。だから、いきなり全力で乗り上げることは考えにくい。

 が、実際に走った人間の語るところによれば、かなり減速したつもりでも、相当なショックを受ける。

「タマったものじゃありません」

 しかも自転車は、皮肉な乗り物で、高価なマシンほど華奢にできている。というのも、競技用自転車にとって最重要な性能は「軽さ」だからだ。それゆえ、レース仕様の高級ロードバイクは、ちょっとした段差に乗り上げただけでたやすく破損する。「頑丈さ」のような俗っぽい能力よりも、「軽さ」という貴族の資質を尊重している以上、壊れやすさは当然。仕方がない。

 このあたりは熱帯魚の世界に似ている。熱帯魚も、高い魚ほど簡単に死ぬ。
 素人考えでは、高いカネを出して買った魚には丈夫で長生きして貰わないと困る。
 が、そういうことにはならない。売る側の理屈からすると、ちょっとした温度や水質の変化で簡単に死んでしまうからこそ、高価なのだ。繁殖リスクの高いデリケートな魚を安い値段で売っていたのでは、商売にならないからだ。

 そう。30年前、私が血の出るような金で買ったエレファントノーズ(八千円だった)という古代魚は、水槽に放って3日後、朝起きると水面に浮いていた。きっと、安物アマゾン魚との同居がストレスになったのであろう。

 府中市は、この秋、「府中多摩川かぜのみち」のセンターラインを消す工事を挙行した。
 この処置もロード乗りには致命的だった。

 というのも、センターラインは、高速走行のための道しるべとして重要なものだからだ。特に街路灯の無い河川敷の道路では、センターラインの白い反射が、夜間走行における唯一の目印になる。これがないと全速走行は不可能。うっかり路側に乗り上げたら一巻の終わりだ。自転車は全損。乗っている身もまず無事では済まない。
 
 多摩サイを全力で走ることは、もはや不可能になったわけだ。
 遊歩道には、徒歩や車椅子の移動者もいる。子供もお年寄りも歩いている。そういう場所を、時速数十キロの自転車が音もなく(うん。自転車は無音だからね)疾走するのは危険である、と、行政側はそう考えたのだと思う。

 行政から見れば、多数派は足で歩いている人々だ。と、担当者は、どうしても、そうした散歩にやってくる近在のご老人や、夕暮れ時のカップルや、犬連れの人々や、草サッカーや花火やBBQを楽しむ休日の市民のご意見に耳を傾けることになる。極めて自然ななりゆきだ。

 で、自転車は、コウモリ扱いになる。

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