仕事柄、いろんな人との「出会い」がある。その全員と意気投合すればいいが、そうもいかない。ときには、違いが際立って後味の悪い思いをすることもある。そして、そんなときにどう振る舞い、対応するか、それも人それぞれだ。
「まっ、いいか」とやり過ごす人もいれば、金輪際、口をきくものかと思う人もいれば、相手のありようを糾す行動に出る人もいる。問題の一つは、そうした違いはどこから生じるのかということだ。一言で言えば、眼前の事態を『ジブンゴト』として受け止めているかどうかということだろう。
波風を立てず、言いたいことがあっても袖をたたんでやりすごす。それも一つの処世術であるには違いない。だが、それによってどんな世界が開けるのかと問えば、胸躍るものではないだろうことは想像に難くない。
逃げずに、避けずに、直視し、立ち向かうこと。これによってしか旧世界を変えることはできない。そこにどっぷりつかっていたい人はそうすればいい。それが部落問題解決に通じると思うのであればそれもいい。しかし、私は私の流儀で私の道を行く。
話がそれたが、今日、出会った人は、いずれも「ムラ」の人だ。一人は、60才過ぎの男性で、いつのもことではあるけれど、アルコールが入った「勢い」でやってきて、「議論」めいたものを吹っかけてくる。朝、昼、夜と三度も来られた。私に「関心」があるような言葉を吐くが、やはり、一人暮らしの孤独がそうさせるのだろう。話し相手がほしいのだ。
だから、親切丁寧に話相手を務めることに心がけてはいるが、酔っているから、同じことを何度も繰り返し、会話は堂々巡りで終わりがない。困った私は、「亜一番、お酒を飲む前に来てください。酔った人とはこれ以上話せません」と言う。それでも彼は、同じ質問を繰り返が、最後はあきらめて帰る。心に一抹の「咎め」を覚えるが、彼は明日も来るだろう。
もう一人は、これまでも何度か話したことがある80才過ぎの一人暮らしの女性で、この日もセンターのロビーで職員と話をしていたが、側を通りかかると、呼びとめられた。職員と交代して隣の椅子にすわり、話を聞いた。自宅周りの相談事に始まり、ご自分の日常生活や息子さんのことなどを話してくれた。
品がよく、穏やかな人で、あまり人付き合いを好まず、静かなくらしぶりは、代々伝わってきたものだと言う。そして、話の合間にときおり、「運動」のことが出てくる。支部が発行している機関紙「解放」はその題字が赤いのだが、それがいやだから、はさみを入れたが、裏に字があるのを見て、切り取れずにぶらぶらしてると言う。「ああ、きちんと読んでくだささっているのだ」と感銘を受けた。そういえば、一人目の男性も読んでいると言っていた。うれしいことだ。
かつてと比べれば、センターや事務所に出入りする人は格段に少なくなった。かつては、「名物」的な人々がたくさんいて、おもしろい?出会いがたくさんあった。その意味では、アルコール入りであろうが何であろうが、来ること自体に価値があるようにも思う。