なぜ純度100%にこだわるの?
二十年近く前に読んだ「純愛時代」(大平健)を再読した。
大平さんは精神科医でエッセイも書く。本書は、同じ岩波新書で「優しさの精神病理」「豊かさの精神病理」に次ぐ臨床例集の第三弾だ。もちろんここには「実際にあったこと」そのものが書かれているわけではない。ここに登場する二人の男性と三人の女性は、いずれも「過剰」なまでに純粋なものを求めていたがゆえに傷つき、精神のバランスを欠いて発症していくのだが、その原因を、大平さんは時間をかけて問診し患者自身が気づくよう手助けする。そこに押しつけがましさはない。岩波新書というと少しコムツカシイというイメージがあるが、本書はそう学術的なことが書かれているわけではない。症例の患者がなぜ発症したのかを解きほぐしていくプロセスが小説の重要な要素のひとつである「謎解き」になっていて、ついつい先が知りたくて読むのがやめられなくなってしまう面白さがある。
下手な小説を読むより、数倍物語性に富んでいて油断すると中毒する(実は私も中毒した一人だ)。あとがきで大平さんは現代の若者の恋愛について次のように述べている。
<ドラマに準(なぞら)えて言えば、今日の“愛”というのは、主人公と監督がともに自分の「自作自演」なのだが、普通の恋愛がとかくその二人の「自分」の妥協によってすっきりしない仕上がりになるのに対して、純愛では、主演の俳優女優の都合に合わせて監督が譲歩するどころか、役者はあくまで監督の理想、つまり「純愛」の物語通りに演じさせられる。それが「純愛」を純粋にするのだが、徹底的に純粋さが求められれば求められるほど、主演者、すなわち現実に生活しているほうの[自分]には無理が重なるのである。>
本書の症例に登場する五人の男女たちが、いずれも平凡ではない「とびっきりの愛」に突き進んだ挙句、発病に至ったのは無理もないことなのかもしれないが、私のようにどこか世の中や他人に対して斜めに向き合う人間には、「純粋無垢」であることの危うさを思うより、そのピュアな心情に心打たれるものがある。考えてみれば、より深く傷つくということは「若さ」の特権かもしれない。