「青のクレヨン」
「青のクレヨン」 川本三郎
エッセイのようでエッセイでなく、小説のようでいて小説ではないような内容だが、川本さんの優しさがじんわり伝わってくる良い本だ。こういう本はじっくり味わいながら、ゆっくり読むのが礼儀というものかもしれない。
三篇目の「海の微風」では、一枚の絵に魅せられて、その絵が描かれた場所を訪れる。そして、その帰り道に老夫婦とすれ違う光景は、まるで「絵」か「写真」のようだ。
「下りの坂道で、こちらに上がってくる老夫婦に会った。手をつないで歩いている。
(中略)白い服を着た老夫婦は、暮れゆく静かな海を背景にして、二本のろうそくのように見えた」
川本さんが好んで歩くところは、季節外れの海、観光客の訪れることのない島、そこだけ時代に取り残されたような町だ。「線香の匂い」という章では、若狭の小奈良と呼ばれているほど寺の多い町を歩く。
<路地をまがるごとに寺の瓦屋根が見える。庭にはキョウチクトウが咲いている。土塀の下には、昔から花が咲き終わったら梅雨明けといわれているタチアオイがまだ花を開いている。六月末の小さな町はひっそりとしている。昼下がりだというのに歩いている人が少ない。>
この町で「せきをしてもひとり」「入れものがない両手で受ける」といった自由句で知られる尾崎放哉が寺男になった寺もある。和傘の店、畳屋、古道具屋、刀の研師の家、仏壇屋が並ぶ町並みのコンビニの入口に線香が置いてあったので一束買う。子供のころ叔母に「線香の匂いをかぎながら眠るといい夢を見られる」ときいたのを思い出したのだ。美しかった「ボンノウの多い人だった」伯母の思い出が語られ、ラストは抒情に溢れたこんな文章で終わる。
<海岸通りに床屋があった。瓦屋根の古い家だ。あめん棒が眠そうに回っている。なかに入ると白髪の老主人が新聞を読んでいた。客は誰もいない。椅子に座るとまたどこからともなく線香の匂いがしてきた。目を閉じた。「なんにもない机の引きだしをあけて見る」という放哉の句が浮かぶ。波の音が次第に大きくなって聞えてきた。>
雪が積もる前に小樽の街の路地を歩いてみたくなった。廃線になった手宮線沿いに。