待てるのはどれくらい?
イプセンの「人形の家」―
「妻として、母親としての義務を振りきって夫と子供を捨てていくのか!」という夫、ヘルマーに対して、ノラは
「まず一人の人間として生きて行きたいの!」と言い、スーツケースをさげて出て行く
「晩年」の冒頭、太宰は次のように書く
<ノラもまた考えた。廊下を出てうしろの扉をぱたんとしめた時に考えた。帰ろうかしら。>
魯迅は「ノラは家出をしてからどうなったか」というエッセイで、もっぱら夫の手厚い庇護の下、経済的に自立する機会のなかった彼女にとって、家出こそ転落の始まりであり売春婦になるしかないであろうと断定した。
太宰と同じ青森出身の寺山修司は、その著作「家出のすすめ」の中で、「人間として生きようとする」ノラは、たとえ売春婦になろうともそれは堕落ということではなく、本当の「家」を作るための第一歩を踏み出したのだから、彼女は家出をすることによって自分の可能性の領域を広げたのだと結論付けている。
ところで、ちょっと思いついたのだが、これは夫婦の問題であるから、家出したノラについての考察だけでなく、子供とともに残された夫ヘルマーについても言及しなければ、片手落ちということにならないだろうか?しかも社会的地位もある男である。自分の傘下にあるものと信じて疑わなかった妻が、自分には理解し難い理由で家出したのである。むしろ悲劇は夫ヘルマーの方にあるのではないか?
大宰風に言えば
<ヘルマーも考えた。ノラが「ただいま」と言って帰ってくる時間の長さを考えた。待てるだろうか?>
閑話休題。
時計メーカーのシチズンが調査した、「50%以上の人がイライラしないで待っていられる限度は」によると、
<銀行ATMでの順番待ち―5分
通勤電車の遅れ―5分
横断歩道での信号待ち―45秒
スーパー・コンビニでのレジ待ち―3分
昼食時、レストランでの順番待ち―10分
パソコンの立ち上がり待ち―1分
携帯電話に入れた伝言への返信待ち―10分>
だそうである。これが長いか短いかは、一概に論ずることは出来ないが、何しろスピード時代である。じっくり何かをやろうとすることは、あまり歓迎されない。ちなみに同じ調査を10年前に実施した時はイライラしないで電車の遅れを待てる時間は10分だったそうであるから、丁度半分の時間に短縮されたことになる。たった10年ですよ、10年。しかもイライラが昂じてキレる大人が増えているというのだから、事は簡単ではない。そしておまけにその増えているのが中高年だと聞けば、適度な自制心などという言葉は死語になりつつあるのかと、茫然とせざるを得ない。
話をノラの夫ヘルマーに戻す。「人形の家」の初演が1879年だから、今から130年近く遡る。まさか、現代のように5分も待てないという時代ではなかったであろうから、単純に逆算して10年で倍という計算をすれば、ヘルマーがイライラしないでノラの帰りを待っていられる時間は、40960分、時間に直すと約682時間となる。これをさらに日数に直すと約28日であるから、ほぼ一ヶ月は子供と共に、「なあに、どこにもいくあてがあるわけではないし、そのうち帰ってくるさ」とのんびり待っていたと考えても不自然(?)ではない。
そして、一ヵ月待った後ヘルマーはどうしたか?
リアリスト魯迅風に言えば
<彼は、ノラよりもっと若くて美しく、何より自分に従順な後妻を貰うことで、世間の「妻に家出された男」という屈辱的な評価を覆そうとするだろう。そして、幸運にも彼にとってそれはそう難しいことではなかった。何故なら、彼には十分な経済力があったから。>
では、経済力のない私が「一人の人間として善く生きる」には、例えば遅れた電車をどのくらい待てば、言い換えればどのくらいの時間イライラを我慢すればいいのだろうか? 残念ながら私の乏しい想像力では、ひとつの答えしか思い浮かばない。「それが到着するまで」