偏読老人の読書ノート

すぐ忘れるので、忘れても良いようにメモ代わりのブログです。

今日から五月

 今日から五月。手元の歳時記をめくると、

 <皐月:陰暦五月の異称。早苗月の省略とも五月雨月の略ともいう。

 魂遊びにはよろしけれ風の五月 坂戸淳夫

 画家の声太し五月の裸婦の図に  伊丹三樹彦>

 一句目は「この気持ち分かるなあ」となるが、二句目は瑞々しい、まだ熟れていない裸婦の画像が浮かぶ。そう、十代半ばの少女の裸が。

今年は221日が立春だったので、八十八夜は明日ということになる。「夏も近づく八十八夜…」だが、北海道では桜が見ごろになる「春たけなわ」の季節だ。

 

 春 八木重吉

春は かるく たたずむ
さくらの みだれさく しづけさの あたりに
十四の少女の
ちさい おくれ毛の あたりに
秋よりは ひくい はなやかな そら
ああ けふにして 春のかなしさを あざやかにみる

 

小川洋子 「最果てアーケード」

 <そこは世界で一番小さなアーケードだった。そもそもアーケードと名付けていいのかどうか、迷うほどであった。
 入口はひっそりとして目立たず、そこから覗くと中は、目が慣れるまでしばらく時間がかかるくらいに薄暗い。通路は狭く、所々敷石が欠け、ほんの十数メートル先はもう行き止まりになっている。お揃いの細長い二階建ての作りになった店はどれも、一様に古びている。二階の雨戸が外れかけたり、ツバメの巣の残骸が壁に張り付いていたり、看板の字が半分消えたままになっていたりする。屋根にはめ込まれたステンドグラスは偽物で、すっかり煤(すす)け、どんなに天気のいい日でもぼんやりした光しか通さない。すぐ前の大通りを路面電車が走ると、一斉に店のガラス戸が震え、その一瞬だけにぎやかになった錯覚に陥るが、すぐにまた静けさが戻ってくる。
 もしかするとアーケードというより、誰にも気づかれないまま、何かの拍子にできた世界の窪み、と表現した方がいいのかもしれない。>

 という書き出しで始まる本書の、小川さんが紡ぎだす世界は、一見異世界のようにみえるが、登場する人々は現実に今も街中でひっそりと生きているであろう繊細で、心優しい人たちだ。現実の世界では陽の目をみないに違いないそうした人たちを、これほど魅力的に描ける小川さんのまなざしはいつも温かい。小川さんにしか描けない世界だ。

<天井は低く、奥行きは限られ、ショーウインドーは箱庭ほどのスペースしかない。

そのささやかさに相応しい品々が、ここでは取り扱われている。使用済みの絵葉書、

義眼、徽章、発条(バネ)、玩具の楽器、人形専用の帽子、ドアノブ、化石…。

どれもこれも窪みにはまったまま身動きが取れなくなり、じっと息を殺しているよう

な品物たちばかりだ>

 「取り扱われて」いるのは、もしかして、小川さんが欲しい品物ではないだろうか。

そして、小川さんが愛してやまない、その心優しさゆえに世間に弾き返され「窪みにはまったまま身動きがとれなくなり、じっと息をころして」生きているような人たちでは。

Last Modified :