映画、ドラマやテレビの撮影現場でヌードや性的なシーンの撮影をサポートするインティマシー・コーディネーター(IC)。俳優陣も制作側も安心して撮影に臨める環境を支える存在として注目を集めています。まだ日本には数名しかいないICのパイオニアの浅田智穂さんに、D&I(ダイバーシティ&インクルージョン)、ハラスメントや性教育、人との関係性や思いやりについて考える本について聞きました。
インティマシー・コーディネーター(以下、IC)の仕事を始めて5年目に入り、50本ほどの映像作品に携わってきました。ICとは映像制作で、身体の露出や性的な描写があるときに、俳優が身体的にも精神的にも安心・安全に演じることができて、かつ監督のビジョンを最大限実現するためにコーディネートをするスタッフです。事前にインティマシーシーンについて監督からヒアリングし、俳優一人ひとりと、どこまでOKなのか話をします。話し合いの場には監督やプロデューサーは同席せず、基本的には俳優と私の2人で確認します。
この仕事を始めた5年前と今を比較すると、問題解決や対応がうまくできるようになった手応えはありますが、作品ごとに接する人々、向き合うものは異なります。常に学び、知識を増やし、価値観をアップデートすることが必要です。
今回紹介する2冊、『 差別はたいてい悪意のない人がする 』(キム・ジヘ著、尹怡景訳、大月書店)、『 ポリティカル・コレクトネスからどこへ 』(清水晶子、ハン・トンヒョン、飯野由里子著、有斐閣)は、相手を大切にすること、価値観の違う人たちと向き合うときに必要なことを考えさせられる本です。ICの仕事をするうえで勉強になる要素がたくさんあります。
私は高校、大学をアメリカで過ごしました。そんな環境で育ったためか、平均的な日本人よりは自分の意見を言える方だったとは思います。それでもどこかで無意識の思い込みがあったのか、人それぞれに与えられている権利について、そこまでしっかり考えたことはなく、発言することも少なかったと思います。そのことにICの勉強をするようになって気が付きました。
『差別はたいてい悪意のない人がする』はマイクロ・アグレッション(無意識の偏見や思い込みから、悪意無く否定的な態度や相手を傷つける言葉を発してしまうこと)について詳しく書かれています。
アメリカでの学⽣⽣活は勉強が⼤変でしたが、⾼校も⼤学も楽しい思い出ばかりです。当時のアメリカでは⼈⽣で⼀度も⾃分の住んでいる州から出たことのない⼈も少なくありませんでした。世界情勢やニュースにあまり関⼼を持たない人もたくさんいて、私が⽇本から来たと⾔っても「⽇本って韓国のどこにあるの?」と、質問されたこともありました。
「こんな差別を受けた」と、すぐに思い出すような経験はないのですが、今になって「実はあれは差別だったのだろうか?」「あの時立ち向かうべきだったのだろうか?」と思うこともあります。。私自身が、当時は差別を受けているとは認めたくなくて、笑ってごまかしていた部分もあるように思います。だからこそ“マイクロ”アグレッションなのでしょう。ICの勉強をしながら、当時を思い出しました。
無意識の差別には「知識を広げる」
この本のタイトル「悪意のない人がする」が示すように、当事者が差別だと認識していない場合が多いことに気づきました。だから仮に今、当時より知識と経験を得た私が、同じようなことを言われたとしても、「あなたの言っていることはマイクロ・アグレッションだからやめてほしい、差別しないでくれ」と毅然として言い返すかは分かりません。
反論しても、それが必ずしも「正しい」対応とは限りません。「無意識の差別」をしてしまう人に対して人に必要なのは、「差別をするな」と反論するだけではなく、知らない人に「知識」を広げることだと思うのです。
価値観の異なる⼈と向き合うことの難しさはICの仕事を通じて、直⾯しています。「俳優ならこれくらいできて当たり前だからICは必要ない」「自分は監督の求めることにすべて対応できるからICはいらない」「昔はICなんていなかった、昔は良かった」など抵抗感を⽰されることもたびたびあります。
しかし自分が良かれと思ってやっていることを、相手が快く受け入れているとは限りませんし、それは男性も女性も同じこと。双方を配慮することがICの役割です。撮影現場で特に注意が必要な言葉は「信頼関係があるから大丈夫」です。俳優が、監督やプロデューサーから「私たちには信頼関係があるんだから、これくらいのシーンはできるだろうし、嫌なら言ってくれる」という無言の圧力をかけられるケースは数多くあります。
しかし、古くからの付き合いだから、仲が良いからこそ、言い出せない局面もあるでしょうし、結婚や妊娠、出産などライフステージの変化によって、昔は問題なかった描写が今はできないと感じることがあるのは当然です。
インティマシー・コーディネーターはポリコレか
一方、最近「正しさ」を過剰に意識している現場も増えている気がします。ICが必要だから入れるのではなく、入れないと問題視されるから採用するというのです。ICをポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ、社会の特定のグループに対して差別的な意味や誤解を含まぬよう、政治的・社会的に公正で中立的な表現をすること)そのものと捉えられることがあります。
これまでは「ICに入ってもらって良かった」という感想から、次につながることが多く、そこに喜びややりがいを感じていたのですが、「ICを入れないと問題になるから採用する」と思われるのは残念です。
最近耳にすることが多くなったポリティカル・コレクトネスを過剰に意識し、意思疎通がうまくいかなくなる事象についてひもといているのが、『 ポリティカル・コレクトネスからどこへ 』です。
マイクロ・アグレッションにしても、ポリティカル・コレクトネスも研究そのものは盛んで着実に進んでいるのですが、私たちが使うレベルには適切に下りてきていないという話を、3人の研究者が対談形式で解説しています。
「昔は良かったけど、今はアウト」をどう考えるか
映像作品では、かつては芸術だからということで許されてきたけれど、現在ではアウトという描写がいくつもあります。性表現や暴⼒、最近はタバコの扱いも注意が必要です。映像業界にかかわらず、過去に成功体験を持ち、そのことに今も誇りを持っている⽅は、時代や価値観の変化を受け⼊れ難いものです。
もちろん価値観をアップデートしようという前向きな姿勢を持っている⽅もいます。⼈⽣経験が⻑くなるほど「あの時代はあのやり方がいいと思っていたけれど、当時の⾃分は間違っていたし、悪かったと思う」と認めるのは困難で勇気が要ることです。大切なのは、気づくこと、そして、変わろうという気持ちです。
ICには、「他者を思いやること」や「価値観を大切にすること」への意識改革や啓蒙の役割も求められているのかなとも思います。
取材・文/真貝友香 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子