大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

昔こそ難波田舎と言はれけめ・・・巻第3-312

訓読 >>>

昔こそ難波田舎(なにはゐなか)と言はれけめ今は都(みやこ)引き都びにけり

 

要旨 >>>

昔こそは、難波田舎と呼ばれていたであろう。しかし、今では都を引き移してすっかり都らしくなってきた。

 

鑑賞 >>>

 神亀元年(724年)2月に即位した聖武天皇は、荒廃していた難波宮(大阪市中央区)の改修という大事業に取りかかります。難波宮を再建し、首都に対して副都の位置づけにしたかったものと思われます。その造営に関わる最高指揮官である知造難波宮事に任ぜられたのが藤原宇合でした(神亀3年:726年)。この歌は、造営工事の完了が近くなった時期に、聖武天皇の御前で歌った予祝歌とされます。「言はれけめ」の「けめ」は「こそ」の結びで、過去推量。「都引き」は都を引き移しての意で、天皇の行幸を、都自体が移ってきたかのように言っています。「都び」は都めく意。自身の責務の完了を目前にして喜ぶだけでなく、皇威を賀した、調べの明るいさわやかな歌となっています。

 藤原宇合は不比等の3男で、藤原4家の一つ式家の始祖にあたります。若いころは「馬養」という名前でしたが、「宇合」の字に改めています。霊亀3年(717年)に遣唐副使として多治比県守 (たじひのあがたもり) らと渡唐。帰国後、常陸守を経て、征夷持節大使として陸奥の蝦夷 (えみし) 征討に従事、のち畿内副惣管、西海道節度使となり、大宰帥 (だざいのそち) を兼ねましたが、天平9年(737年)、都で大流行した疫病にかかり44歳で没しました。『万葉集』には6首の歌が載っています。

 宇合は、上記のように、遣唐使の一員として唐に渡ったほか、国内のあちこちを旅から旅へと飛び回り、さまざまな仕事に携わっています。ここの知造難波宮事の仕事もその一つに過ぎず、生涯を通して、大和にいた期間は短かったとみられます。藤原四兄弟の中で最もよく働いた人であり、またいちばん損な籤(くじ)を引いた人だったようにも感じられます。

 

 

 

難波宮(なにわのみや)について

 難波宮は、7世紀中~8世紀末に、現在の大阪市中央区法円坂一帯に所在した宮殿です。上町台地を中心とするこの地には,古くは応神天皇の大隅(おおすみ)宮、仁徳天皇の高津宮、欽明天皇の祝津(はふりつ)宮などの宮室が置かれたと記紀は伝えています。

 大化元年(645年)6月、飛鳥板蓋(いたぶき)宮における蘇我入鹿暗殺事件を発端として大化改新が開始されると、同年12月、孝徳天皇は都を飛鳥から難波長柄豊碕(ながらとよさき)に移しました。654年に天皇が没すると、都は再び飛鳥に遷りました。壬申の乱に勝利して即位した天武天皇は、難波宮の整備にも力を注ぎ、天武6年(677年)に丹比(たじひ)麻呂を摂津職大夫とし、難波に羅城を築きました。しかし、朱鳥元年(686年)1月、難波の大蔵省から失火して宮室はことごとく焼けたと『日本書紀』に記されています。焼失後の難波宮については明らかでないものの、文武・元正・聖武の各天皇の難波宮行幸の記事が残されています。

 神亀3年(726年)、聖武天皇は藤原宇合を知造難波宮事に任じて、難波宮の大規模な再建に着手しました。工事は天平4年(732年)ごろに一段落しましたが、740年に藤原広嗣の乱が起こると、天皇は伊勢に難を避け、その後、都を平城京から山背の恭仁(くに)京,近江の紫香楽(しがらき)宮と転々と移し,次いで744年難波宮を皇都と定めました。しかし翌年には再び平城京に還都することになります。その後も難波宮は維持されていましたが、延暦12年(793年)の太政官符に「難波大宮はすでに停止されたので、摂津職を摂津国に改めよ」との記載があるので、このころ廃絶したものとみられます。

 難波津を中心とする古代の交通・外交・経済・軍事の要所に設けられた難波宮は、孝徳朝の長柄豊碕宮以来、聖武朝の難波宮に至るまで約150年の間、日本の首都としてまた副都として古代史上に大きな役割を演じました。

藤原宇合の略年譜

694å¹´
藤原不比等の三男として生まれる。初名は「馬養」
716年8月
遣唐副使に任ぜられ、717年に入唐、翌年10月に帰国。
このころ「宇合」に改名。
719年正月
遣唐副使の功により正五位下から正五位上に昇叙。
719年7月
常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任命される。
721å¹´
正四位上に昇叙。
724年4月
式部卿の官職にあったが、蝦夷反乱の平定のため持節大将軍に任命され出兵、11月帰還。
725å¹´
従三位に昇叙。
726å¹´
式部卿のまま、難波宮再建工事の最高責任者である知造難波宮事に任ぜられる。
732å¹´
参議・式部卿として西海道節度使に任ぜられる。
737年8月
平城京に疫病が蔓延、藤原四兄弟(※)の最後に死去。最終官位は参議式部卿兼太宰帥正三位。

※藤原四兄弟
 藤原武智麻呂(680~737年)・・・藤原南家の開祖
 藤原房前(681~737年)・・・藤原北家の開祖
 藤原宇合(694~737年)・・・藤原式家の開祖
 藤原麻呂(695~737年)・・・藤原京家の開祖

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について