大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

今知らす久迩の都に・・・巻第4-765、767、768

訓読 >>>

765
一重(ひとへ)山隔れるものを月夜(つくよ)よみ門(かど)に出で立ち妹(いも)か待つらむ

767
都路(みやこぢ)を遠(とほ)みか妹(いも)がこのころは祈(うけ)ひて寝(ぬ)れど夢(いめ)に見え来(こ)ぬ

768
今知らす久邇(くに)の都に妹(いも)に逢はず久しくなりぬ行きて早(はや)見な

 

要旨 >>>

〈765〉山一つ隔てて異郷の地にあるというのに、あまりによい月夜だから、愛しいあの人は今ごろ門口に立って私を待っていることだろう。

〈767〉都の道は遠く離れているせいか、いくら祈って寝ても、あなたは夢に出てきません。

〈768〉新たに天皇がお治めになる久邇の都にあり、あなたと逢えなくなって久しくなりました。行って早く顔が見たい。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持の歌。天平12年8月、太宰少弐の藤原広嗣が、政界で急速に発言権を増す唐帰りの僧正玄昉と吉備真備を排斥するよう朝廷に上表しましたが、受容れられず、9月に筑紫で反乱を起こす事件が起きました。10月、都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、12月15日に恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。家持は、内舎人として行幸に従っていました。

 ここの歌は、その恭仁京(くにのみやこ)に在って、奈良の都に留まる坂上大嬢を思って詠んだ歌です。恭仁京は天平17年5月まで帝都とされ、大嬢は、恭仁に都があったこの時期に家持の正妻になったとみられていますが、まだ新京に宅ができておらず、大嬢は奈良に留まっていました。765の「一重山」は、恭仁京と奈良の故京との間に奈良山が横たわっており、それをいったもの。767の「都路」は、奈良から恭仁京までの道。768の「知らす」は、お治めになる。「早見な」の「な」は、願望。
 
 なお、765の歌を聞いて、藤原郎女(ふじわらのいらつめ)が和した歌が766に載っています。藤原郎女は伝未詳で、坂上大嬢の養育にかかわっていた女性かともいわれます。

〈766〉道遠み来じとは知れるものからにしかぞ待つらむ君が目を欲り
 ・・・道が遠いのでとても来られないと分かっていながら、それでもお待ちになっていらっしゃるのでしょう、君にお目にかかりたくて。

 

(恭仁京 大極殿跡)

恭仁京

 聖武天皇が天平12年(740年)~同15年(743年)まで営んだ都。その後、都は、天平15年に紫香楽宮、同16年(744年)に難波宮へ遷都され、同17年(745年)に平城京に戻されました。恭仁京は、相楽郡恭仁郷の地に位置していたことによる命名。都城制にのっとった宮都で、内裏や官公庁などの宮殿は左京、人民が住む京域は右京に建設する計画で造営が進められていましたが、道半ばで都の造営は中止されました。

 

⇒『万葉集』の年表