新刊紹介:「歴史評論」2024年10月号

特集『近世日本の宗教の規律化と自律性』
◆近世日本の政治文化とキリシタン禁令(大橋幸泰*1)
(内容紹介)
 徳川家光政権での島原天草一揆(島原の乱)以前、つまり豊臣秀吉、徳川家康、秀忠時代にもキリシタン禁令はあったが、それを強固にしたのが、板倉重昌が戦死することなどで、幕府に衝撃を与えた島原天草一揆であった。一揆の中心人物(天草四郎(益田四郎時貞)など)がキリシタンとの理解の元、キリスト教は危険思想扱いされ、弾圧が強化された。
 なお、幕末になると「国学思想」「尊皇攘夷運動」の高まりから、キリシタン禁止は「それ以前と比べ」極めて、神道色の強い物となった(例えば「キリシタンでないことを確認する宗門改」に留まらず「神社の氏子であることを確認する氏子改」が幕末に主張され、最終的には廃止されたが、明治維新初期には実際に氏子調 - Wikipediaが実施された)。そして明治維新初期においてはそうした神道意識の高まりからキリスト教禁止に留まらず、廃仏毀釈が展開された。
参考

かつては「島原の乱」といわれていましたが、なぜ「島原・天草一揆」というのですか。|株式会社帝国書院
A:
 江戸時代初期、(ボーガス注:島原藩主の松倉勝家*2が支配する)肥前国島原と(ボーガス注:唐津藩主の寺沢堅高*3が支配する)肥後国天草の領民が帯同して起こした、大規模な百姓一揆を示す用語として「島原の乱」が一般的に用いられてきました。しかし「島原の乱」とすると、島原でだけ一揆が起こったような印象を与えます。確かに、領民が最後にたてこもった場所は、島原半島の原城でした。しかし、実際に一揆が起こったのは、肥前国島原と肥後国天草の各々の場所でした。このため、島原だけでなく天草を加えて、「島原・天草」と表記するようにしました。
 また、この一揆は、従来のようなキリスト教徒による反乱という見方だけでとらえるのではなく、領主の苛酷な圧政に対する大規模な百姓一揆というとらえ方もされるようになってきました。これまでキリスト教徒による反乱という点が強調されてきたのには、幕府がこの後いわゆる「鎖国」政策を強化し、人々に徹底して禁教政策を推し進めるよい口実にした、という背景がありました。しかし、当時の宣教師が、領主の圧政とキリスト教に対する苛酷な迫害に対する一揆と書き記しているように、近年では、百姓一揆としての性格も重視されるようになってきました。そこで「乱」ではなく「一揆」というように、その表現も改めています。

島原の乱 - Wikipedia
 『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。しかし実際には、この反乱には島原藩の旧主だった有馬氏(乱当時は延岡藩主)に仕えた浪人なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争」というイメージが反乱の一面に過ぎないことが分かる。

【既刊再読 改めて読みたいこの1冊】 『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』 大橋幸泰 - キリスト新聞社ホームページ
 「島原天草一揆の衝撃を受けた幕藩権力にとって、キリシタン禁制は徹底的に貫徹しなければならない政策となった」
 本書は「近世」歴史学者による「キリシタン」イメージの変遷史だ。
 当時、キリシタンは「天草一揆」に代表される反社会的集団だった。要するに、テロリストと見なされていた。
 1643年以降、幕府大目付・井上政重*4のもとで全国的なキリシタン摘発が開始。各藩ごと時期や手法にばらつきはあったが、徐々に伝播・拡大して、最終的に制度化される。それが1659年「五人組」「檀那寺」、1664年「宗門改役」である。諸藩の実態に合わせる形で「寺請制度」が制度化した。
 「毎年、人別に寺請という手段によってキリシタンでないことを証明する宗門改制度が全国的に成立し(中略)表面的には、幕藩体制下に一人もキリシタンが存在しない状態となった」
「幕藩権力は、外部からの流入者への警戒とともに、内部の定住民への注視を同時に行いつつ、キリシタンという宗教の根絶には仏教による監視体制がもっとも有効であるとの実感を持つようになった」

潜伏キリシタンに学ぶ 共生社会実現のためのヒント – 早稲田大学(大橋幸泰)
 潜伏キリシタンといえば、熱心な一神教のキリスト教信者だと思われがちである。しかし、彼らは檀那寺や鎮守の宗教活動にも参加していただけでなく、宗教的な民俗行事にも関わっていた。キリシタンは禁止されていたわけだから、キリシタン信仰を継承していった人々は地下活動を余儀なくされ、表立った宗教活動は形式だけだったように見えなくもない。もちろん、彼らの心の中ではキリシタンの優先順位は高かったのは間違いないだろう。しかし、だからといって、キリシタン以外の宗教活動が単なるカムフラージュだったと考えるのは早計である。
 複数の宗教活動を併存して行っていた人々はキリシタンに限らない。仏教や神祇信仰のほか、陰陽道・修験道・民俗信仰など、江戸時代人の宗教環境は21世紀に生きる現代人の想像以上に豊かであった。これらの中から取捨選択したり、どれかを重視したりするという比重の違いはあったにしても、一つの宗教活動だけを行うというのは、江戸時代人の常識ではない。
 加えて、近年の潜伏キリシタン研究では、彼らの宗教活動について、キリスト教・仏教・神祇信仰などの混合ではなく、併存と考えるべきだとする重要な見解がある(中園成生『かくれキリシタンの起源:信仰と信者の実相』弦書房、2018年)。彼らの宗教活動は、宣教師の不在によってキリスト教とは異質なものに変質したのではなく、宣教師時代当初から併存してそれぞれの宗教活動が行われていたということである。
 もう一つの共存は、キリシタンと非キリシタンという異なる属性の人々が併存状態にあったという点である。これは潜伏キリシタンがそうした宗教活動と無縁の人々と共存していたということである。
 潜伏キリシタンの生活環境は、キリシタンのみで共同体を形成していたと考えられがちである。もちろん、潜伏キリシタンが存在した村の中には村民がすべてキリシタンであったという村もあった。しかし、キリシタンと非キリシタンが混在していた村もあったし、当然のことながらキリシタンすべてが熱心なキリシタン信仰者であったとは限らない。仏教徒であっても信仰心に濃淡があったのと同じように、キリシタンにも信仰心には差異があったと考える方が自然である。
 実際、潜伏キリシタンの中には明治維新後、禁教政策が解かれたにも拘わらず、禁教期に世話になった檀那寺の宗教活動の方に比重を置いて、キリシタンを捨てた人々がいた。また、再布教を展開したキリスト教会に所属して、宣教師の指導下に入った人々がいた一方で、その後も教会組織に帰属せずに先祖の信仰形態を維持した人々もいた。


◆統一政権の形成と戦国仏教(河内将芳*5)
(内容紹介)
 本論文での統一政権とは「織田、豊臣政権(織豊政権)」を意味しており、徳川政権は含んでいません。
 「東北の伊達氏」「関東の北條氏」「四国の長宗我部氏」「九州の島津氏」等を屈服させた秀吉と違い、信長時代には伊達氏らは信長に服属していませんが
1)信長が京都支配を確立
2)甲州の武田氏を滅ぼし、信長に対抗して天下統一できるだけの勢力が存在しなくなったことで
統一政権扱いされています。
 また戦国仏教も本論文では「戦国時代に大きく発展した浄土真宗、日蓮宗*6」に限定されています。
 織豊政権時代の「政権と浄土真宗、日蓮宗」の関係について論じられています。
参考
 織豊政権と浄土真宗、日蓮宗の関係は「弾圧や対立だけ」では勿論ありません。
 例えば織田信長が暗殺された「本能寺の変」があった本能寺は「日蓮宗寺院」でしたが、下記記述(信長による弾圧や対立等)を紹介しておきます。

浄土真宗 - Wikipedia、顕如 - Wikipedia、天満本願寺 - Wikipedia参照
 永禄11年(1568年)に、畿内を制圧し征夷大将軍となった足利義昭と、織田信長が対立するようになると、本願寺十一世の顕如(1543~1592年)は義昭に味方し、元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、元亀4年(1573年)4月の武田信玄の死を契機に包囲網が破綻。信玄死後、朝倉義景、浅井長政(1573年)などの反信長同盟勢力も次々と信長に滅ぼされ、本願寺側の形勢は不利に変化。天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。
 秀吉の時代になると、天正13年(1585年)8月には秀吉より大坂城の郊外である天満の地に所領を与えられ、天満本願寺を建立して新たな本山としている。
 上場顕雄*7は天満移転の背景について、以下の可能性を指摘している。
 1.織田政権と対決した一向一揆のエネルギーは消滅し、本願寺の組織力・軍事力が弱体化したと秀吉が判断した。
 2.1.とは反対に秀吉が本願寺と一向一揆を警戒して、自らの目が届く場所に本願寺を移転させた。
 3.秀吉は浄土真宗の門徒である商工業者の経済力・技術力を評価して大坂城下の発展に役立てようとした。
 4.秀吉が好意的配慮から石山本願寺(大坂本願寺)に近い天満の地を本願寺に提供した。
 また、天正13年(1585年)、顕如は大僧正に任じられた。
 天正14年(1586年)には准三宮の宣下を受ける。
 天正17年(1589年)には一騒動あった。聚楽第の壁に政道批判の落書が書かれ、その容疑者が本願寺寺内町に逃げ込んだという情報と、秀吉から追われていた斯波義銀*8、細川昭元*9、尾藤知宣*10らの浪人が本願寺寺内町に潜伏しているという情報を入手した豊臣政権は寺内町の取締強化とこれらの者を匿ったと断定された2町の破壊を骨子とする厳しい寺内成敗を行った。肝心の斯波義銀らは発見されなかったものの、彼らを匿った罪で天満の町人63名が京都六条河原で磔となったほか、顕如も2月29日に秀吉から浪人の逃亡を見逃したことを理由に叱責を蒙り(『言経卿記』)、3月8日には容疑者隠匿に関与したとして本願寺八世・蓮如の孫にあたる願得寺顕悟が自害を命じられた。こうしてかつて本願寺が持っていた強大な領主権力は顕如一代のもとで完全に失われていったのである。
 天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を天満から京都に移動した。

 秀吉から大僧正任命、准三宮の宣下、所領授与という「好意的待遇」もある反面、問題が生じれば「願得寺顕悟の自害」という鞭もあることが窺えます。

安土宗論 - Wikipedia
 1579年(天正7年)、安土城下で行われた浄土宗と法華宗(日蓮宗)の宗論。安土問答とも称される。信長によって敗れたとされた法華宗は処罰者を出した上、以後他宗への法論を行わないことを誓わされる結果となった。 法華宗側は、成長著しい法華宗を危険視した信長の意図的な弾圧としている。

不受不施義 - Wikipedia
 不受不施義(ふじゅふせぎ)とは、日蓮による思想の1つで、不受とは法華経信者でない者から布施を受けないこと、不施とは法華経信者でない者に供養を施さないこと。
 室町幕府6代将軍足利義教の頃「鍋かむりの日親」とあだ名された日親*11が不受不施を主張した。
 日蓮宗は安土桃山時代に豊臣秀吉が命じた方広寺(京の大仏)での千僧供養に出仕するかどうかで、受不施派と日奥*12らの不受不施派に分裂した。その後不受不施派はキリスト教と同じく「邪宗門」と位置付けられて江戸時代を通じて禁圧を受け、地下に潜伏することを余儀無くされた。


◆近世前期の寺院相論と幕藩領主:防長地域の曹洞宗の事例から(林晃弘*13)
(内容紹介)
 防長地域(萩藩:当時の藩主は萩藩初代藩主・毛利秀就(豊臣政権五大老・毛利輝元の長男。毛利元就の曾孫))での曹洞宗寺院「大寧寺」と「泰雲寺」の相論について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆近世真宗と地域社会(松金直美*14)
(内容紹介)
 真宗寺院・近江国真光寺(滋賀県守山市)の所蔵品を題材に、近世真宗と地域社会の関係について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆民衆宗教の登場と既存宗教(石原和*15)
(内容紹介)
 江戸時代に誕生した民衆宗教*16の一つ「如来教」について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。

如来教 - Wikipedia
 享和2年(1802年)に尾張国愛知郡熱田の農夫・長四郎の三女喜之(きの:宝暦6年(1756年)~文政9年(1826年))が神懸かりを受けて開いた宗教である。
 きのの死後、跡を武蔵国川越から来た菊という女性が継いだ。彼女は明治7年(1874年)まで庵主を務めたが、安政5年(1858年)に尾張藩より布教差し止めが出て、建造物は破壊、土地は尾張藩預かりとなった。その理由は、神道、仏教、何れでもない教義を説き、「お水」を治病行為に使用していたことから、邪宗門との嫌疑が掛けられたからである。
 その後、明治6年(1873年)に廃寺届けを出すが、明治9年(1876年)に曹洞宗の僧侶であった小寺大拙が入信し、中興。その際、禅宗の儀式が移入され、曹洞宗を上部団体とした。明治17年(1884年)に名称を曹洞宗法持寺説教所鉄地蔵堂とした(なお、1929年(昭和4年)、如来教の非主流派(分派)が独立して「一尊教団」を創立し、石川県金沢市に拠点を置いた)。戦後、曹洞宗から離れ、宗教法人法による単立宗教法人となり、如来宗(1952年(昭和27年))、如来教(1962年(昭和37年))と改称した。現在の本部は愛知県名古屋市熱田区にある登和山青大悲寺。


歴史のひろば
◆在銘刀剣と国家の形成(関根淳*17)
(内容紹介)
 在銘刀剣と古代国家の形成について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考

稲荷山古墳出土鉄剣 - Wikipedia、銀象嵌銘大刀 - Wikipedia、雄略天皇 - Wikipedia参照
【稲荷山古墳出土鉄剣】
 1968年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣。出土した他の副葬品とともに1983年に国宝に指定された。115文字という鉄剣の銘文は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史研究において大きく役立つことになった。
 1873年(明治6年)、江田船山古墳(現在の熊本県玉名郡和水町)から銀象嵌銘大刀(1965年に国宝に指定)が出土した。この刀の銘文にも、稲荷山古墳出土鉄剣同様に当時の大王の名が含まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の部分は字画が相当欠落していた。この銘文は、かつては「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土鉄剣の銘文が発見されたことにより、「獲□□□鹵大王」 を「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。このことから、5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される。
 また、稲荷山古墳鉄剣、江田船山古墳大刀の銘文には「杖刀人」「典曹人」という当時の官職名が記されており、『書紀』の雄略紀にも「○人」と称する官名が集中的に現れることから、王権に奉仕する集団をその職掌によって分類した「後の部民制」に通ずる人制の萌芽がこの時代にすでに現れていたことが窺える。
◆年代
 銘文の「辛亥年」は471年が定説であるが一部に531年説もある。
 通説通り471年説をとると、ヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。

熊本城跡から「甲子年」刻んだ鉄刀が出土…聖徳太子の時代に地方へ配布か:地域ニュース : 読売新聞2023.1.28
 熊本市の熊本城跡にある古墳時代の横穴墓跡から、西暦604年にあたる「甲子年五月中」の銘文が入る鉄刀が出土したと、同市などが27日発表した。兵庫県では「戊辰年五月中」と刻む同時期の鉄刀が出土しており、聖徳太子が政務をとったこの時代に、規格化された刀が地方に分配されていた可能性が高くなった。

「甲子年」の銘文入り鉄刀 熊本で発見、604年製作か - 日本経済新聞2023.1.29
 熊本市と熊本大は、熊本城跡(同市中央区)の敷地から昨年4月に出土した鉄刀を分析した結果、「甲子年」を含む6文字の象眼の銘文が見つかったと発表した。6文字は「甲子年五□□」で、最後の2文字は「月中」とみられる。古墳時代の横穴群付近で発見されたことや、鉄刀の装飾などの特徴から、甲子年は西暦604年に製作したことを示す可能性が高いとしている。
 鉄刀は全長約55センチで、銘文は真ん中に近い部分にあった。市などによると、銘文が入った古墳時代の鉄の刀剣出土は全国的にも珍しい。これまでに埼玉や千葉、島根など7県7例が確認されている。
 兵庫県養父市の古墳からも西暦608年が有力視される「戊辰年」の銘文が入った鉄刀が出土している。熊本市の熊本城調査研究センターの林田和人主査は「異なる場所で同じ時期に同じような鉄刀が見つかった。当時の社会状況などを調査する手がかりになる」と話す。
 当時は聖徳太子が活躍した時代にも重なり、刀剣は中央政府から承認の証しとして与えられるものとされる。

象眼の銘文「地方統治の姿」鮮明に 熊本城跡出土、古墳時代末期の鉄刀 |【西日本新聞me】2023.3.2
 熊本城跡で見つかった古墳時代末期とされる鉄刀に、西暦604年を指すとみられる「甲子年」という象眼文字が刻まれていたことに注目が集まっている。604年は「十七条憲法」が公布され、前年の603年は「冠位十二階」が制定された聖徳太子が活躍した時代。熊本で見つかった鉄刀は「当時の中央政権から配られたとみるのが自然だ」と識者は指摘する。中央政権から下された鉄刀は地方統治の一端を示すという。


◆ドイツにおけるユダヤ人救援活動とその研究動向(岡典子*18)
(内容紹介)
 映画『戦場のピアニスト*19』で描かれた『ヴィルム・ホーゼンフェルト*20』等、「ナチドイツ体制でユダヤ人救援に関わった人物」について論じられている。
参考 

58歳で射殺されるまで「偽造身分証」を作り続けた…ユダヤ人同胞のために命を賭した法律家の生き方 そして多くのドイツ人が「身分証紛失」に協力した | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)2023.6.17
 ユダヤ人法律家だったフランツ・カウフマンは、ナチスドイツのユダヤ人迫害に対し、偽造身分証を大量に製造することで抵抗した。その活動は彼が1944年に58歳で射殺されるまで続いた。筑波大学教授の岡典子さんの著書『沈黙の勇者たち』(新潮選書)より、一部をお届けしよう。

 ナチスが台頭するまでジャーナリストとして活躍していたヴァルター・ヘイマンは、カウフマンの人間性を高く評価していた。彼は言った。
『カウフマンはたしかにユダヤ人だが、潜伏ユダヤ人である自分たちとはまったく立場が違う。生粋のキリスト教徒で、ワイマール期には政府の要職を歴任してきた。しかもドイツ人の妻は貴族階級の出身だ。
 彼はダビデの星の着用を免除されているし、彼の身分証明書には、ユダヤ人であることを示す「J」の印もない。彼は「ドイツ人」としての生活を許されている身なのだ。にもかかわらず、彼はユダヤ人同胞を助けるために、あえて途方もない危険を背負う道を選んでいるのだ。』
 ヘイマンのことばから見えてくるのは、カウフマンの強い規範意識である。彼はユダヤ人を守るために、法律上の正しさではなく「人間としての正義」を拠り所とした。
 カウフマンによる救援活動とは、指導者であるカウフマンのもとでユダヤ人たちが身分証明書を偽造し、それを闇で流通させるというものであった。
(後略)
編註:カウフマンは1943年8月、何者かの密告が端緒でゲシュタポに逮捕され、そのわずか半年後に58歳で射殺された。

Topics:岡典子さん『沈黙の勇者たち』 極限下のヒューマニズム ユダヤ人救ったドイツ人描く | 毎日新聞2024.2.7
 『沈黙の勇者たち:ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』は、文字通り命がけでユダヤ人を救おうとした無名のドイツ人たちに光を当てた。昨年12月、第27回司馬遼太郎賞(司馬遼太郎記念財団主催)に選ばれた。著者の岡典子・筑波大教授(障害者教育史)に刊行の経緯を聞いた。
(この記事は有料記事です。)

CHANGEMAKERS #01 著書「沈黙の勇者たち」で伝えたいこと 岡 典子 教授(人間系) | 社会・文化 - TSUKUBA JOURNAL2024.3.13
 司馬遼太郎賞の受賞作に、岡典子教授の「沈黙の勇者たち」が選ばれました。去る2月12日には、その贈賞式が東京都文京区にある文京シビックセンターで行われ、岡教授が受賞の挨拶を行いました。 贈賞式に合わせて、岡教授に著作を中心にお話を伺いました。
◆インタビュアー
 今回は受賞おめでとうございます。
◆岡
 ありがとうございます。
 ナチスドイツ政権下(1933-1945)のユダヤ人迫害の歴史を研究し始めて、10年ほどが経ちました。この受賞によって本当のスタート点に立ったと思います。始めた時には、この研究を20年は続けたいと思っていましたので、これからは少し自信を持って進んでいきたいと思います。
◆インタビュアー
 「沈黙の勇者たち」を読ませていただきました。研究者が書かれた本なので、実は難解なものではないかと思っていたのですが、読み終えて、その予想が見事に裏切られまして。歴史ものを扱ったルポルタージュのような描写と文体ですね。まずは、今回一番描きたかったあたりについてお聞きできますでしょうか。
◆岡
 この作品で、私がまずこだわったのは、「80年以上前のドイツの物語が今の時代の人々にも身近に感じられるように描きたい」ということでした。現代の国際社会にも、もちろん程度と形は違いますが、ナチス時代のドイツに類似する状況はあちこちに存在しています。だからこそ読者には、本書に登場する人々の思考や行動を、他人事としてではなく自分に関わる問題として捉えてほしいと考えました。「昔こういうことがあった」という受け止め方ではなく、時代や国の違いを超えて現在の、そしてこれからの社会に思いを馳せるきっかけにしていただけたらという願いがありました。実際、現代のドイツでは、ユダヤ人を救った「沈黙の勇者」は、歴史教育としてだけでなく、政治教育・市民教育の教材としても大変重要な位置におかれています。その目的は、単に「昔ユダヤ人を救った自国民がいた」と教えることではありません。むしろ、かつてのユダヤ人救援者たちの行動をもっと身近な現代の問題に置き換えることで、たとえば、いじめや暴行、虐待、町なかでの窃盗など、もしそういう場面に遭遇したとき、「見て見ぬふりをするな、勇気をもって自分の良心に従え」と教えるための恰好の事例だとみなされているのです。ドイツでは、ナチス時代への反省から、たとえ「100人のうち99人がイエスと言おうとも、その考えは間違いだと思うならば、たったひとりでも勇気をもってノーと言え」と教えます。「沈黙の勇者」は、あの困難な時代状況のなかで、ノーを体現し た人々であり、市民的勇気(Zivilcourage)の象徴的存在なのです。
◆インタビュアー
 この本では、ナチス体制下でユダヤ人を取り巻く状況が刻々と悪化する中、それぞれの登場人物が非常にビビットに描かれています。文献などにあたりながらの著述だったと推察していますが、様々なアクターが同時並行的に登場し、素晴らしく立体的に、当時の情景が映像的に想像できるような構成になっています。どのような考えから、この手法となったのでしょうか。
◆岡
 本書を通じてとくに伝えたかったことが2点ありました。ひとつは、先ほどお答えしたことと重複しますが、読者に、遠い時代の遠い国での出来事としてではなく、今の時代に、あるいは今の自分に置き換えて考えていただけたらという思いです。もうひとつは、当時のドイツでユダヤ人救援に関与した人々が2万人以上もいたという事実、もちろん、ドイツ人全体からみれば少数の人々ではありますが、それでも決して、ごくわずかな数人、あるいは数十人の人々による例外的な行為ではなかったこと、とくに首都ベルリンには、大なり小なり救援活動に関わった人びとが少なからずいたことを知ってほしいという願いでした。日本でもドイツでも、これまでユダヤ人救援に関する研究や調査の成果は、多くの場合特定の救援者に焦点をあてた物語として紹介されてきました。日本でも広く知られている「アンネの日記*21」や「シンドラーのリスト*22」などもそうですよね。こうした作品に触れると、私たちは、ユダヤ人救援とは、きわめて例外的な人々による英雄的行為だったに違いないと想像しがちです。けれども実際には、私たちの想像よりもずっと多くの市民が追い詰められたユダヤ人のために行動していたのです。
 第二次世界大戦の終結から80年近くを経て、国際情勢がふたたび不穏な状況にある今だからこそ、私はこの物語を少数者の英雄譚としてではなく、ごく普通の人々、名もない人々の群像として描くことに意味があると考えました。ナチス期のような過酷な時代にあっても、人は良心を失わずにいられる。私たち人間にはそういう力があることを示したかったのです。
◆インタビュアー
 ナチスの政策がユダヤ人に敵対的になっていく過程と、その時々の主要人物の動きが、時系列的に描かれていますが、全体と個人とを絡める中でのポイントは何だったのでしょうか。
◆岡
 ユダヤ人救援に関するこれまでの作品の多くは、ユダヤ人迫害がいよいよ苛烈を極め、収容所移送が進行していく時期から話が始まります。けれども、それでは当時の社会状況も、救援者たちの心情や行動の本質も、正確には捉えられないと思いました。そこで本書では、1933 年のヒトラー政権成立から1945 年にいたるまでのユダヤ人政策と、そのときどきにおける人々の姿を連続的に描くことにこだわりました。
 救援者たちは多くの場合、収容所移送が始まる1941年になって突然ユダヤ人の味方になったわけではありません。彼らは1933年のヒトラー政権成立以降、徐々に悪化していく状況に耐えながら、そのときどきに応じた方法でユダヤ人に寄り添ってきたのです。その一方で、結果的にユダヤ人迫害の傍観者となった多数のドイツ市民もまた、必ずしも最初からユダヤ人を敵視したり、迫害に対して傍観を決め込んでいたわけではありません。ナチスはユダヤ人を徐々に追い込んでいく一方で、ユダヤ人に親切心を示すドイツ市民への締め付けも段階的に強化していきました。それにより、当初はユダヤ人に同情を示し、手助けしていた人びとも次第に罰則に怯え、沈黙を強いられるようになっていきました。ナチス・ドイツに限らず、人は社会の状況に何か問題を感じたとき、最初は「おかしい」と声を上げます。このことは国際社会でも、国家でも、あるいはもっと身近な職場や学校などでも同じだと思います。けれどもいくら声を上げても状況が改善されず、しかも声を上げるという行為そのものが自分にとって危険だと感じれば、人々はやがて行動を諦め、無関心を装って沈黙するようになります。そうした意味で、救援者たちは、ユダヤ人の危機に際して「突然現れた人々」ではなく、多くの人びとが諦め、沈黙してもなお、最後まで闘い続けた人々だったのです。
◆インタビュアー
 ほとんどはユダヤ教徒であるユダヤ人への支援母体の一つとして、キリスト教ネットワークが動いていたことに触れた部分もありました。このことは非常に興味深く感じました。キリスト教ネットワークが果たした役割は、どのように考えていますか。
◆岡
 たしかに、教会を中心とする救援者ネットワークはありました。なかでも、ヒトラー政権に対して批判的な立場をとった「告白教会」の聖職者や信者たちによる救援活動は、これまでにもドイツ国内外でさまざまな研究成果が報告されていますし、カトリック信者たちによる救援グループもありました。こうしたグループを行動へと駆り立てたのは、キリスト教の教えである隣人愛であったと思います。ただし、教会のネットワークといっても、それはあくまでも教会に通う信者同士がこっそり連携したというインフォーマルなものであり、決して教会が公式に救援活動を行ったわけではありません。実際のところ、聖職者たちでさえ、ユダヤ人に対する感情や考えはさまざまでした。先ほど「告白教会」は政権に批判的だったとお話しましたが、ヒトラーを嫌悪することとユダヤ人に同情的であることはイコールではありません。ユダヤ人迫害に関心をもたない教会ももちろんありました。それにそもそも、ナチス時代のドイツでは、ユダヤ人救援は国家の方針に背く犯罪行為でしたから、教会としては信者のなかから密告者が出ることも絶えず心配しなければならなかったでしょう。
 これまで伺ってきて、この本が事実や文献に基づいて書かれていることが改めてよく分かりましたが、そうした中で時に分析的なアナリシスもあり、そうした記述にも感銘うけました。実際には、どんな思いで執筆されたのか、もう少し伺えますか。
◆インタビュアー
 これまで伺ってきて、この本が事実や文献に基づいて書かれていることが改めてよく分かりましたが、そうした中で時に分析的なアナリシスもあり、そうした記述にも感銘をうけました。実際には、どんな思いで執筆されたのか、もう少し伺えますか。
◆岡
 従来のユダヤ人救援は、「追い込まれた無力なユダヤ人」と、「彼らを救った勇気ある人々」という図式のなかで説明されることが多かったように思います。もちろん大状況から言えばその通りです。けれども、生き延びたユダヤ人たちの記録を見ていくと、彼らが決して無力などではなかったことがわかります。ユダヤ人たちは、ナチスによって強要された「死」の運命に抗い、何があっても生き抜くことを自ら決めたのです。ユダヤ人を手助けしたドイツ市民ももちろん勇気ある人々であることに間違いはありませんが、ユダヤ人たちもまた、強く、ときにしたたかに行動しました。出版の際、本書の帯に「(ユダヤ人とドイツ人の)共闘」という言葉を記していただきましたが、この「共闘」という表現こそ、彼らの関係性を最も適切に示す言葉だと私は思っています。ナチス・ドイツは、互いに対する不信が極限まで推し進められた社会でした。国家によって密告が奨励され、家族も友人も、同僚も教師も、誰一人信じられないという時代にあって、ユダヤ人と救援者たちは、互いに対する信頼心だけを頼りに、日々を生き抜きました。生きるために共に闘う強さに強い印象を受けました。
◆インタビュアー
 人々のその後の消息も、第4 章以降では描かれています。厳しい状況の中で出産したルート・アブラハム一家と誕生した娘さん のレーハさんは、その後どうなったのかと、個人的には非常に気になりました。レーハさんが生まれたという事実とその時の喜びが、アブラハムさんの夫婦にとっては、もう本当に一瞬かもしれないけど、幸せがあるというような記述があり、こういう点を描くのは、凄いことだなあと。
◆岡
 アブラハム夫妻は、潜伏生活のなかであえて子どもをもつという選択をしました。普通に考えれば、赤ん坊の存在は重荷でしかないはずなのに、夫妻はそうは思わないんですね。彼らにとって赤ん坊の存在は、ともすれば折れそうになる心を支え、力を与えてくれるものだったのでしょう。実際、夫妻が潜伏生活を耐え抜くことができたのは、幼いレーハの存在によるところが大きかったと想像します。どんな状況であっても、人間が生きていくためには、希望が必要だということ。そして、新しい命の誕生は、親にとって何にも増して大きな希望になるのだということ。アブラハム夫妻の例は、それを端的に示してくれている気がします。
 アブラハム夫妻については、潜伏生活のなかで生まれた娘レーハが、のちに両親と自分の体験をつづった書籍を出版しており、それを参照しました。
◆インタビュアー
 話は変わるのですが、教授の研究分野は障害者教育史ということで、この本は、これまでの研究とはだいぶ違うジャンルだったようにも思います。今回、こうした内容を執筆されたきっかけをお聞かせください。
◆岡
 私の専門は障害原理論という研究分野です。障害原理論というのは、ひとことで言えば、「そもそも障害とは何か」を追究する分野と言えば、わかりやすいでしょうか。社会のなかで、どんな人を、あるいはどんな状態像を「障害」として捉えるかは、時代や国によって違います(ボーガス注:例えば昔はLGBTは障害扱いだった)。だから、ある社会の中での、「障害」の成立要因を掘り下げていくことで、じつはその社会の実体が見えてくる。「障害」は社会を表す合わせ鏡のようなものだと思います。
 ただ、ひとつ言えることは、いつの時代でも、「障害」のある人として捉えられるのはその社会では少数者であり、マイノリティです。そうした意味で、障害について考えることは、すなわち社会のなかでの少数者やマイノリティについて考えることに通じています。人々は社会のなかで、いつ、どのような場合にマイノリティの立場に追いやられていくのか。そしてそのような立場に置かれたとき、その人びとに何が起こるのか。このように突き詰めていくと、私はこれまでの研究もユダヤ人救援を扱った今回の作品も、本質的な部分では共通するのではないかと思っています。
◆インタビュアー
 岡教授の今後の取り組みについても伺えますか。
◆岡
 ユダヤ人救援は、今日のドイツでは、ナチスに対する抵抗運動のひとつと認識されています。今後は引き続き、この抵抗運動に目を向けていきたいと思っています。特に、当時の10代から20代の若者たちが何を考え、何を願い、どう行動したかを丹念に追っていきたいです。当時のドイツだけでなく、現代の国際社会においても、若い世代の思考と行動こそが未来を拓く鍵になります。私自身、大学という場に身を置き、日々若い人たちと一緒に生活しているからこそ、かつての時代、極限状況のなかで若者たちが何を感じ、何をしたか。彼らの行動は、後世にどのような影響を残したのか。そうしたことについて、日本の若い人たちに伝え、また一緒に語り合う機会をもてれば、と願っているところです。

杉原千畝に次ぐ「正義の人」に推挙へ 外交官・根井三郎 「外務省の意向に反して難民を救済」:東京新聞 TOKYO Web2023.8.2
 第2次大戦中、当時のソ連ウラジオストク総領事代理だった外交官、根井三郎(1902~1992年)が、イスラエル政府の「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」に推挙されることがわかった。「命のビザ」で知られる外交官、杉原千畝(1900~1986年:リトアニア領事代理)と同じく、根井も独自の判断でビザを発給してユダヤ人難民を救ったと評価されており、受賞すれば杉原に次いで日本人で2人目となる。

宮崎:根井三郎の功績紹介 宮崎 多くのユダヤ人難民救う :地域ニュース : 読売新聞2024.3.23
 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害を受けたユダヤ人難民の日本行きを助けた宮崎市佐土原町出身の外交官、根井三郎(1902~1992年)を顕彰する講演会が23日、宮崎市民プラザであった。市民グループ「根井三郎を顕彰する会」と宮崎市が主催し、集まった約160人が功績のエピソードに聞き入った。

根井三郎 - Wikipedia
 外務省は日独伊三国軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、杉原が発給したビザを再検閲するよう根井に命じた。だが、根井は1941年3月30日付けの電報で「国際的信用から考えて面白からず」と異を唱え、ビザを持つユダヤ人難民を福井県にある敦賀港行きの船に乗せ、ビザを持たない者には根井の独断で渡航証明書や通過ビザを発給した。
 1946年(昭和21年)3月30日に外務省を退職。1950年(昭和25年)6月10日付けで大蔵事務官として横浜税関での勤務を命ぜられる。1951年(昭和26年)には、入国管理庁(現在の出入国在留管理庁)への出向を命ぜられ、同年11月1日付けで入国審査官に任命。1952年9月に法務省横浜兼川崎出張所長、1957年(昭和32年)8月に鹿児島入国管理事務所(現在の福岡出入国在留管理局鹿児島出張所)所長、1959年(昭和34年)8月に名古屋入国管理事務所(現在の名古屋出入国在留管理局)所長を歴任し、1962年(昭和37年)に退職。1992年(平成2年)3月31日永眠(享年90歳)。根井は難民を助けた理由を語ろうとしなかったため、故郷でも功績は長く知られていなかった。
 2019年(平成31年)6月18日に行われた宮崎県議会6月定例会において、横田照夫県議(自民)より根井三郎の功績に対する評価をどう考えているのか問われた河野俊嗣*23知事は以下のように答弁している。

 宮崎市佐土原町の御出身、根井三郎氏におかれましては、外交官であった氏の行動によりまして、多くの尊い人命が救われたことなど、今御紹介がありましたように、近年、その功績が徐々に明らかになってきております。根井三郎氏は、国際的に知られる杉原千畝氏の「命のビザ」をバトンのようにつなぐために、外務省の命令に「面白からず」と異を唱え、ユダヤ系避難民の日本行きを認める決断をされ、多くの命を救われたわけであります。この決断は、戦時中の極限的な場面において、大変な困難を伴うものであったと思われますが、人道的な行為として高く評価されるべきものと感じております。

 杉原については知っていましたが根井氏については無知なので今回初めて知りました。一応メモしておきます。


◆歴史の眼「朝鮮人虐殺100年以降の課題」(外村大*24)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

朝鮮人虐殺「差別や偏見は今も」 東大韓国学研究センター長が声明 | 毎日新聞2023.8.31
 9月1日に関東大震災から100年を迎えるのを前に、東京大大学院の外村大(とのむら・まさる)韓国学研究センター長は31日、同センターのホームページで声明文を発表した。外村氏は震災直後に流言飛語が発端となり朝鮮人らが虐殺された背景を「民族解放を求める朝鮮人の活動を、正当な理由のない、自分たちに危害を加えようとする非合理的な行動であるという認識が日本人の間で浸透していたためだ」と指摘した。
 その上で、現在も朝鮮人・韓国人に対する差別や偏見はなくなっていないとし、「過去の日本の植民地支配で生じていた人権侵害や経済的搾取を否定したり、正当化したりする主張も見受けられる」と指摘。日本での朝鮮や韓国の研究は「これまで以上に民族間の相互理解や友好的な関係を構築する上で重要な意味を持つ」と強調し、同センターの活動を活性化させていくとした。

関東大震災の朝鮮人虐殺にどう向き合うか 東大・外村教授に聞く「事実として語り継ぐ」 小池知事の追悼文不送付は…:東京新聞 TOKYO Web2023.10.13
◆記者
 虐殺の事実関係について説明してほしい。
◆外村
 虐殺については、証言も資料もあって、歴史の教科書にももちろん書かれている。都が出している「東京100年史」、政府の防災対策会議の報告書にも(記述が)ある。「本当に全然知りませんでした」という人には資料を見せればいい。「わかってて否定したい層」が一定数いるんだと思う。「自分たち日本人が残虐な人だと認めなければならない」という恐れなのではないかと思う。日本国民にとっても、他の歴史問題に比べて否定したくなる事実でもある。(ボーガス注:731部隊とか)軍部の一部の人たちがやってたんじゃなくて、庶民の普通の町で暮らしていたごく善良だった日本人が殺していた。否定したくなる気持ちは人間の感情としてある。
◆記者
 虐殺の被害人数について、都立横網町公園(墨田区)にある犠牲者追悼碑には「6000人余」と書かれているが、6000人より少なかったとする人もいる。
◆外村
 正確な人数は分からないとしか言えない。分からないのはなぜかというと、当時ちゃんと調査してないから。
(中略)
 在日朝鮮人の存在を当たり前として次の社会をつくっていく。その際に、朝鮮人虐殺の話題は自然に出るようになればいいと思う。過去にはそういう事実もあって何で起きたかっていうと当時の日本の軍国主義が異常だったねと語ればいいし、二度とないように追悼式をやりましょうっていう話になれば、それでいい。そういう社会を目指したい。
 実践している自治体もある。秋田県花岡町(現・大館市)で、強制連行された中国人労働者400人以上が死亡した花岡事件(1945年)では、市主催で事件の追悼式典をずっと開いている。地元の人たちも、歴史を落ち着いて受け止めることができる。

関東大震災の朝鮮人殺害 東大教授らが小池都知事に追悼文要請 | NHK | 地震2024.8.5
 都は以前、この式典に知事の名前で追悼文を送っていましたが、7年前から送付しておらず、発生から100年にあたる去年も見送りました。
 これについて、東京大学で在日朝鮮人の歴史が専門の外村大教授らは5日、都庁で会見を開き「小池知事は追悼文の送付をやめ、虐殺の事実があったかどうかの認識を示していない。定まった評価を受けている学説への信頼を損ねている」と述べました。
 そのうえで、小池知事に対し、震災直後のデマが原因で朝鮮人などが多数殺害されたことを歴史的事実として認定することや、当時殺害された人々に対する追悼のメッセージを出すことを求める要請文を提出したと説明しました。

*1:早稲田大学教授。著書『キリシタン民衆史の研究』(2001年、東京堂出版)、『検証・島原天草一揆』(2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー) 、『潜伏キリシタン:江戸時代の禁教政策と民衆』(2014年、講談社選書メチエ→2019年、講談社学術文庫)、『近世潜伏宗教論:キリシタンと隠し念仏』(2017年、校倉書房)

*2:1597~1638年。勝家は改易、斬首刑に処された。大名の身分でありながら武士としての名誉刑である切腹が許されず、斬首刑に処された大名は、江戸時代全体を通しても勝家ただ一人だけである(松倉勝家 - Wikipedia参照)

*3:1609~1647年。同じ乱の当事者であり当主が斬首された松倉家に比べれば軽い処分となり、天草領4万石を収公されたに留まったが、失意の日々を過ごし、正保4年(1647年)11月18日に自害した。嗣子はなかったため寺沢家は断絶し、唐津藩は改易となった(寺沢堅高 - Wikipedia参照)

*4:寛永9年(1632年)、大目付(当時は惣目付という名称)及び宗門改役に任ぜられ、幕府のキリシタン禁令政策の中心人物となった(井上政重 - Wikipedia参照)

*5:奈良大学教授。著書『中世京都の民衆と社会』(2000年、思文閣)、『中世京都の都市と宗教』(2006年、思文閣)、『祇園祭と戦国京都』(2007年、角川叢書→改訂版、2021年、法藏館文庫)、『秀吉の大仏造立』(2008年、法藏館)、『信長が見た戦国京都』(2010年、洋泉社歴史新書→2020年、法藏館文庫)、『祇園祭の中世』(2012年、思文閣)、『日蓮宗と戦国京都』(2013年、淡交社)、『絵画史料が語る祇園祭』(2015年、淡交社)、『落日の豊臣政権』(2016年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『戦国京都の大路小路』(2017年、戎光祥出版)、『宿所の変遷からみる信長と京都』(2018年、淡交社)、『戦国仏教と京都:法華宗・日蓮宗を中心に』(2019年、法藏館)、『室町時代の祇園祭』(2020年、法藏館)、『大政所と北政所』(2022年、戎光祥出版)、『秀吉没後の豊臣と徳川:京都・東山大仏の変遷からたどる』(2023年、淡交社)、『都市祭礼と中世京都』(2024年、法藏館)

*6:藤井学京都府立大学名誉教授(1932~2003年、著書『法華文化の展開』(2002年、法藏館)、『法華衆と町衆』(2003年、法藏館)等)は戦国時代に親鸞と日蓮の教説が民間思想として確立されていったことを指摘し、この時代の浄土真宗、法華宗の両教団を特に「戦国仏教」と呼称すべきと主張した(戦国仏教 - Wikipedia参照)

*7:著書『近世真宗教団と都市寺院』(1999年、法藏館)

*8:父の義統は、尾張守護であったが実権がなく、守護代・織田信友の傀儡となっていたが、天文23年(1554年)に信友によって暗殺された。義銀は織田信長の元へ落ち延び、信長に信友を討たせた。やがて義銀は、信長によって形式的な尾張国守護に奉じられたが、斯波氏の権勢を取り戻そうと信長の追放を画策するようになった。しかし、この計画は信長に知られるところとなり、義銀は尾張を追放され、大名としての斯波家は滅びた(但し、後に信長と和解)。秀吉政権では御伽衆となり、外交面で活躍。東北に分家(大崎氏・最上氏など)が点在する斯波宗家の当主として伊達政宗など東国大名との折衝にあたった。しかし、小田原征伐で降った北条氏直の赦免を秀吉に嘆願した行為が増長であるとして、秀吉の怒りを買い失脚(結果的に氏直の切腹は免れた)。後に赦免されたものの、その後は政治的な影響力を回復することはなかった(斯波義銀 - Wikipedia参照)

*9:永禄8年(1565年)、永禄の変で将軍・足利義輝が殺害された後、足利義栄を室町幕府14代将軍に擁立する三好三人衆により名目上の管領として処遇を受けた。三好三人衆の失脚後は足利将軍家に次ぐ武門の名門であったため、織田信長に利用されることとなる。天正5年(1577年)、信長の妹お犬を娶り、以後、織田家の親族として織田政権内で厚遇されることとなるが、一方で信長も「名門・細川家当主の義兄」という立場を手に入れることとなる。天正10年(1582年)の本能寺の変の直後、正室のお犬の方とは死別した。秀吉政権下では秀吉から貴人の1人として遇され、御伽衆に加えられた。晩年は不詳の部分も多いが、天正20年(1592年)に病没したと伝わる。子孫は三春藩秋田家の大老または城代として代々勤めた(細川昭元 - Wikipedia参照)

*10:秀吉の家臣。天正14年(1586年)に讃岐丸亀城主(18万石)になった。天正15年(1587年)、九州の役では軍監に就任し、九州征伐に従軍。しかし、宮部継潤の守る根白坂砦が島津氏の援軍に攻め込まれた際に、豊臣秀長(秀吉の弟)が救援に行こうとするのを、慎重策を訴えて援軍に赴かせなかった。ところが、僅かな手勢で救援に赴いた藤堂高虎らの奮戦がきっかけとなり、根白坂の戦いは豊臣勢の勝利となった。また、この戦いで潰走する島津勢に対して、知宣は天明耳川(小丸川)を越えての深追いは危険とし諸将を止めて追撃を行わせず、島津氏討伐の好機を逃した。これらの判断に秀吉が激怒し、知宣は所領を没収され、追放された。最期については「病死」「秀吉による処刑」等諸説があり、定かではない。新井白石『藩翰譜』によれば、天正18年(1590年)7月、小田原の役の後、秀吉の前に現れた知宣は剃髪姿で現れて、家人であった自らの赦免を訴えたところ、却って秀吉に激怒され、その場で処刑されたという(尾藤知宣 - Wikipedia参照)

*11:1407~1488年。日親は京都一条戻橋で辻説法をはじめたが、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けた。また、日親は法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく(この時代は正長の土一揆や後南朝勢力の反乱などの動乱が続いた)、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440年)『立正治国論』を著したが、投獄されて、焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けたという(日親 - Wikipedia参照)

*12:1565~1630年。慶長4年(1599年)、大阪対論により対馬に流罪となった。元和9年(1623年)に赦免となるが、寛永7年(1630年)、受布施派と不受不施派の対立が再燃する中で死去。同年4月、両者は江戸城にて対論(身池対論)した結果、日奥は幕府に逆らう不受不施派の首謀者とされ、再度対馬に流罪となったが、既に亡くなっており、その遺骨が流されたとされる(日奥 - Wikipedia参照)

*13:東京大学准教授

*14:大谷大学講師

*15:著書『「ぞめき」の時空間と如来教』(2020年、法蔵館)

*16:一般に幕末維新期に誕生した黒住教(教祖・黒住宗忠)、天理教(開祖・中山みき)、金光教(教祖・金光大神)等を民衆宗教と呼ぶ(村上重良『近代民衆宗教史の研究』(1957年、法藏館)、『民衆宗教の思想』(編著、1971年、岩波書店)、『国家神道と民衆宗教』(1982年、吉川弘文館)等)

*17:著書『六国史以前:日本書紀への道のり』(2020年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『日本古代史書研究』(2022年、八木書店)

*18:筑波大学教授。著書『視覚障害者の自立と音楽:アメリカ盲学校音楽教育成立史』(2004年、風間書房)、『ナチスに抗った障害者:盲人オットー・ヴァイトのユダヤ人救援』(2020年、明石書店)、『沈黙の勇者たち:ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』(2023年、新潮選書)

*19:2002年公開。ユダヤ系ポーランド人のピアニスト「ウワディスワフ・シュピルマン(1911~2000年)」の体験記(邦訳は『ザ・ピアニスト:廃墟ワルシャワからの奇跡の生還』(2000年、春秋社→2002年の映画公開後『戦場のピアニスト』に改題して2003年、春秋社)を映画化。カンヌ映画祭では最高賞であるパルムドールを受賞し、アカデミー賞で監督賞(ロマン・ポランスキー)、脚色賞、主演男優賞(シュピルマンを演じたエイドリアン・ブロディ(29æ­³343日での受賞記録は、現在でも史上最年少記録))の3部門で受賞(戦場のピアニスト - Wikipedia参照)

*20:1895~1952年。2007年、ポーランド政府はシュピルマンらを救った功績を顕彰してホーゼンフェルトにポーランド復興勲章を授与。2009å¹´2月にはイスラエル政府も「諸国民の中の正義の人」の称号をホーゼンフェルトに追贈した。評伝としてヘルマン・フィンケ『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校:ヴィルム・ホーゼンフェルトの生涯』(邦訳:2019年、白水社)(ヴィルム・ホーゼンフェルト - Wikipedia参照)

*21:ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクによる日記。1942å¹´6月12日から1944å¹´8月1日まで記録されている。彼女の死後、生き残った父オットー・フランクによって出版され、世界的ベストセラーになった(邦訳は文春文庫)。2009年にユネスコの『世界の記憶(世界記憶遺産)』に登録された(アンネの日記 - Wikipedia参照)

*22:1993年公開(日本公開は1994年)。第二次世界大戦時にドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1100人以上のポーランド系ユダヤ人を自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で絶滅収容所送りを阻止し、その命を救った実話を描く。第66回アカデミー賞では12部門にノミネート、そのうち作品賞、監督賞(スティーヴン・スピルバーグ)、脚色賞、撮影賞、編集賞、美術賞、作曲賞の7部門で受賞(シンドラーのリスト - Wikipedia参照) )

*23:元総務官僚。愛知県春日井市企画調整部長、埼玉県まちづくり支援課長、財政課長、宮崎県総務部長、副知事等を経て、2011年から宮崎県知事(現在、4期16年目)

*24:東京大学教授。著書『在日朝鮮人社会の歴史学的研究』(2004年、緑蔭書房)、『朝鮮人強制連行』(2012年、岩波新書)等