山口智美・斉藤正美・荻上チキ著『社会運動の戸惑い』発売記念・ステマ大会(ウソ【前編】

 こんにちは、みなさま。四年ぶりの『バックラッシュ!』キャンペーンブログ更新です。今回は、新著『社会運動の戸惑い:フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(山口智美・斉藤正美・荻上チキ共著、ハッシュタグ#tomadoi)の発売を記念して行われた座談会を、前後編でお送りします。


社会運動の戸惑い カバー画像


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荻上チキ
 この度、無事、『社会運動の戸惑い』が発売されることになりまして、その発売直前に、共著者の山口さん、斉藤さんと、「バックラッシュ!発売キャンペーンブログ」などでお馴染みの小山エミさんにお集まりいただきました。


斉藤正美
 おなじみのみなさまw


小山エミ
 おなじみすぎる。


山口智美
 なつかしのキャンペーンブログ復活!


荻上
 2005年〜2006年頃、ネット上でちょっとした祭り状態になっていたのがウソのように、「ジェンダーフリー」「バックラッシュ」という言葉がすっかり死語になっておりますね。勁草書房から発売した『社会運動の戸惑い』は、あれから6年、「あの騒動とはなんだったのか」を振り返るため、係争があった各地域を訪ね、保守活動家たちに話を聞くなどといったフィールドワークや資料調査などを重ねたうえで、それらをまとめたものです。
 そこで明らかになったのは、保守運動側の思惑だけでなく、フェミニズム運動側の課題でした。本書は、「バックラッシュ」の背景にあった保守運動の動きを記述する本でもあると同時に、フェミニズムの「失われた時代」の背景にある問題点を浮き彫りにする、そんな一冊になっています。
 そして、これら両者の対立する運動・係争が、そもそも誰のための運動であったのか、その効果はいかほどだったのか、そうした問いについて考察しています。3人とも、元々係争のまっただ中にいたプレイヤーであったわけですが、今後のフェミニズム運動について考えていくためにも、著者たち自らが、調査の過程で感じた驚きや自省といった「戸惑い」を率直に形に残し、議論に活用していだく、そんな本にできたかなと思っております。
 論する前に、著者の残りのお二人からごく簡単に、執筆動機などをお願いします(それにしても、田原総チキ朗ですとかふざけていたのが懐かしい。まさか本当に朝生に出るとは思わなんだ)。


小山
(次期司会狙ってるチキ)


荻上
(狙ってはいない…!)


斉藤
 わたしのこの本の執筆動機は、フェミニズム運動およびフェミニスト研究への危機感だなあとしみじみ思いますわ。
 私としては、企画から関わって出版にこぎつけたひさしぶりの本でした。一冊目が、メディアの中の性差別を考える会で1991年に『メディアに描かれる女性像ー新聞をめぐって』(桂書房)を出し、その後、またメディアの中の性差別を考える会で、上野千鶴子との『きっと変えられる性差別語』(三省堂)を出したのが二冊目、そしてこれが三冊目となります。
 で、一冊目はフェミニズムよこんにちわ、二冊目はザ・フェミニストといわれた上野千鶴子さんから声をかけられて本づくりに関わったもので、フェミニズムど真ん中の本。そして、三冊目の今回は、上野さんはじめ主流フェミニズムへの「どうしちゃったの、フェミニズム」という問題提起の本になったという。
 自分があこがれて入ったフェミニズムがいつのまにか変質してしまった。その変質はどうして起きたのかを振り返ることになったのが、この本かなあ。それが執筆動機。第五章の男女共同参画とは何か、第六章の国立女性教育会館(ヌエック)についての章がそれに該当する。特に、七章のフェミニズムとメディア、インターネットは、フェミニストメディア研究者として、および活動家としての自分のこの分野への関わりを含めて、80年代以降、現在までのコミュニケーションツールとの関わりを軸にフェミニズムの歩みを振り返った章です。
 あおぎみたりあこがれたりしてきたフェミニズム、いったいどうしてこんないびつなものになったの、と。


荻上
 本書ではフェミニズムのメディア利用の変遷や政治との関わり、そしてその変質の要因がいくつか分析されていますね。そして主に、箱モノ行政、啓発路線、「ジェンダー」概念の活用のされ方などについて、批判的な指摘がされています。
 では山口さん


山口
 私も、2004年に小論(「『ジェンダーフリー』をめぐる混乱の根源」)を書いて、フェミニズム系雑誌の『We』に掲載したら、それが不思議な反応を、フェミニズム側にも保守側にも巻き起こしてしまった。そして、フェミニズム側からの批判的な反応のために、あの小論の後半部分は掲載できないのではないか、と危惧される状況にまで至った。そのとき、主流のフェミニズムの流れみたいなものを批判すると、こういうことになるのか、それって、忌憚の無い論争を行うことを重要視してきたはずの、フェミニズムの本来の方向性と違わないかと思ったのが一つ。
 その点では斉藤さんと同じく、フェミニズムの流れを振り返りたかった。そして、どうして今のこの状況に至っているのか、地域での現状はどうなっているのかを知りたかった。
 もう一つには、2004年の年末から2008年頃まで「館長雇止め・バックラッシュ裁判」支援に関わったりしたことで、必要にせまられて「バックラッシュ」についての調査を、最初は自分の研究というよりも、裁判の準備のために始めた。でもその過程で、フェミニズム側の「バックラッシュ」現象の把握も、それへの対峙もまずくはないかと危機感が増してきたのがあった。誰も「バックラッシャー」はいったい誰なのか、調査もないままに想像だけふくらませて話していたけど、本当は誰なのか知りたくなった。
 今から考えれば、『バックラッシュ!』に載せた文章は、自分的にも過度期に書いたものだったなあと思います。


荻上
 「バックラッシュ」の実像は僕も当初、あやふやでした。過渡期、係争のさなかに書いたものを振り返りながら、その発言の内容なども自省しながら書いた三人でありました。


山口
 うん、そうですね。


斉藤
 自省が大きいね。この本の執筆スタンスとして。それは言いたい。


荻上
 斉藤さんの自省とは、具体的にどういうものでしょう。


斉藤
 えっ、すごい司会者w そういちろう張りねw 自省語りかー。
 いつまでも被害者面ばかりを前面に押し出してフェミニズムを唱えてていいのか。フェミニストが行政と組んで男女共同参画政策を進めたり、大学にポストを多く得るようになったりして、ある意味、社会的には強者とみなされるようになった時点で、自らの権力について問うたり、女性を被害者としてのみ見なしがちな理論や知見を洗い直す必要があったのに、それをしてこなかったんだなと思っている。
 わたしが大きく気づいたのは、いくつかのきっかけがあるけど、そのひとつが条例作りに地元で関わり、その後、地元の男女平等センターの運営協議会委員になった時だと思う。
 国立女性教育会館(ヌエック)についての第六章の冒頭で書いているけれども、その時まではかなりどっぷり条例づくり運動に賛同して、浸かっていたの。
 『男女共同参画条例のつくり方』本なんて何度読み直してお勉強したことかーーと。まじめなジェンダー学徒だったのです。でも、条例つくってみて、そのあとセンターの運営についてまじめに取り組み始めたら、行政が手のひらを返したように向かってきたの。(条例づくりの過程でも相当もめたりはしていたけども、、。)ああ、行政にとってまずいことに手を突っ込んだんだなと気づいた。センターや男女共同参画政策は行政にとって大事な利権?なんだなあと理解したというか。予算を開示させようとしたが、とても抵抗が強かったりして。議員さんを同行して市の上層部に出向いてやっと一部開示くらいだった。市民が動くことにこんな抵抗する女性/男女共同参画センターってなによと改めて気づくきっかけとなった。


山口
 チキさんは?


荻上
 僕は基本的には、資料などを探しながら、保守系メディアや論者が何を言い、実際とは違う部分を訂正するということを当時はやっていたんだよね。ただそれはあくまで言説上でのやりとりで、地方自治の現場での係争では、それとはまた違うリアリティがあったはずなんだけれど、それは扱ってこれなかった。
 それと、フェミニズム側の応答の少なさなどを問いなおすことはあまりしなかったね。論争の場に、あまりにフェミニストが少なかった気がしたのだけれど、それはなぜかがわからなかった。
 本書を通じて思ったことは、象徴闘争と実際の運動はリンクしなくてはならないのだけれど、では実際に運動がどういう成果をあげたのかはみえてこないし、論争も空中分解して終わった。その中途半端さの中に自分もいたので、そのことを歴史に残して、検証してもらいたいなと。
 山口さんは?


山口
 1)斉藤さんと逆に、私は男女共同参画の条例づくり運動が始まった頃、近くでみてはいたんだけど、自分ではすごく冷めてて、条例なんかつくってどうなるんだろうと思っていたのよね。
 ただ、今回の本の調査を通じて、条例づくりに関わることで様々な運動につなげたり、つながりをつくったり、意味を見いだしたりした人たちがいた、というのはわかった。フェミニズム側も、保守側も、そのどちらでもない人たちも。そういう点で、以前は現場の状況を知らないままに、上から目線的なところがあったかもなーということ。
 2)『バックラッシュ!』本のときは、わりと「ウーマンリブ」的なノリにどっぷりはまっていたときで、「女」カテゴリとかにすごくこだわっていた面があると思うのね。でも『バックラッシュ!』に書いた文章が議論され、批判もされたりしているうちに、「女」にこだわりすぎてたな、それじゃまずいなと思いだした。そして、2006年、ウーマンリブについてのドキュメンタリー映画「30年のシスターフッド」のアメリカ上映ツアーをやって、その過程でリブについて様々な議論をすることにもなった。そして、ウーマンリブやリブ的なものをポジティブのみならず、さまざまな側面から見直すことができたのも影響した気がする。それが四章の都城の、性的少数者の権利に関する条例のリサーチにつながる視点にもなったかなとは思う。そして、「男女共同参画」の枠組みや、フェミニズムの歴史についても、より批判的にみるようになった。
 3)「バックラッシュ派」を知らなさすぎた。いったい「バックラッシュ派」とは誰なのか、なぜあのような主張をしているのかを知らないままに反論を組立ててしまっていたが、その限界を強く感じることになった。


荻上
 条例の話は、効果はわからないけれど意義を見出している人のリアリティはあったと書くか、意義を見出している人たちがいるけれど効果はわからないと書くかで、だいぶ違うよね。最初は「条例って効果あるの?」という疑問は大きかったけれど、結果としては、そのリアリティをひとまずは書いてみよう、となったね。


山口
 うん。


斉藤
 条例って条文だけじゃないからね。


荻上
 そう。それから「バックラッシュ派」については、言論への応答はしていたけれど、誰に応答しているのか、というのが不透明だったから、そもそも対立が対話にならない状況がなぜなのかっていうことを問いなおすことにもなったね。


山口
 それと、ネットやマスコミ言論の場にでてくる「バックラッシュ派」と、実際に条例づくりや男女共同参画に関して、地域で反対の立場で動いている人たちもまったく同じではなくて。



荻上
 それはフェミニズム側と同じだね。あと、条文だけじゃないというのは、誰が、どう解釈して運用するのかとか、それが作られる中でどういうコンセンサスが作られるかなどが重要になるけれど、フェミ系MLの議論などやそれまでの僕達の温度感でも、「こういう条例になりました。だからよかった/悪かった」的な、暗黙のうちに、そこをゴールかのように語る、というのはあったよね。


山口
 「ジェンダーフリー」という文言が条例にはいりました、よかったね、といって終わりみたいなね。そして、条例ができた結果、どうなっているのかという検証もほとんどされないままになっていた。


荻上
 その結果、世界日報の記者さんが地方の男女共同参画行政に関わっている実態とか、都城の条例が改正されたことの問題とかに目を向けられなかった状態があったよ、と本書では書いております(宣伝)。ではエミさん、改めて論争を振り返ってどう思うかとか、そして『社会運動の戸惑い』の原稿を読んで、どうであったかなど。


小山
 あー総チキ朗きたw
 わたしは今回の本にはまったく関わってなくて、一番最初の読者として発売前の本を読ませてもらったわけですけれど、もう本当にすごくおもしろかったです。表現力なくてごめんw


山口
 うれしいー。


荻上
 どこが面白かったの?


小山
 わたしをふくめて、フェミニズムについてごちゃごちゃものを書いている人は、論争するにしても、出版されているものに対して、お前の論理はこう間違っているのだ、とかただの空中戦をしちゃうことが多いのだけれど、この本では具体的な条例づくりをめぐってさまざまに動いていたプレイヤーの人たちに直接取材して、かなり深く関わって、話をきいている。フェミニストも保守も、一枚岩ではなくて、地方と中央とか、立場によって、それぞれ独自に動いている。
 もちろん、そういう取材ができるようになったのは、「ジェンダーフリー」が死語となるくらいに、多くの人にとって過去の論争として感じられているからだとは思うのだけれど。「バックラッシュ」論争が起きていた当時は、保守の側もフェミニズムの側も、相手を一方的にレッテル貼りしたり、こんなに過激な連中だと宣伝するばかりで、相手を知ろうということがなかったように思います。知ろうとすれば知ることができたのかどうかはともかく。
 わたしも、当時はチキさんと同じようにネットのアンチフェミ言説や保守論壇誌の記事にツッコミを入れるような活動をしていたわけですけれど、各地の条例をめぐる闘争には、そこになかなか登場しないようなプレイヤーもたくさんいて、また別のリアリティがあった。某MLなどでは、条例ができたかどうか、あるいは文言がどうかばかり注目されたけれども、地方自治の現場で実際にどういう行政に繋がるかは、かならずしも条例の文字通りなわけではないし。
 また、この本で扱っている問題では、フェミニズム側が「守る側」になって、男女共同参画なり、女性センターなりに対する批判にどう応答するか、というのが問われた、おそらくはじめての機会だと思うのだけれど、はっきり言うと、あまりうまく対応できなかった。というより、そもそも行政との関係について、フェミニズム内できちんと議論をしないまま、予算がついたところに力が生まれてしまって、そこが仕切っていくようになった。それが批判的に描かれている。
 この本は、全体的にみると、保守に優しくて、フェミニズムというか、行政フェミニズムや学問フェミニズムに厳しい内容だと思うけれど、1995年以降の体制フェミニズムに対する反省がきちんとなされていると感じられて、そこもおもしろかったです。


山口
 たしかに行政フェミや学問フェミに関しては、厳しい内容になってると思う。その反面、なかなかアカデミックなフェミニズムの世界では名前もでてこず、評価もされてこなかった、地域で地道に活動するフェミニストや運動家たちの存在はできる限り描き出そうとした。二章、三章、四章あたりでとくにそういう人たちの声に注目していると思います。ただ、保守に優しい、という批判は来うるだろうと覚悟はしてる。


小山
 日本時事評論の山口敏昭編集長とか、この本を読んでいてカッコいいと思うし。


荻上
 鴨野守さん(元世界日報編集委員)も、いいキャラしてるんだよね。実際、会うと、良い人なんだよねこれが。


小山
 鴨野さんも、がんばりすぎててなんか郷愁を誘うw


山口
 山口編集長は、政治的には私とは正反対のスタンスとはいえ、すごい人だと思う。男女共同参画条例批判の運動の理論をつくり、実践にもつなげていったのは、彼の力が本当に大きかったと思うし。


荻上
 係争の最中に、会ってくれって言ったりしても、あるいは逆に言われたとしても、「言質とられるんじゃないか」と身構えてしまう、というのはあるよね。本書でも、仮にフェミニスト側が、保守側に「取材させて」と言われたとして、どれだけの人がそれを受けるのだろうか、とも思った。
 今回、多くの保守系の人と会えたのは、係争が終わったとほとんどの方が捉えていることは大きかったのは確か。それは、それだけ論争の中では、互いにベタに「敵」だと認識していたということでもあるんだけど。山口さんが書いているけど、運動によって、そうした「敵視の内面化」が自分たちの中にも大きくあったことに気付かされるというのも、「戸惑い」のひとつだったよね。


山口
 うん、そうだった。


斉藤
 恐怖の増幅も大きかったよね。


小山
 千葉さんが、「男=ワル」はユーモアだ、って言ったのは、驚いたよw


荻上
 その点については、ホントかよと今でも思っているがw


小山
 千葉さんの本はそれ以外の部分もぶっ飛びすぎていて、どこがユーモアなのか区別できないw


斉藤
 千葉さんってほんと真面目な人だったよ。


山口
 千葉さんはほんとに真面目で丁寧な人でしたわ。


斉藤
 そのギャップが大きくて、そこがおもしろい。


小山
 保守おじさんにギャップ萌えする本だと思う。


斉藤
 ギャップ萌えw


荻上
 この本がフェミニズムに対する批判の面が強いとすれば、特に斉藤・山口がフェミニストであり、この本はそういう人達に読まれるだろうから、あえてというか、スタンスとしてそうなっているというのはあるんだよね。


山口
 そうだね。そういう面はすごくある。そしてやはり、フェミニストとしての自省からでてきた本であることの影響も大きいと思う。


荻上
 自省で言えば、「ワル」問題は象徴的で。保守系の議論に反論しようという思いがつよいあまり、「トンデモなところだけを探して応答しよう」という風になっていたと思うな、当時の僕は。こうした「選択された批判」が作り出す、相手へのバイアスというのはあるので、注意しなくちゃいけないと思った。


斉藤
 ああそうですね。


山口
 うん、私もそうだったと思う。私は、日本会議が「バックラッシュ」の司令塔で、中央から地方にむけて指令を一方的に流しているのだというような説を書いたりしていた。例えば『バックラッシュ!』本でもそういうこと書いていた。当時は調査がまったく足りていなかった時期で。


小山
 でもアマゾンのレビューで、「男=ワル」論を信じてた人いたよ。


荻上
 いたw いや、あの書き方だったら、本気でそう書いてるんだろうなって思うだろうw
 まあ、僕の場合は、フェミニストとして反論しようというよりも、こう、「ブロガーとしての血が騒いだ」みたいな。


斉藤
 フェミニズム全体としても「トンデモなところだけを探して応答しよう」という風になっていた傾向あったように思います。


荻上
 だって、面白かったんだよね、保守系の議論のトンデモ部分。正義感で反論しなきゃとかじゃなくて、ネタとしてすごかったw


山口
 たしかに、ネタとしてはうけてしまうのよね。


斉藤
 ネタづくりうまかったよねw


荻上
 あえて聞くんだけど、本書で気になったところとかあった?>エミさん


小山
 保守に優しくてフェミニストに厳しいということの象徴だと思うんだけど、上野さんだけはインタビューしてないよね。それ以外、関係者全部インタビューしてると思うんだけど。


山口
 とくに福井の図書問題を扱った五章に関連が深いよね、上野さんは。


小山
 これだけ調査をきちんとしていて、上野だけ抜けているのが不思議な感じで。たぶん、福井の事件のメインの登場人物が上野さん以外なら、インタビューしていたはず。なのに、上野さんはズワイガニを食べたところだけ出てくるみたいなw


山口
 五章は斉藤さんの担当章だし、まず斉藤さんに答えてもらおう。


斉藤
 そうですかー。わたし個人的には、上野さんのことはわかっているように思い、話を聞きたいと思うより、話すことが想像できすぎることがあったように思う。それに、【大人の事情で掲載できません】。


小山
 うわっ、それ公開できない理由じゃw
 ごめん、聴いたわたしが悪かったです。


山口
 あと、インタビューをしてしまうと、そのインタビューの内容をストレートに批判しづらくなる、っていう問題もあるかもしれない。批判的に扱うことは不可能ではないし、この本でもやっていないということではないのだけど、ストレートなつっこみ、という形ではしづらくなるのは確かで。


荻上
 聞いた上で、「とこの人はいったが、実際はこう」みたいなことをするのは、ちょっとどうかというのはあるよね。


小山
 そのあたりが、何も知らない読者にとっては、フェミニストの側には弁明の機会が与えられていない、って見えるんじゃ?


荻上
 今回は保守運動家へのインタビュー、フィールドークを多く紹介したいと思ったよね。その際、特定のスタンスからの批判を加えるのではなく、まずはリアリティを描こうという自制によって、フェミに厳しい本、ととられうる形になるんだと思うよ。
 インタビューを紹介するけど、自分たちは突っ込まない。そこが、「なんで突っ込まないのか。迎合している」みたいな形で取る人もいるんじゃないかなっていうね。みんなはどう?


【以下、大人の事情に関係する話が続く。】


荻上
 オフレコばかりじゃ掲載できねえよ!w


山口
 今回の調査では、おそらく保守側の人たちにとって、会ってきちんと話した事があるフェミニストって我々だけみたいな状況だろうと思われたし、実際にそう言われた事は多かった。それもあって、せっかくそれなりに築いた信頼関係や、そこから生じる対話の可能性とかを、書く段階で全部崩してしまうわけにはいかないと思った面もあった。


荻上
 実際の現場では、会って話すことは普通だと思うよ。条例づくりの現場では、いろいろな人同士が会ってるだろうし。


山口
 会ってもきちんと話しているかは別だしね。実はほとんど会話してなかったり、とかあるし。


荻上
 いやほら、荒川区条例とかもそうだけど。


斉藤
 いや、条例づくりの場ではあまり話していないと思うよ


荻上
 テーブルを意識しなくちゃいけないというのはだいぶちがうんじゃない?


斉藤
 反対派が審議会に入っている荒川区なんかでは話す機会があったかもしれないけど。でも、ふつうは、反対派は審議会には入れないことが多いわけだし、議会に条例案を上程するに当たって議員に条例案をもって説明に回るのは行政の人ですよね。直接市民が反対派の議員と話す機会はあまりないのが実情だと思う。批判の側にいる草の根保守については、集会に妨害に来て「大声で叫んでいる怖い人」って印象をもっていたフェミニストが多かったのだろうし。当時は、そういう話をよく聞いていた。フェミニストは批判側と話ができるとは思っていなかったのでは。


小山
 でもまあ、本が出たら、弁明の機会がなかったフェミニストたちも反論の機会あるよね♥


山口
 あるあるw
 完全スルーされてしまうのではないかという危惧はあるのだけど、そうならないでほしいと心から思う。


斉藤
 どういう批判が出てくるかだよね。


荻上
 僕の読書バイアスなのかもしれないけれど、ジェンダー概念や思想の歴史とか、特定の政策の歩み、運動史を追ったフェミ本はけっこう読んでるんだけど、今回のような運動の経緯を複数角度から捉え返す、みたいな本って、あまり読んだことないんだ。


山口
 たしかにそうかもしれない。


斉藤
 わたしも知らない。運動の歴史はあっても、中央からの視線だけってのが多いかしら。あるローカルな地域での運動かだれか一人の人のあゆみとかはあるかもだが。


小山
 保守方面からじゃないけど、去年出たライオットガール本(『Girls to the Front: The True Story of the Riot Grrrl Revolution』)はそんな感じかな。


荻上
 僕は半分は編集者的なスタンスでいたから(といっても多忙で最後はほとんどおまかせになっちゃったけれど)、まとめ係として一章と最終章に主に関わったんだけれど、そういうところに本の価値があると思ったから、ふんだんにフィールドワークを活用した本にしあげたかったと思った。だから、最初はやろうかとか考えていた「理論化」とか「意義への解釈」とかはやめたんだよね。解説はもう不要だし、理論化は別の人でもできるだろうと。


山口
 うん、あえて、保守の人たちや、地域で動いた人たちをまずは描き出そうということに力をいれた。


小山
 構成もすごくよくできているよね、これ。とくに二章以降が、ストーリーとしておもしろく読めた。


斉藤
 うふふ


小山
 第一章でつまづいちゃう読者がいたら悲しいけどな。デルフィが分からなくても、本の残りに全然関係ないんだけどねw


荻上
 しょうがないこととおもいつつ、一章の歴史振り返りが一番、もっさりとしちゃうんだよね。


山口
 デルフィでつまづくかしら。
 あと、とくにヒューストンの誤読事件のあたりは『バックラッシュ!』本で書いたことのおさらい、という面もあるしねえ。この章自体は、新たな視点や情報を加えているところもあるんだけども。


荻上
 振り返らないと読者置いてけぼりだけど、一章でつまらないと思われたら、いやいや魅力はそこじゃないんだよう、みたいなジレンマ。


小山
 章ごとに話したほうがいいのかな?


荻上
 そうだね。では、それぞれの章を簡単にふりかえってみようか。


山口
 そうしましょう。


(後編へつづく)


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というわけで、今回はここまで。後編は、明日公開します。

山口智美・斉藤正美・荻上チキ著『社会運動の戸惑い:フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』は、10月31日発売です! 感想は、ツイッターのハッシュタグ#tomadoiまでお願いします。