中村美亜さんと新著『クィア・セクソロジー 性の思いこみを解きほぐす』について語る featuring 小林美香さん、ミヤマアキラさん、マサキチトセさん

 こんにちは、みなさま。お久しぶりの『バックラッシュ!』キャンペーンブログ跡地の更新です。今回は、中村美亜さんの新著『クィア・セクソロジー 性の思いこみを解きほぐす』の発売を記念して、美亜さんを囲んでお話しをしましょう、という企画で集まってもらいました。

クィア・セクソロジー―性の思いこみを解きほぐす

クィア・セクソロジー―性の思いこみを解きほぐす

 参加メンバーは、レギュラーのわたし (macska) と荻上チキさん (chiki) に加え、中村美亜さん (mia)、『写真を“読む”視点』の著書がある写真批評家の小林美香さん (mika)、デルタGのミヤマアキラさん (miyama)、そしてブロガーのマサキチトセさん (masaki) です。
 人数が多いうえに似たような名前の人が多い座談会がどうなるかは、司会役のチキさんがどうやって(イニシャルが)M の人たちを仕切るかにかかっているかもしれません。がんばれちきりん! というわけで以下に本文がはじまります。


chiki
 嫌われるくらいガンガン仕切りますね(笑)。というわけで、チャット大会をスタートしたいと思います。ちなみに、今回の主催者の意図を簡単にどうぞ。


macska
 みんな、美亜さんの本を売ろうぜ、と。


miyama
 w


chiki
 明快ですね!


macska
 とても良い本なので大いに紹介したいところなんですが、わたしが単純に書評とか書いたら、つい批判的なことばかり書いてしまいそうですし… 9割賛成なのに、1割の部分をどうしても書いてしまう悪いくせがあるので。座談会形式でやった方がいいかなぁと。


miyama
 わたしもおおむね大きくうなずきながら読んでました。


masaki
 ボクもー。


mia
 とにかく、議論を起こしたいんですね。批判する対象はあっても、話を始める場所がないような気がしていました。なので、多少煮え切らなくても、出して、叩いてほしいと。


miyama
 さすがはMだわw みあちゃんw


mia
 早速。


mia
 ばれましたね?


masaki
 ちょwwwアウティングwww>みやまさん


miyama
 w


macska
 ってことはわたしはSだったのか…ってベッドでは違うのに。


masaki
 too much info!


chiki
 なんというカミングアウト。ではまずは個別の論点に行く前に、みなさんから順に全体の感想を伺いたいと思います。まずは macska さんからお願いします。簡単な自己紹介もplz.


macska
 いつもの小山エミ、本名 macska です。
 読んだ感想は、ちゃんとセクソロジーしてるなぁと。副題の「性の思いこみを解きほぐす」というのがあって、そういう本は過去にもあったと思うんですが、ちゃんと研究を踏まえている点と、音楽の章とが、美亜さんならではだなと。インタビューも、見落とされがちな話題を取り込んでいて効果的だと思います。
 あと、113ページのイラストに furry がいる! (注:furry は、擬人化された動物や、動物の着ぐるみを着た人に萌えるサブカルチャー、もしくはそうした対象に欲情するフェティッシュ。)


mia
 113ページの、あれは、たぶん『犬身』(松浦理英子著)とかぶっているんだと。


macska
 ああ、そうか。 furry を意図したわけじゃなかったのね。


chiki
 ありがとですー。では、次にマサキよろ!


masaki
 うおー。マサキチトセです。ブロガー現役大学生です。本を読んだ全体の感想は、本当にGJ!という感じで、上野千鶴子の『発情装置』のメジャー、メジャー、メジャーグレードアップみたいな、すごいいい本だと思いました。
 美亜さんの個人的な体験とか、インタビューとか、あと音楽学の話が絡まっているのがものすごく理解を助けていると思います。


macska
 千鶴子萌えのまさきくんがそう言うんだから大絶賛。


chiki
 ありがたうございます。それでは、小林さんお願いしまうぃっしゅ。


mika
 小林です。私は専門が写真などの視覚文化で、ジェンダー表現などに興味を持っています。この本はセクソロジーという研究の概要や射程とするところの輪郭が描かれていて、私のような入門者にとっては有り難い情報/論点が満載の上に、インタビューやエッセイによって著者の人物像が前書の『心に性別はあるのか』よりもより全面に出てきていると感じました。
 また、音楽学の視点が入ることで、より「感覚」という観点からセクシュアリティの問題を捉える視点に奥行きが増しているように思います。本の中のイラストも、フレンドリーな感じでいいですね。文章の中で触れられている作品(ローリー・トビー・エディソンさんの写真など)が図版として入っていたら、なおよし、だったかもです。


mia
 ちなみにローリーさんと引き合わせてくれたのは、このみかさんですー。


chiki
 ありがとうございます。では、ミヤマさんどうでしょ。


miyama
 ミヤマアキラです。デルタGの運営スタッフやってます。ラブピースクラブで「タフまん」というコラムを連載してます。みあちゃんが本書で書いていることと、自分がこのコラムで書いていることと、けっこうかぶってるな?と思うことがしばしばあります。
 お訊きしたいのは、日本では人文系セクソロジーの先行研究ってないのかなーと。あればきっとみあちゃんが言及するんじゃないかと思ってはいたのですが、どうなんでしょ?


mia
 人文系は「セクシュアリティ研究」という言説研究になってしまうのでは。


miyama
 あ なるほど。


chiki
 みなさまありがとうございました。感想がいくつか出ましたが、今いただいた感想について、みあさんのフィードバックを兼ね、本書執筆に至る書き手の意図や本書の狙いなど、教えていただけますか?


mia
 今、少し出たんですけど、ここでやりたかったのは、人文系の言説研究や理論研究の成果と、自然科学や保健福祉系の研究、それから人権を中心にしたアクティヴィズムが、みんな解離してしまっていて。おまけに、フェミニストは性暴力だ性虐待といって、性を忌み嫌うし。
 それでは、何も変わらないし、おまけに、いつも基本ばかり話しているのが嫌になって、本でも書けば、とりあえず、もう少し先の話もできるようになるのではと。


miyama
 すげーわかるw


mia
 ジェンダー研究はまだいいのですが、セクシュアリティ研究とか、性科学とか、てんでバラバラで。何やっているのかもわかりにくいし、理解されないから。活動しようにも場所が無い、ってな感じですか?


mika
 そうだったのかー。


macska
 すげー納得です。もうこれだけで本買ってね!で終わらせてもOKかも(笑)


miyama
 バランスがいいなーと思いました。セクシュアルマイノリティに関しては、性指向による差別は人権侵害だと訴えることは大切だけれども、性と政治が深く結びついていることをみあちゃんはとても分かりやすく書いているし、セックスそのものともちゃんとリンクさせてるなと思ったです。


mia
 もう一つ言いたいのは、ここ数年、いわゆるマジョリティ相手に話をすることが格段に増えました。そうしたら、これまでの話の仕方では通じないことがわかって、かなりショックで、それで、なんとか通じる話の仕方をと悩んで試行錯誤したので、せっかくやったらな書いちゃえ、シェアしようと。そうすれば、他の人はその先から進めるし。
 それから、私としては、最後の章だけで一冊、論じまくりたかったんですが、そういう論考を深める機会もそのうちはくるかな?と。てな感じです。


miyama
 次の展開がちょー楽しみ。


chiki
 「マジョリティ=ヘテロセクシャルな中年男女」ということですか?


mia
 それに加えて、マイノリティ意識のない女性も。


mika
 大学で教えてるんだったら、若者ってことでもあるとおもいますけど。>chiki さん


chiki
 あ、大学もか。僕みたいに、地方講演とかかと思ったw


mia
 そうですね。基本は若者でしょうか。ただ編集者の意図としては、いわゆるおばフェミをなんとかしたい、というのがあったみたいです(笑) 要するに、ヘテロチックなフェミ。


chiki
 なるほどなるほど。


miyama
 チキりんの自己紹介&論点は? 司会者に徹しちゃうの?


chiki
 司会に徹しようかと思っている、ブロガーで、編集とか批評とかをフリーでやってるチキでふ。よろしく。


macska
 チキさんの活躍を描いた漫画が週刊少年サンデーで連載されています。


mia
 ほう、何てタイトル?


masaki
 読みたいー


miyama
 幅広いなーチキりんw


chiki
 いやいやいやいやいや、冗談ですよw


macska
 ごめんなさい、いきなり脱線させてしまった。チキさんみたいな主人公(若木民喜『神のみぞ知るセカイ』の桂木桂馬)というジョークでした。分かりにくくてごめん。


chiki
 論点としては、保守的(?)セックス観はdisらず認めたいがどうよ、という話とか。皆さんが興味あれば。
 では、個別の内容にいきましょう。一つ目の質問として、マサキが座談会開始前に言ってた「全体的にセックス・ポジティブな印象を受けるのは、美亜さんの意図なのかなぁという疑問」が分かりやすいと思うんですが、補足ある?>マサキ


masaki
 ある。えっとですね、性と愛を切り離して考えることの重要性の強調が文脈にあるのはわかるのですが、オルガズムとか、性器とか、身体性とかを語られたときに、自分の中ではすごく違和感があって。というのも、身体性って、個人的には実はすごく苦手なんですね。
 だから、自分のセックス、セクシュアリティを見つめ直す、とかいう行為がすごく苦痛なこともあって、そんな中読み進めていくと、どんどん置いて行かれるような感覚になってしまって。それは「読者層」の話ともリンクするんですが、ボクはこの本ではきっと救われないんだろうな、と思ってしまったんです。


macska
 わたしも、美亜さんが参加した一週間のセクソロジー・ワークショップとか、自分は無理だなぁと。


miyama
 わたしはワークショップやりてー!ってムズムズしながら読んでたw


macska
 あはは。


chiki
 ワークショップは苦手だな。自分の顔見て泣けないメタ厨な僕です。


masaki
 セックスを楽しむこと、それも、それを愛や暴力とは距離を置く形で、でも「親密性」などのポジティブな部分を取り上げて楽しむこと、っていうのが、できる人とできない人が当然いて、できたからっていいもんでもないだろう、という身もふたもない感想なんですが(そして言葉足らずですみません)。


chiki
 ちなみに、マサキ君の救われる本ってどんなの?


masaki
 ボクの救われる本・・。なんだろう。絶望が書いてある本だと思う。希望が書いてあると、とても置いて行かれた気がしてしまう。(終わってるー)
 そこってやっぱり、「解放」論的だなと思ったところとかぶっていて。


mia
 絶望が書いてあると、救われる。。。か。


macska
 北米インターセックス協会を作ったシェリル・チェイスが、インターセックスの研究をするために、美亜さんと同じセクソロジーの学校に通っていたことあるんですね。でも、彼女はインターセックスの人たちが、望まない手術によってこんなに性的なダメージを受けた、という話をしているのに、クリトリスがなくてもこうすればイケる、とか周囲に言われて、嫌になったと。


mia
 それはありえますね。いろんな人いるから。


chiki
 すげえエピソードだな。


macska
 社会全体にセックスに対するすごくネガティヴな態度があるから、そういう学校にいくと、逆の方向に振り切れてしまって、とにかくなんでもポジティヴにしてしまう人が出てくる。
 クリトリス切除と、それによる感覚の喪失に、というよりその喪失感に、寄り添うことができる人が少なかったんだと思います。


mia
 それは、この学校のまずいところです。私もずっとハッピーだった訳ではないし、かなり批判的に見てるんですけど、ただ、私の場合は、その前のアカデミズムでは救われなかったので。。。


macska
 ああ。


masaki
 なるほど。


miyama
 デリまんなわたしは、クリトリスがあってもあんまり役にたってませんw


masaki
 w


mia
 ちなみに、女性のみの授業っていうのがあって、私は抵抗したんですが、私も入れろとか、そうでなければ、男だけのも作れとか。
 今思うとちょっと恥ずかしいのですが。結局、頭の硬い先生だったので、どうにもならなかったですね。他の人たちは賛同してくれたけど。


miyama
 なぜ女性のみ???


mia
 これは macska さんの専門分野だと思うけど、女性の体験を語るには生来の女性でないといけないと。セクソロジーの中には、本質主義な人も多いんですよ。口では、私は多様性を受け入れますと言いながら。


miyama
 ふむ。


macska
 美亜さんの本は、やっぱり「クィア・セクソロジー」だから、そのあたりの前提が古典的なセクソロジーとは違うのでは。ここでいう「クィア」は単に LGBT とかいう意味ではなくて、サブタイトルのとおり性にまつわるいろいろ自明な前提とされることが疑われる、という意味だと思いますが。


chiki
 「自分らしさ」「本当の快楽」みたいなタームによって、前提とされてしまう当事者主義、本質主義みたいなのもありますしねー。


macska
 「女性の体験」というときに、美亜さんを含めないのであれば、シェリルも含まれないことになってしまうし、その「女性」って誰なんだよ、となってしまうはずなんですが。


mia
 まさに、この本の編集者としては、そこが問いたかったんだと思うんですよー。


miyama
 マサキのいう、身体性が苦手ってのは、どういうことなのかもう少し訊かせてもらえる?


masaki
 オナニーをした方がいいだとか、自分の性器を見ようとか、まず同性から慣らしてから異性とセックスした方がいいとか、セクシュアリティは人間の人格に不可欠なものだとか、親密性とか喜びとか、そういうことを語られたときに、なんだか、あたかもセクシュアリー・アクティブじゃないことがすごく情けなく感じられてくるというか、人生の他の喜びをすごく謳歌しているのに、根本的なところで欠けてるよねみたいに言われている気がして、って、ただの被害妄想か。


chiki
 わかるよマサキ。同じこと思った。


miyama
 ただの被害妄想というまとめw


masaki
 www


mia
 ちょっと待って!(て、古いけど)
 被害妄想なのかな?単に。そうではない気がする。というか、そういうふうには取ってもらいたくない、という思いが著者としてはある。なぜかうまく説明できないけど。


chiki
 セックスポジティブの話でいえば、挿入を唯一の満足の方法だと考えるのは短絡的だという話もあったけれど、これはみあさんの本の場合は「唯一の方法」だと考えているヒトに、別の想像力をみせることが目的だから別としても、その言説が、「豊かなセックス/貧しいセックス」的に区分して、特殊な体系下での抑圧構造を作り出してしまうことはあると思う。というか、フェミ系の議論が、既存ジェンダーへのオルタナティブを提案しようとする際に、強調気味に使われるレトリック全般にも、そういう危険性はあるといつも思ってるんだけど。
 前、マチュカさんから、レズビアンの振りをするフェミニストの話を聞いたけど、PC的に豊かなセックスとか、ある種のヒエラルキーを新たに作られてしまう感じ?いっても自分はやっぱり、挿入はなんだかんだで気持ちいいしな、とか思った(笑)。


miyama
 挿入が気持ちいいというのはわたしもわかる。といっても射精体験はできないけれど、入れている指が気持ちいいというのはありますな。


macska
 わたしは、米国の若者を惑わすセックスポジティヴ論者の代表格の3人のうちの1人、みたいに某保守系雑誌で叩かれたことがあるんですが(笑)、どちらかというとセックス・アグノスティックで、セックスが他のいろいろな娯楽や行為にくらべて、特別なものだとは思わないのね。


mia
 全く同感。


macska
 で、サッカー大好きな人が、サッカーに興味持たない奴は人間じゃないなんて言ったら明らかに変だけど、セックスについてはそういう言説が成り立ってしまうと。
 

chiki
 僕は娯楽の中の上位10位くらいには入ります!w


macska
 現時点ではエイドリーと遊ぶのが第一位だな。


miyama
 素敵な娯楽w>エイドリー


macska
 かわいすぎ。


mika
 現時点ではサーフィンが第一です。。


mia
 私はセックスを特別視することに反対している。ただし、それを言うのには、ニュートラルに言うと届かないので、本全体が開放的なトーンになりがちなのかも。もちろん、インタビューに応えてくださった方には、また少し違った考え方もあると思うけど。


masaki
 なるほど。


chiki
 今のは、マサキが以前「解放論的なビジョンが多くて、それはどうなんだろうと思った」と言っていたことにも関連するね。


masaki
 じゃあそこにうつって、少し補足するけど、解放論的だと思ったのは、具体的には84-85ページのインタビューの部分、111-112ページあたりの男役/女役の部分、114ページのジェンダー・クリエーティブのワークショップの部分、180ページ(付近?)の乳房切除の話や犬の話、あと190ページ最後の「ジェンダー化にとらわれないジェンダークリエイティブでクィアな実践」のあたりなんですが、84-85あたりのやつと、190ページのところに関しては、「セクシュアル・マイノリティであることが『異性愛中心主義からの脱却』と関連されているのかなぁと思って、違和感を感じました。


mia
 なるほど?。確かにね。他の方はどうですか?


macska
 解放論的っていうのをもう少し説明してください。


chiki
 抑圧されているものから「解放」されれば、真の○○に出会えるので、「解放」すべきってタイプの議論のことじゃね?



macska
 なるほど。


masaki
 112、114、および180付近については、ジェンダーのパフォーマティヴィティを強調するあまりに、そこから脱却しようとしても脱却できない人たちが大勢いて、そもそも「女」という場所から降りることというのが「非存在」となりうるような世界にいるわけですから、その辺のつらさみたいなものにもっと触れてほしかったと思ったのです。


chiki
 あるいは「解放されていない」状態よりは「解放されている」状態のほうが、無前提にいいとしてしまう言説とか?


mia
 なるうほど。ただ、「降りる」ことが辛いと言ってしまうと、誰も降りなくなるのでは、という危惧があります。


masaki
 解放論的っていったのは、84-85ページ、190ページあたりについては「クィアな実践が解放的だ」としているのではないかなぁという、単純な違和感。112,114,180ページについては、解放されることはおそらくかなり難しくて、その難しさについて語らずに済ませるのはまずいんじゃないか、ということです。「解放論的」っていう言葉は別に使わなくてもよかったですね。


chiki
 「解放」自体の現実的困難の問題もあるね>マサキ


miyama
 解放されている/されてない と言ってしまうと前者のほうがよくね?という話になりがちだけど、前向き/後ろ向きというとどっちも大事と思う。


miyama
 で、みあちゃんの本には後ろ向きの部分があまりなかったってことなのかな?


masaki
 そういうことかもしれない。で、ボクはそれにすごく置いてきぼり感を感じてしまって、「あぁ、あたしは解放されないのね」って。逆に。


mia
 今、つらさを味わっている人には、ついていけないって感じなのかなあ。それは、前の『心には性別はあるのか?』でさんざん叩かれたところでもあるけど。


miyama
 でも 音楽によるエクスタシー体験の話は、行為としてのセックスにばかり重きをおかないというみあちゃんの思いが感じられたわー。


mia
 みかさんは、見る快楽についてよくお話をされているんですけど・・・


mika
 眼から悶絶するというか、ものを見ていて気持ちよくなる、ということは時々あります。親しい友人からは「お前は眼が性感帯なのか?!」と指摘されることもありますがw。
 ポルノグラフィを見て欲情する、っていうのとも違うんですけどね。視覚の欲望/快感と身体全体の欲望/快感はどうつながっているんだろうか、と考えることもあります。 


masaki
 「でもやっぱり、エクスタシーってみんな好きなのねー」って思ってしまった。いや、身体的な(どこまでが身体的かどうかは置いておいて)快楽は、わかるんですけど、ボクはそこに親密性とか優しさとか喜びとか、関係性とかの付加価値を介入させたくないの。(なんでカミングアウトになってるんだ!公開される予定なのに!恥ずかしい!)


miyama
 公開されるのにまた鬼のような追い打ちをかけるけど、「親密性とか優しさとか喜びとか、関係性とかの付加価値を介入させたくない」のは、なぜなのかしら? それは所詮幻想だよ、みたいなスタンス?>マサキ


masaki
 「幻想だよ」という冷めた感じというより、むしろすごく情熱を持って、親密性や優しさや喜びを純化したい動機かもしれない。身体がない状態を希求する、というか。だからブログやってんのかしら。(ぉ


miyama
 解放されていないひとたち向けというより、セックスやセクシュアリティに関して辛い体験をなるべくしないようにという配慮のための文章だったのかな?とも思う。


mia
 というよりは、もっと単純に性を捉えている人たち、加害者/被害者意識、マジョリティ/マイノリティ意識がまず無意識にある人たちに対して、ちょっと待ってよーっていいたかった。
 特に研究者とか、教育者とか、ケアの人とか、そこから始められると、結局、救われる対象であったはずの人が救われない、と。


masaki
 意識の低い人たち向けに書いているのは確かに伝わってきました。その点で、本当にこの本はGJだと思うんですが。


macska
 あ、みあさんに聞きたいこと思い出した。


mia
 どうぞ


macska
 何年か前に、米国の一部でカドリング(抱っこ)パーティというのが流行ってたと思うんですが、あれはどう思いますか? 大勢の人が集まって、お互い抱き合うパーティ。


mia
 ほう。あまり詳しくは知らないのですが。それは全く知らない人どうしがやるのですか?


macska
 知っている人もいるかもしれないけど、基本的に不特定の相手とです。カドリングだから、ソファやベッドで抱き合ったりするけど、セクシュアルじゃなくて、インティマシーだけだという話。


chiki
 ワオ。


macska
 何年か前の、ある同じ月に、その話を3箇所のまったく別個の場所で聞いたんですね。1つはそういうのが流行っているという新聞記事で、1つは実際に地元でそういうパーティを主催している人と会って、そしてもう1つは、あるクィア系コンファレンスの会場で、カドリングパーティがこの部屋であるよ、という告知があった。
 それだけのことが、一つの月の間に立て続けにあったので、これはなにかすごく大きな動きになるかも、って予感したんですが、結局あんまり広がらなかったようで(笑)


mia
 優等生的な答えをすると、それが好きな人はやればいいし、そうでない人はやることはない。ただ、アメリカの場合は、接触をするということ自体がセクハラとすぐなることが多いので、その反動かもとか。怖いのは、最近、日本ではセクハラばかりが認知されるようになってきて・・・。


miyama
 日本で言うと活元運動の会みたいw>cuddling party  ちょっと違うかw


macska
 で、その主催者の人と、最近久しぶりに再開したので、あれはどうなっているのかって聞いたんですね。そしたら、SMパーティとか乱交パーティと違って、インティマシーを共有するのは敷居が高いと。ただ会場に行けば、誰かと抱き合えるなんてことはなくて、その場限りであってもそれなりに信頼できなくちゃいけない。


mia
 それは乱交パーティー(というと語弊があるけど)経験者が言っていたけど、短時間で信頼関係を築くのはシビアだって。


macska
 はい。でもセックスやSMプレイよりも、インティマシーを共有することの方がさらに敷居が高いと。


mia
 そうだと思う。ただ、人と人が触れ合うというのは、ある状況下においては重要だと思う。ちょっと慰め合うときとか・・・


macska
 それで、当時カドリングパーティを主催していた人がいま何をやっているかというとですね、3つの部屋のある会場で、1つはSMプレイパーティ、1つはカドリングパーティ、1つは雑談できるスペース、みたいな総合イベントにしたら、比較的うまくいったと。


mia
 そうかも。言葉で足りるひと、もう少し必要な人。。。


miyama
 スワッピングクラブでも必ず雑談スペースとヤリ部屋に分かれてるけど アメリカはそうじゃないの?>エミさん


macska
 わたしは行った事ないんで知らないですが、雑談スペースはあるはずです。ていうか、バスハウスでも普通にお風呂に入っていたり(笑) 特にレズビアン向けのやつ。


miyama
 いいなー>L向け


macska
 レズビアン向けバスハウスっていうのは実際無くて、ゲイ男性向けのやつが月に1回だけレズビアン向けになるとか、そういう感じですけど。ゲイ男性とレズビアンの比率、29:1かよ!みたいな。


miyama
 すくねーw>29:1


masaki
 すくねーー!w


mia
 みかさんとか、アメリカでたくさんハグしてきたと思うけど、日本の言葉の挨拶と比べてどう?


mika
 うーん。どうだろ。ハグにかぎらず、挨拶とか会釈とか、にこっと笑うとか、他人とのコンタクトを頻繁にとるような気がするよね。そういう関わり方は、自分としては気持ちいいもんだな、と思いましたよ。


masaki
 「言葉で足りる」「もう少し必要」という発想も、ボクとは逆で、むしろセクシュアルなものでは足りない、という気持ちがある。(そういう順番が正しい、という意味ではなくて、こういう人もいるということで)


miyama
 セクシュアルなものって型にはまりやすいからかな?>マサキ


masaki
 型にはまりやすいって言ったら多分「言葉」「雑談」も十分型にはまりやすいとは思うんだけど、なんだろう。なんでなのかってのはわかんない。でも「言葉で足りる」「もう少し必要」って言う発想も、ボクには理由がわからない。


mia
 そうだね。私も知らないうちに言葉が先になっているかも。>まさき


mia
 現実的には、私は言葉よりも、身体感覚かも。五感というか・・・


miyama
 頭からとカラダからと両方乗り入れてますわたしは。


masaki
 ボクは身体感覚は消したくて、言語だけになりたい。


chiki
 だんだんマサキのセックス観を分析するチャットになりつつあるなw


masaki
 あわわわわ。もう!やめて!


chiki
 ではミヤマさんから、いくつか質問があるようなので、そちらに徐々にシフトしていきましょう。


miyama
 はい、本書62ページの ルヴェイの「確信犯的」なところって、どういうところなのかしら?というのが1つ目。ルヴェイの書いていること言ってることをあまり詳しく知らないもので、「確信犯的」というのがわたしにはピンとこなかったということで、もうちょっと知りたいなーと。
 続いて、125ページの「病院選びについてはセクシュアルマイノリティも同様」というくだりがありましたが、これはどのように同様なのかちょっとわかりにくいかと。わたしはわかるけれども(特に女子)、なんで?と思う読者もいるんじゃないかなーと。
 3点目は、188ページの「無化された者の叫びは、残虐な行為へと駆り立てられていく」とは、具体的にどういう場面が想定されるのか。ちょっと詩的な表現なんだろうかとも思ったけど、その前の文までは意味が分かるんだけど、段落の最後にこの文があるってことは、きっと大事なことを言いたいのだろうと。
 セックスは支配関係だ、という表現にちょっとドキッとして、それは「支配」という言葉に対するネガティブなイメージが先行してしまうからだと思うのですが、その「支配」って、ロールプレイングととらえるのはナシですか?


mia
 ルヴェイの件は、もう少しきちんと書かなくてはいけなかったんだけど・・・ というか、そもそもこの本、これの2倍はあったものがカットされたので・・・ 予算の都合とか。


macska
 残りの半分読みたいな。


miyama
 読みたい読みたい。


chiki
 そこは(続きはウェブで!)ですよw


mia
 また検討してみます。が、とりあえず、ルヴェイで言いたかったのは、単に、生物学的な問題として扱う方が、社会的認知が得やすいという政治的な判断をしている、というところです。マチュカさん、補足よろしく!


macska
 ええと、2004年の大統領選挙で候補討論会があったときに、両候補に対して「同性愛は生まれつきだと思いますか?」という質問があったんですね。民主党のケリーは「そうだと思う」と答え、ブッシュは「そんなことは分からない」と言った。
 分からないことは分からないと言うのが誠実な態度ですから、これはブッシュが圧倒的に正しいと思うのですが、それが単なる科学的事実についての認識ではなく、政治的な立場を示す材料となるという政治的状況があるわけです。つまり、性的指向は人種や性別と同じく生まれつきだから差別するな、という主張があって、それは人種や性別が生まれつき決定されているという前提からして間違っていますが、そういう政治的な環境の中でルヴェイは研究成果を発表しているわけです。
 ルヴェイの科学的な論文を読むと、わりと丁寧な議論をしているんですが、一般に紹介される時点で単純化されている。で、ルヴェイもそれをあんまり咎めようとはしていないように思います。率先して誤解を広めるようなことはしないまでも、誤解してくれても自分の関知するところじゃないよ、みたいな。


miyama
 なるほど


mia
 これは例えば、最近の日本のLGBTにも言えることですが、よく「ゲイは生まれながらにゲイ、レズは生まれながらにレズ」と言うと納得してもらいやすいし、当事者や当事者の家族も認めやすい。だから、そういうことが「正しい知識」として広まる。そうすると、支援する人も「ゲイの人たち」「レズの人たち」に思いやりを、と憐れみをかける方向に。。


miyama
 同性愛者決定遺伝子とか、発見されてほしくないw


mia
 アイデンティティと特性が、体として一体化することが、一般には受け入れやすいということです。しかし、これはとても危険だということが、最後の章で書いたことなのです。


miyama
 うんうん


mia
 実は、今度のクィア学会の話で「“人種化”問題(人種問題ではなく)」に触れようと思っています。


miyama
 おお! 楽しみ!


macska
 それを言うなら、人種こそ「人種」化されているという前提が必要だと思います。学問的には、今後50年間でアジア系アメリカ人とメキシコ人は「白人」になる、という議論もあるくらいなんですが。


miyama
 なんだその議論w


mia
 笑


macska
 アシュケナージ系ユダヤ人が第二次大戦後急速に「白人化」したことに典型ですが、「白人」というのは歴史的に言って権力関係を指し示す社会的構築であって、なんらかの一貫した生物学的特徴を示す言葉ではないということです。


miyama
 そのころには地球人ですらなくなっている気がw


mia
 私が問題だと思うのは、「人種化」されるってことは、あらたなはカテゴリー化がおこるわけで、それはまた新しい差別構造を産み出す。
 今、セクハラだ、性暴力だ、と言いながら、その問題の所在は、実は、その被害者にも加害者にもない場合が多いと私は感じている。実はもっと違うところ。ところが、目の前に見えやすい人がスケープゴートになっている状況、弱者が結局、排除される状況が… ちょっといたたまれない。終了。


miyama
 「違うところ」というのを、もっと詳しくプリーズ


mika
 環境の問題ってこと、かな?>みあさん


mia
 環境というよりは、もっと大きな経済構造、そう、社会構造というよりも経済構造、って最近は思ったりする。


miyama
 違い とか 多様性 ってのが カテゴリ化 差別構造化につながる恐れもある?


macska
 みあさんの言うそれが、187ページから188ページにまたがる部分?


mia
 そうですね。ほんのちょっとしか本の中に生き残らなかったけど(笑)。


miyama
 あー、188ページの「無化された者の叫びは、残虐な行為へと駆り立てられていく」も、意味がわかってきた。平たく言うと 秋葉原無差別殺傷の件みたいなこと?


mia
 ちょっと文学的に逃げすぎましたか?


miyama
 うんw


mia
 そうですね。それも一つです。
 でも、まだリサーチしたわけでもないので、ちょっと曖昧に書かざるを得なかったという事情もありました。


macska
 「無化された者の叫びは、残虐な行為へと駆り立てられていく」というのは、話としては分かるんですけど、いくつか留保があって。


mia
 macska さんどうぞ。


macska
 ふたつあるかな。繋がっていますが。
 ひとつは、残虐な行為として叫ぶことすらできない人もいて、残虐な行為によって代弁させちゃうのが困るというのと、もうひとつ、逆の方向から同じことを言うことになると思いますが、残虐な行為を起こすから無化はいけないのか、と。


mia
 二点めについてはもう少し補足がほしいのですが。


macska
 ええと、つまり、仮に残虐な行為に駆り立てられなければそれでいいのかと。


mia
 ほうほう。そこは難しい問題ですねーー


macska
 秋葉原事件について考えるときに、犯人を追い込んだ背景を分析するのは良いと思うのですが、同じ状況におかれたほとんどの人は事件を起こしていないわけで、あと一人押さえつけることができてたら、何も問題なかったのかと。あるいは、ああいう犯行に及ぶことすらできずにもっと苦しんでいる人もいるはずなのに、無差別殺人でもしなければ気付いてもらえないのかと。
 この部分、もしアメリカ人によって書かれた文章なら、文脈上からアルカイダあたりのテロリズムの話だと受け取りますね。


miyama
 それも思った>テロ
 発現するとしたら、残虐な行為としてしか発現する回路がないのは問題かも。


mia
 事件としては、さまざなま要素が重なって起きているので、どれが原因というのは難しい。この件については、私も詳しいわけではないにので。
 チキさんとかはどうですか?


chiki
 アキバ事件については、メディアの言説のほうが気になっているので、「代弁」を読み取ろうとする言説側の失敗が気になりますねー。macska さんの指摘にひきつけるなら、「無化された者の叫び」という政治性の妥当性と、「だから○○として包摂しなくてはならない」として提示されるモデルの妥当性の問題。発話者にとっては「だから自分の唱える政治性で包摂しよう」というメッセージになりがち、とは思います。


miyama
 「無化された者の叫び」が政治利用される危険ですね。


mia
 そうですね。実際、それは起こっているし。よきにつけ、悪いにつけ。


chiki
 そうですね。あと、アキバの件で思ったのは、動機の語彙のテンプレかな。「その叫び方で妥当なの?」とかね。もちろん、「妥当な叫び方」というモデルへの誘導しがたさは、それ自体は政治的な課題なので、何かの価値にコミットしないと出てこない論点だけど。


macska
 「無化された者の叫び」というのは、ストレートに届かないからこそ「無化された者」であるわけで、そういう立場の人の「残虐な行為」が議論の発端になる時点で間違っていると思う。歴史が 9/11 ではじまったみたいな。


chiki
 そうだね。


mia
 そうですね。私が問題にしたいのは、秋葉問題にせよ、性暴力/性的虐待問題にせよ、9/11にせよ、異常者を排除、性的なものを排除・・・という方向に行ってほしくないという点ですね。無化されたものをあるものにする際に、排除のネタに使うなと。そこまで本では明確に書けなかったけど(汗)。


miyama
 沈黙かテロか、しかないのかしらね。。。>「無化された者」


chiki
 ある合理性で「無化」された人が、別の合理性なら「叫べる」というのはよくあることだけど、それが妥当かはまた、ね。


mia
 そうなんですよね。あれ、ずーっとひっかかってるんですよ。


chiki
 ミヤマさんの質問、もう一個残ってたね。


macska
 「セックスは支配関係だ」という表現に対して、その「支配」はロールプレイングととらえられませんか、という質問ですね。
 わたしは以前、「SM教育論」という論文をフェミニズム教育論集みたいなのに提出してボツくらったんですが(笑) タイトルは Pedagogy of the Bound and Gagged(被拘束者の教育学)というもので、パウロ・フレイレの『Pedagogy of the Oppressed(被抑圧者の教育学)』 のパロディです。


miyama
 よみたいー。


macska
 要点を簡単に言うと、フェミニズム教育学が、伝統的な教育における教師の一方的な権威を否定するあまり、教室内における教師と生徒の権力関係を曖昧にするのは欺瞞である、というところから入って、教師と生徒のあいだの権力関係は、人格から切り離されたその場限りのロールプレイとして safe, sane and consensual に演じられるのが良い、みたいな。


mia
 これは、研究とか関係なく、私の意見ですが、基本的に、愛と支配は同じだと私は思っています。ロールプレイというのは演じることで、支配/愛はもっと無意識な行為や感情なので、別だと。
 わたしは基本的に「セックスは暴力」ととらえているんですよ。それは自分のなかにある暴力性になるべく自覚的でありたいという意識からなんですが。


macska
 わたし的に疑問なのは、「愛は支配の一形態であることをもっとも分かりやすい形で示すのがSM」という部分。もっとも支配から逃れようとしているのがSMだと思うから。


chiki
 いくつか論点でましたね。いっこずついきましょう。


macska
 同じことを言っているんですけどね。


chiki
 そうね。


miyama
 愛と支配が同じというのはわたしも同意。


chiki
 「○○は支配・暴力だ」という発見と、「だからダメだ/××だ」との間のショートカットが起きないかとも気になったかな。


mia
 ああ、じゃあ。支配、支配って特別なことのように言うけど、いつもやっているわけ。


miyama
 そのうえで、無意識(ベタ)に支配関係やるんじゃなくて、ロールプレイング(ネタ)という意識を持つようにすれば、わたしの場合はセックスに際してナイーブになることはなくなった感じ。


mia
 それはセックスだけでなく、ふだんのコミュニケーションでもそうだよね。


miyama
 うん


mia
 ロールプレイとしてやらなくては、物事が成立しないことはいくらでもある。ただ、そこでまた戻るけど、それが人格化したり人種化したりして欲しくないわけ。
 ただ、マニュアルもらって接客やっていると、友達関係もマニュアルっぽくなったりするというのもある。もちろん、私も面倒くさいときはマニュアル的に動くけど。
 私としては、愛と暴力/支配と二項対立とする論調に物申したいわけ。


miyama
 そうね 分離はできない>愛と暴力/支配 「それは愛じゃなくて暴力だよ」とか言うのは違うと思う。
 マニュアルっていっても、引き出しひとつしかないマニュアルはどうかと思うw わたりさんのインタビューにもあったように、ひとつひとつ言語化はできないけれど、その場の判断で「この場合はこう」「こっちの場合はこう」っていう引き出し的マニュアルがあれば、かなり柔軟な対応ができるし。


chiki
 今日はさまざまな論点がでてきたけど、「セックスのあり方」を取り巻く言説についての議論がこれほど盛り上がるあたり、セクソロジーの意義や、みあさんの本の議題設定の面白さが発揮されたなぁと思う。 セクソロジーの、そしてみあさんの向かう先について、最後に伺いつつ、みなに〆の一言や今日の感想とかもらうという流れでどうでしょ?


mia
 どこへ向かうか? うーん、結構難しい。というのは、まず生活費稼がないといけないので(笑)


miyama
 せつじつw



mia
 とりあえず、いただいた仕事こなすのが精一杯な感じ。


chiki
 なんと!チキはみあさんへの共感度が100あがった!


mia
 だけど私としては、からだと欲望、経済・社会の関係を、考えていきたい。といっても、経済学とか、社会学ではなくて、もう少し思想的なレベルと、生理学的なレベルをつなげながら。
 かなり無謀かもしれないけど、でもこれやってかないと性についての認識が深まらないし、セクマイ問題も、性暴力問題も、解決しないでしょ。なので、なんとかお金を出していただいて、研究やりながら、でも、象牙の塔にこもらないよう、現場に還元していきたい、ってな感じでしょうか。


chiki
 よくばりだ!ありがとうございます!


chiki
 では、参加者一同のコメントを。今度は下から指していこう。ミヤマさんから


miyama
 うぃっす。
 わたしは単純に「無化された者の叫びは、残虐な行為へと駆り立てられていく」の意味がわからなかったんだけど、みなさんはちゃんとわかってて、その先まで考えていらしたのねー(恥)。
 マサキの意見から、後ろ向きの「クィア・セクソロジー」も考察していきたいなーと思いました。本書に盛り込めなかった分も含めて、続編や、今後のみあちゃんの活躍に超注目、です。続編を知るにはまず本書から! みなさん読みましょう!
 以上っす。


chiki
 なんという御用コメントwwww


miyama
 w


chiki
 ロールプレイを実践していただいてありがとうございます!
 では、macska さんお願いします!


macska
 わたし的には、もともと倍あったものを削ったと聞いて納得いきました。この本って、多彩な話題を、すごいスピードで話してますよね。


mia
 ちょっと早すぎるよな、って自分でも思う。
 でも、最初は、話題にしてもらうことが大切だから、それでいこう!ということになった。幸い、編集の方がものすごく協力的だったのでよかった。


macska
 削った部分は別に読みたい。


chiki
 ぜひ書籍化を!


mia
 税込みで2000円以内というのと、専門家にしかわからない話し方はしない、という制約があったんですね


macska
 この本を議論のはじめにしたいというのはすごく納得できて、ほんとうにたくさんの人に読んでもらいたいですね。1章ごとに、より掘り下げた本を1冊ずつ出してください(笑)


chiki
 つぎ、マサキ。


masaki
 とても良質な本だと思います。冒頭でマチュカさんも言っていたけれど、ほとんど8割9割ボクは同意しています。意識が必ずしも高くない人向けに書いたということで、その点では大成功だと思いますし、内容も、特に70ページの「セクシュアリティは、社会や文化との影響関係、個人の身体的・心理的特性、教育システム・精神医学、市場原理などの社会的な制度の微妙なバランスの上に存在する」などは、かなり重要なことをさらっと盛り込んでいてすばらしいと思います。全体的にも音楽学や個人的経験、ワークショップの例とかインタビューを使って非常にわかりやすく、それでいて専門性の高いことを書いてらっしゃるので、ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思います。
 個人的にはいくつか違和感もあって、それはチャットでも言いましたが、「身体性」が強調されすぎていて自分が取り残されたように感じてしまう人もいるだろう(ボクを含め)ということ、クィアな実践が解放的であると誤解を招きやすい表現があるのではないかということ、またジェンダーのパフォーマティヴィティを強調するあまり「今まさに存在と非存在の間を揺れ動く形で苦しんでいる人たち」(イリガライ的に言えばミミクリーの実践者たち)の経験に全く触れていないのではないかな、という心配がありました。また、チャットで話す機会を逃してしまったのですが、175ページあたりで家族を「子どもたちが性について学ぶ重要な場所」としていたのが、参考文献を読んでいないのではっきりとは言えないのですが、やはり違和感を感じてしまいました。その辺は読者の皆さんが実際に手に取って(レジに持って行ってお金を払って!)読んでみたときに、それぞれの評価を下して、議論を深めて行ってほしいと思います。


chiki
 小林さん、感想いかがですか?


mika
 ええと、専門的な議論にはあまりついていけてなくて、まったく整理できていないのですが、経済構造の問題は、いろいろなかたちで噴出する時期に来ていて、美亜さんは、セクソロジー研究からその問題の出方をすくい上げようとしているんじゃないか、という風にも思いました。


chiki
 これまた新しい指摘!


mika
 で、何がいいたいかというと、美亜さん的スタンスの取り方は、色々な分野で応用できるのではないかと。経済って言葉を思いついたのは、本の構造が、個々の感覚や体験談、事例という部分と、ロジックや学問という全体の成り立ちの部分という、両面から成り立っているということもありますが、miaさんの関心は、セクソロジーという研究分野の中に収斂されることだけではなく、で生きている上で誰もが包含され、作用を受けている力学の働きそのものに向かっているんじゃないか、と思うからなんです。個々人の感覚や欲望のありようも、決して個人の問題としてその人の中に収まるものではなく、その人を取り囲む状況の作用から作り出されている、という事実にたいして自覚を促そうとしているのかな、と本を読んでいて感じました。


macska
 というわけで、みなさん今日は長い時間どうもありがとうございましたー。


chiki
 長々と話してきましたが、言いたいことはひとつ。「みんな買ってね!」