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文帝曹丕の長男。生母は甄氏。延康元年(220年)、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、黄初3年(222年)には... 文帝曹丕の長男。生母は甄氏。延康元年(220年)、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、黄初3年(222年)には平原王に封ぜられた。 16歳の時、母の甄氏は父の文帝に誅殺された。当初、文帝は曹叡を好まず、他の夫人(徐姫)の子供である京兆王曹礼を後継ぎにしたいという気持ちをもっていた。そのため曹叡は長期間太子になれなかった[5]。 黄初7年(226年)に文帝が病床で重体に陥ってから、皇太子に立てられた。母の甄氏が曹丕の勘気に触れて死を賜っていたこともあり、即位以前の曹叡は公の場に出ることが少なく、曹叡の人物を知る者は司馬懿など限られた人々しかいなかったという。 黄初7年(226年)5月、文帝が崩御すると皇帝に即位した。即位後、ただちに母の甄氏に皇后の位を追贈し、文昭皇后と諡した。 同年、呉の孫権が江夏を攻撃した。群臣は兵を出して救援しようと意見したが、明帝は「水戦に習熟した孫権が敢えて陸戦を行って
2015/12/23 リンク