北面とは、北に面していること、北に向かって立つことである。また、そこから派生して以下の意味を持つ。
この記事では3,4について記述する。
院御所の北面に詰め、そこで何らかの仕事に従事した人々を総称して北面と呼ぶ。白河院政末期には部屋によって上北面と下北面に分かれ、上北面は主に文官が務め、摂関家の分家で最終的には公卿になるものもいた庶大夫層が集まる一方、下北面は武官が多く、そのうち僧兵の強訴に対する警備などに従事した軍事貴族や侍身分の人々を総称して北面の武士と呼ぶ。
知名度のわりに研究がほとんどされている気配がないが、簡単にまとめてみよう。
その成立は、藤原師通、藤原師実の相次いでの死去によって院の権勢が増した康和4年~5年(1102~1103年)ごろと思われ、完全に整備が完了したのは嘉承元年(1106年)ごろらしい。白河院崩御の時点で北面は80人ほどに及んで上下に分かれていたが、下北面は武者所が母体となり過半が武者に占められている。
白河院期の層は
の3つに分かれ、最初は1,2だけだったのが、次第に3も加わっていったとされる。なお、北面の武士は検非違使追補尉へ昇進するステップアップのひとつでもあったようだ。
そして鳥羽院政期を経て後白河院政期に入ると、平治の乱で院との緊密な紐帯がズタズタにされてしまい、以下のような構成になる。
彼ら下北面の武士たちは衛府尉から検非違使、そして国守になっていったのだ。
後鳥羽院政期には蔵人系であった院近臣によって上北面が充実した一方、下北面に関しては武官中心なのは依然変わらない。
が、彼らが目立った存在だったのはここまでで、承久の乱でほぼ壊滅、以降は警備隊、さらには名誉職程度の存在に次第に変わっていったのであった。
まだ北面が何を指すのかあいまいな時代のため、ここで北面と呼称されている人々が厳密な北面というわけではない。
尊卑分脈くらいしかソースはないがあげておく。
もはや彼らは一括して後院侍衆として把握されており、北面の名前は消えてしまった。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2025/05/15(木) 11:00
最終更新:2025/05/15(木) 11:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。