両親の為に生きる必要性、それ自体は、恐らくは存在しないと言えるだろう。
っていうか必要性って何だよ!? といったような突っ込みが多々飛んでくるかもしれないが、まあそれは後で説明しよう。
さて、まず私たちは生きており、更に生活をしているわけだが、その中で自分の両親に援助してもらった部分が多々あることは、自明の理であると思う。
さらにそのことで思い煩っている人々が、少なからずいるのではないだろうかとも思う。
「両親に仕送りを送らなければ、私は親不孝者だ」などと思ったり「少なくとも何らかの形で親に寄与するようなことをしていなければ、社会的な存在価値が危ぶまれる……」とさえ思い詰めている方が、ひょっとしたらおられるかもしれない。
そんな方々の為に、私は金言を授けよう。
遠慮なく受け取ってほしい。
さて、我々が何故両親に対して寄与しなければならないと思うかと言えば、それは勿論我々の成長発達段階において、親からの援助が大いに存在していたからである。
その為に我々は今すぐにでも、具体的な形で、その援助してもらった恩を返さなければならないと思っているのである。
それは例えば生活環境を整えてあげることであり、またあるいは仕送りをしてあげることでもある。
しかしそう言ったことを義務だと思いつつも実行できない、そう言った方々が少なからずいるだろうことも存じ上げている。他でもない、私自身がその一人だからだ。
だが私は敢えて提言しよう、それは義務などではない、単なる個人的な関係性に過ぎないのであると。
先程述べたように、私たちは成長発達段階における援助に対して恩返しをしなければならないからこそ、義務感を覚える、と書いた。
これを更に掻い摘んで書けば、つまり両親がいなければ、『私』自身は成長することもできなければ、存在することすらできなかったからこそ、こういった義務感を覚えるのである。
だがしかし待ってほしい。それを言うならば、その私たちにとっての両親にさえ、また、成長発達段階で不可欠であった『両親』が存在するではないか。
しかもその『両親』には更に必要不可欠な『両親』がいる……いやいや待ってほしい、更に言うなれば、そもそも人類の種自体が存在していなければ、我々の存在は有り得なかった……!
そして言うまでもなく、そう、この地球が存在しなければ、我々の存在する余地はないのである。
母なる大地よアーッ!
いやいや、さらに言えば、この宇宙さえ、そも世界さえが何モノかによって生み出された存在なれば、もはやこの『根源追究レース』は普遍的、哲学的領域に突入してしまうことになる。
つまり結局のところ何が言いたいかと言うと、冒頭で述べたような義務の感じ方を追求すれば、もはや貴方を縛るものは何もないのだという理解につき当たるのだ!
そう、両親の為に生きる必要、というのは存在しないのだ。
まあ、そこで結局問題になるのは、貴方と両親との間に存在する個人的な関係性に限られるのだ。
たとえば、貴方が両親を悲しませたくない、というただその一点の感情を持っているなら、そのようにすればいい。
てことは、自分も両親になる、というのが恩返しになるのでは。 orz できそうにない・・。