弾さんのペントハウスは、現代の武相荘をつくりつつあるのかもしれない

私はなんで毎年10日間にわたって家を「ホテル」にして、海外のオープンソースプログラマーたちに無料で解放して、そのためにウン十万も出費しているのか「理解」していない。しかし私にはそれが可能だし、それが好きだし、それで「納得」している。

弾さんのつづけていることが、わたしのやってみたいことに近いということに気づいた。
弾さんが東京駅近くの高層マンションに住んでいる理由がなんとなくわかったような気がする。
「オープンソースで飯を食う」ことを必要十分をこえたところまでやると、弾さんのようなことができる。これはめったにないことなのかもしれないが、この先どうなるかを考えてみると、それほど珍しくないことになるのではないかな、と思った。
というのは、それが珍しくなかった時期の話を思い出したからだ。
わたしが思い浮かべているのは、たとえば白州次郎が鶴川に疎開したあと、その棲家がたとえば小林秀雄、青山二郎、河上徹太郎、吉田健一などのたまり場になって、そこから家主の妻である白州正子のような骨董蒐集家が才能を伸ばしたという話だ。
家主の白州は実業で財をなした家系の子孫で、戦後まもなくは政治にかかわった時期もある。だが彼に言わせれば「俺は百姓だ」ということなので、どうやら小難しい話にはあまりかかわらなかったらしい。しかし気前のよかった彼のところには、彼が酒を飲んで床に入ったあとでも平気で居座る友人が押しかけた。そこで客人の相手になったのが正子だったようだ。正子の好奇心は人並みはずれていて、人呼んで「韋駄天お正」だったという。思いたったらあれこれ考えずにすぐ行動する。骨董については青山二郎からさんざんに貶されながらも、涙を拭ってついていったそうだ。
これは白州にとって、ありがたいことだったのではないかと思う。放っておいてもむこうでずんずんと知的生産が行なわれている。そのあいだ自分は田圃に裸足で入り、日が暮れれば酒を飲んで寝てしまう。呼ばなくても人はやってくる。そういった場を提供するのは、本人がそう思っただけではなかなか実現できないものだと思う。なにしろひとりではもてなしができない。話し相手だってしなければならない。寝床の世話もしなければならない。家族がいる身分では、そうなかなかできることではない。だが白州の家では、それが可能だった。
なぜなのだろう。そのことをずいぶん長く考えてきた。だがここにひとつの答えがはっきりと見えたような気がする。
弾さんのペントハウスは、現代の武相荘をつくりつつあるのかもしれない。

それに付き合わされている妻は、コードを書くわけでもないのでもっと「理解」していないのは明らかだが、きちんと「納得」してくれた上で我々の面倒を見てくれている。
妻はOSSを「理解」していない。しかし「納得」してくれている。

わたしの妻も、わたしが考えていることをぜんぶ理解しているわけではない。相当長い時間をかけて話しあっても、やはりそこには伝わりきらない、理解したとは言い切れない部分が残る。だがじっさいのところ、妻はわたしの生み出そうとしている「コード」の存在を認めてくれている。納得ということかもしれない。
"rough consensus and running code"
ということばがあったと思う。「大筋での同意と、走りはじめたコード」ということが成功するオープンソース・プロジェクトの掛け声になっている、という話だったと記憶している。
走りはじめてしまった自分のコードに、なんとか行き先を見つけてあげたい。それが自分の仕事ではないかな。そんないまのわたしに、弾さんの話はとてもおおきな勇気をくれるものだった。