そもそも他人の話は、半分以上は聞き流すもんだが。

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発達障害とか以前に。
いやまあ、自分の近くにあるものには解像度が高くて自分の遠くにあるものについては解像度が低いのは当たり前なんだが、その辺りを元エントリ主は自覚ないしさ。
(相手の事を「マジョリティ的な感性」とか言っているのはその証左で)


思春期にしばしば発動するが、大人になっても発動している人はいる。
この前、「ミュシャは二流の画家、その絵はオタクのいう萌え絵程度の絵で、芸術ではありません。 - Togetter」ってエントリがTogetterであったが、ミュシャの解像度が異様に低い。多分美術にそもそも関心がないのだろうと思われるが、ミュシャが優美な女性を描いた時代において、ミュシャは女性を単に性的消費物として描いたのではなく、当時の女性の別の面を描いた画家である。言うなら「女性は古来太陽であった」みたいなのを描いてた。ミュシャによって煙草を吸う女性が描かれたりもした。当時の倫理観の中心であったキリスト教的女性ではなく、古代宗教の中での女性を描いたのである。
無論、「パーフェクトな女性崇拝」というものではないが、アートの持つ意味の一つである「価値観の倒錯」のような意義は、ミュシャにもしっかりあった。その辺りを不当に蔑むのは、正直どうなんだろうと思うんだが。


閑話休題。
他人の解像度が低いのは仕方がない、のだが、他人の事について自分と同じように細かな何かがあると「想定」はしておいた方がいい。見えないところについて、見えないからこそ「考察」等する他ないのだが、それはある。
そもそも、他人を100%受け入れるとかそういうものではないし、嫁と自分の関係も適切に距離はある。嫁のBL趣味を理解する事はおそらくない。自分のゲーム趣味を100%理解してもらうというのもない。そこに関して理解されるのが素晴らしい関係、とは思ってない。多分互いに変に縋られるのがダルいと思ってはいる。どちらかというと趣味という面より仕事の面で影響させられるの面倒という感じか。
無論、互いに創作物にガチ恋とかするタイプじゃねえんですが、登場人物の恋愛に変には引きずられないタチだ。


ちなみに、世間一般的に、半年くらいで大体分かれる人はかなり出てくるもので、それは一般的には慣れ・価値観の相違が気になり始める・相手に対して遠慮がなくなる、そういうものであるし、その段階をうまく二人で超えられない、あるいは二人の温度感が違う事によって解散というのは、本当に当たり前によくある話だ、という事はちゃんと理解しておいた方がいい。
「私は、我々は特別」という感覚が、発達障害とかの診断付けられた人にはとてもとてもよくある発言だし、それを慰める創作物もあるだろうが、創作物はある意味そういう慰めに関して作られた理想形なんであって、恋愛感情も永遠ではない、結婚という軛を続ける人もいれば離婚する人もまあまあいる、恋愛関係で結構別れる人もいるし同性婚ですら別れるのはある、まあそれだけだろうという所で、多分ネット上で見かける別れ話なんかもう100回以上は聞き流している私に言わせれば、聞き流す以外に何かあるか?と思う。

  • 相手との不一致を言う人間は大抵「別れたら」という言葉を求めていて、「相手が悪い」とかいうのを望んでいる。
  • 趣味の不一致な状況は最初から特に変わってないのに、気になり始めているというのは、そもそも趣味が問題ではなくて前と違う状況が問題になっているだけ。
  • 人の変容に希望を持つ年でもないだろうが、変容させられる(自分が努力する)事の許容は必要。まあ適当に変わる所もあるし変わらん所も出てくる。
  • 今受け入れている人が将来受け入れられなくなるかもというのは、どんな恋愛だろうが結婚であっても当たり前にあるものだが、今OKならいいじゃんという感覚がなければそもそも無理。レールがある結婚生活ってまあある訳ない。

こういうの、問題になるのは障害とかではなくて性格である。発達障害とかの人の、「自分好きすぎる」傾向ってマジで強いのはあって、「普通の人の性格」とか興味なさそうに思える、まあそこが無理の原因だろうなと思うんだがな。