流石にこれは違う。

平安時代の食事情は考えれば考えるほどタイムスリップしたくない…醤油なし、味噌なし、油は高級品、日本酒は甘いなど

肉が禁止になったは仏教の教えもあるけど、一番の理由は、増加する人口に対してジビエだけだと肉の量が足りなかったから。山だらけの日本は牧畜に向かず、その代わり海の幸は豊富で、それでタンパク質をまかなえる。

2022/04/01 08:07
b.hatena.ne.jp

togetter.com
派生なのですが。


肉食禁止の風潮は、奈良時代や平安時代の貴族だけです。牧畜はたしかに盛んではないのですが、普通に食されています。猪とか鹿とか。
鳥はデフォルトで外れてると思って下さい。
農閑期には、農家の人も結構狩猟をしていたのです。というか、そもそも、庶民レベルであれば流通が現代と比べ物にならないくらい貧弱です。そのあたりがしっかりと現代に近付いてきた江戸時代ですら、基本的に流通は干物や塩蔵です。海が近くにないところのタンパク質は当然ながら干物とかでは全く足りません。


我々は、穢多という人々が昔からちゃんといたという歴史も含めて学んでおく必要があります。


ちなみに、京都、歴史的には大阪とは河で繋がっていて、舟が上ってきてたんです。
今も伏見港という形が残ってますが、1950年、終戦後まで使われていました。琵琶湖疏水の蹴上というところで琵琶湖に舟を運んでいた遺構があります。
多分京都府民くらいしか歴史としてまともに教えられていない、巨椋池というほぼ湖があり、戦前に干拓されてますが、地名にもこのあたりでは、「島」という名前が残ってます。中書島とか槇島とか向島とか。ちなみに、難読地名としての「一口」は、秀吉が河川をつけかえたりした後に巨椋池の唯一河に出る接点のところを元々芋洗と呼んでいたのがそのうち一口でいもあらいと読ませるようになったという事のようです。当時は漁業の町として栄えたようです。

奈良は、結構難波からきっちり東であり、河で行くなら大和川、難波あたりは多分グズグズな水の中が多かったろうし、大阪市の中央区あたりが港だったとか(船場)ありますしね。大きな町には大抵水運があったんですよ。



余談の余談ながら、私の父方母方の里になる旧宇和町は、肱川の上流なのですが、肱川ってのがちょっととぐろを巻いたような河でして、直線距離にしたら宇和島が近いんだけど、というような変わった場所です。宇和盆地が一番肱川の上で、そのせいで溜池が結構あり母方はそんな溜池が隣にありました。陸路は宇和島あるんですが厳しい峠があり、お遍路さんの中でも難所になります。
一応肱川は水運もあったんですが、父親が宇和盆地より下流の野村に近いところにあり、切り出した木材を河で運ぶのとかが行われてました。ただダムが出来る前は結構な渓谷だったようです。父方の里は一部ダムの中に沈み、まあ爺さんが家燃やしてすでに今は田んぼになってるとかなはずですが、旧街道は元々南岸とかだったのが道筋も変わったなーという話でした。こういうの、どんどん地域の歴史からも消えていくんだろうなあ。


なお、父方の方は寒冷地で、昔は稗とか植えてたという話でしたが、棚田の地域って多分戦後までそんなんじゃなかろうか。みなさん結構お忘れなんですが、稲作、私達の子どもの頃と、もう育つ時期や品種がかなり変わってます。


いやホント、現代人の感覚でモノ考えたりするの駄目なんですって。