17世紀の危機
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17世紀の危機あるいは単に全般的危機(ぜんぱんてききき)(英語: The General Crisis)とは、ヨーロッパ史において17世紀に起きた混乱や波乱をまとめた言葉。17世紀は、14世紀とともに小氷期によりヨーロッパの気候が寒冷化し、ペストが大流行して飢饉が起こり[1]、英蘭戦争や三十年戦争をはじめとする戦乱の多発によって人口が激減したため、研究者によっては「危機の時代」あるいは「17世紀の危機」と呼ぶことがある[2][3]。イマニュエル・ウォーラーステインによれば、「17世紀の危機」は1620年代に始まって約1世紀続く「近代世界システム」の収縮局面で、ヨーロッパを中核とする世界システムはこの間地理的にも交易量としてもほとんど拡大せず、重商主義政策と戦争によって世界の余剰を中核諸国が奪い合った時代である[2]。また、アメリカ大陸からの膨大な銀の流入によって、「価格革命」と称される急速なインフレーションが生じた後のヨーロッパでは生活費が2倍ないし3倍にも高騰したため、困窮する人々が増え、彼らによってヨーロッパ中で暴動が発生した時代でもあった[3]。
注釈
- ^ アルブレヒト・デューラーやハンス・ホルバイン、ルーカス・クラナッハら北方ルネサンスの画家たちもアントウェルペンの殷賑ぶりを絵画に残している[7]。
- ^ ルイ13世の宰相リシュリューによってユグノーの拠点都市ラ・ロシェルが陥落したのは1628年11月のことであった[10]。アレクサンドル・デュマの小説『三銃士』の中で、主人公ダルタニャンと三銃士は、この戦いに参加している。
- ^ イマニュエル・ウォーラーステインもまた、「17世紀の危機」は1620年代に始まり、その後、約1世紀間続くとみている[2]。これに対し、危機の終わりを、ルイ14世の権威確立とピレネー条約によるフランスを中心とする新しいヨーロッパ国際秩序が成立した1660年ごろとみなす見解も多い[4]。
- ^ デカルトを招いたのはスウェーデンの女王クリスティーナであった。クリスティーナは1649年、3度にわたってデカルトを招待する親書を送ったという。
- ^ 1693年から1694年にかけて、フランス北部では出生率の著しい低下がみられた[17]。
- ^ イタリアでは1629年-1631年、スペインでは1649年-1652年、イギリスでは1665年、ドイツでは1663年-1669年、ロシアでは1709年-1710年の流行が各国における最後の大流行であった[19]。1720年に南仏で起こった「マルセイユの大ペスト」以降、ヨーロッパではペストの流行はみられなくなり、その意味でペストの終焉は「危機の終焉」に関して象徴的な意味を有しているとみなされる[13]。
- ^ イングランドでのペスト流行によってケンブリッジ大学が閉鎖されたため、アイザック・ニュートンは故郷のウールスソープ=バイ=カールスターワースに帰り、雑事から免れて自身の研究に全精力をつぎこんだことから万有引力の法則の発見をはじめとする科学史上重要な成果につながったといわれる[20]。いわゆるニュートンの三大業績は、すべてこの避難の時期に生まれたもので、この期間のことを「驚異の年」と呼ぶことがある[20]。なお、ロンドンでは1666年に住宅の85パーセントが焼失する大火災(ロンドン大火)に見舞われ、市街の復興に際してはレンガ造ないし石造の建築が義務づけられたので、ネズミの生息場所がなくなってペストは沈静化した[20]。
- ^ フランスの歴史家フェルナン・ブローデルは、16世紀前半から1620年代にかけてのヨーロッパ経済を「ジェノヴァの世紀」と呼んだ[21]。これは、スペイン王室の資金調達を担っていたのがジェノヴァの銀行家たちであり、当時、かれらの行動がヨーロッパ経済の動向を左右していたからであった[21]。
- ^ 検疫のことを英語でquarantinというが、これはイタリア語のquarantena(40日)に因んでいる。
- ^ 16世紀のヨーロッパでも戦争がなかったのはわずか10年であり、決して17世紀になってヨーロッパ人が急に好戦的になったわけではない[25]。
- ^ 日本で「ピューリタン革命」と呼ばれるこの事件を「革命」と称しているのは、イギリスでは、一部の歴史家のみに限られている[25]。
- ^ 1560年代に信長が兵隊に隊列を組ませて一斉射撃をさせ、装填の際の攻撃力低下を防ぐ戦法を考案していたことは確実とみられる[25]。ただし、信長が1575年の長篠の戦いで銃兵に火縄銃の斉射戦術を展開して武田勝頼の騎馬隊を撃破したという有名な故事は、現在では疑問視されている[25]。
- ^ 小銃の斉射戦術が採用されたのは1631年のブライテンフェルトの戦いにおいてであった[25]。そのため、この戦術は当時「スウェーデン戦法」と呼ばれた[25]。
- ^ 「フロンド」とは当時の子どもたちの投石遊びのことである[29]。人々が宰相マザランの居宅に石を投げつけたことに由来している。
- ^ 1566年に始まったネーデルラントの反乱や1618年に起こったボヘミアの反乱は、いずれもハプスブルク家の帝国支配に対する抵抗で、どちらも国際紛争(八十年戦争、三十年戦争)に発展した。ネーデルラントの場合は宗教政策と課税要求、ボヘミアの場合は宗教政策がきっかけとなっている[25]。
- ^ 分離運動は失敗に帰したものの、スペインの王権はこののちカタルーニャの離脱を防ぐため独自の特権を承認するなど慰撫に努めなければならなくなった[28]。
出典
- ^ マン (2017) pp.37-40
- ^ a b c 川北 (2001) pp.213-215
- ^ a b マン (2017) pp.35-36
- ^ a b 大久保 (2009) pp.200-202
- ^ a b 越智 (1969) pp.130-137
- ^ ブローデル (1996) p.18
- ^ a b 越智 (1969) pp.119-124
- ^ 越智 (1969) pp.107-111
- ^ 諸田 (1977) p.227
- ^ a b c d e f g h i j k 宮崎 (1980) pp.54-55
- ^ a b c 宮崎 (1980) pp.55-56
- ^ a b Handwerk, Brian (2011年10月3日). ““17世紀の危機”の原因は小氷期”. natgeo.nikkeibp.co.jp. 2021年5月1日閲覧。
- ^ a b c d 宮崎 (1980) pp.58-62
- ^ a b c 菊池 (2003) pp.223-226
- ^ a b c d ウィルスン (2005) pp.47-51
- ^ a b c d e f g 宮崎 (1980) pp.62-63
- ^ a b c d e f g h i 宮崎 (1980) pp.63-64
- ^ a b c d e 志垣 (1980) pp.8-10
- ^ a b c d e f g h i j k l m 宮崎 (1980) pp.56-58
- ^ a b c d 石 (2018) pp.104-106
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- ^ a b c d e f g h 宮崎 (1980) pp.65-66
- ^ a b c d e f g h i 宮崎 (1980) pp.66-68
- ^ a b c d 越智 (1969) pp.137-142
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 大久保 (2009) pp.202-207
- ^ a b c d e f g 宮崎 (1980) pp.75-79
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 宮崎 (1980) pp.79-80
- ^ a b c d e f g h i j 宮崎 (1980) pp.80-81
- ^ a b c 長谷川 (2009) pp.265-267
- ^ a b 長谷川 (2009) pp.267-268
- ^ 和田 (1993)
- 1 17世紀の危機とは
- 2 17世紀の危機の概要
- 3 各国の状況
- 4 脚注
- 17世紀の危機のページへのリンク