高麗人の関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
上記「日本招諭の発端」の節にもあるように、1265年(文永2年・至元2年)、高麗人である趙彝(ちょうい)がクビライに「日本は高麗の隣国であり、典章(制度や法律)・政治に賛美するに足るものがあります。また、漢・唐の時代以来、或いは使いを派遣して中国と通じてきました」 とし、日本との通交をクビライへ進言している。このことがクビライが日本に興味を持つ契機となった。 1272年(文永9年・至元9年)には、高麗国王・元宗の子の王世子・諶(しん、後の忠烈王)が、大元朝のクビライに「日本は、いまだ陛下の聖なる感化を受けておりません。ゆえに命令を発して我が軍の装備や糧食を整えさせました。今こそ戦艦兵糧を使うべきです。わずかではありますが、臣たる私めにお任せくだされば、つとめて心力を尽くし、帝の軍をいささかでもお助けできますことを切願しております」 と具申した記録が『高麗史』に残っている。李氏朝鮮の柳成龍の『懲毖録』にも「昔、高麗が元の兵を導いて日本を攻撃した」とあり、李氏朝鮮時代においても元寇に対する高麗の主導的な関与があったとの認識であった。 また『元史』によると高麗国王・忠烈王は弘安の役後、「高麗国王、請自造船一百五十艘、助征日本。」と150艘の軍船を自ら作り、日本遠征を援助したいとクビライに上奏している。 高麗はモンゴル帝国の侵攻を受ける以前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、元宗、忠烈王以降の高麗国王はモンゴル帝国の兵力を借りることによって王権を奪い返したため、それ以後、高麗王はほとんどモンゴル帝国に頼り、モンゴル名を貰い、モンゴル帝国皇帝の娘を王妃にし皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族、「駙馬高麗国王家」となっていた。このようなモンゴル帝国に頼らざるを得ない状況の忠烈王が、自身の王権を保つためにクビライの意を迎えようと、これらの発言を行ったとする見解がある。
※この「高麗人の関与」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「高麗人の関与」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。
- 高麗人の関与のページへのリンク