高麗侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:43 UTC 版)
1216年以後、10年以上にわたってテゲ・コルチに関する記録は史料上に見られないが、1231年(正大8年、辛卯)より再び名前が見られるようになる。チンギス・カンの死後、モンゴル帝国では一度征服した地域で蠢動する反攻勢力を討伐するために「タンマチ(タマ軍)」と呼ばれる軍団を各地に派遣しており、遼東・高麗方面にはサリクタイ率いるタンマチ軍団が現れた。遼東半島に残存する金朝の勢力を平定したサリクタイ軍は1231年8月より高麗国に侵攻したが(第一次モンゴルの高麗侵攻)、高麗に侵入したモンゴル軍はサリクタイと蒲桃元帥・迪巨元帥・唐古元帥に率いられていたと記されており、この「迪巨元帥」こそ蒲鮮万奴の長男たるテゲ・コルチであると考えられている。 破竹の勢いで進むモンゴル軍に対し、高麗朝廷は早くに投降を決意し、同年11月には王京に辿り着いたテゲ・コルチらにも貢ぎ物が送られた。こうして1232年(正大9年、壬辰)にはモンゴル軍は高麗から引き上げたが、同年6月には早くも高麗はモンゴルの設置したダルガチ72人を殺害して叛乱を起こし、サリクタイ軍団は再び高麗に派遣された(第二次侵攻)。ところが、サリクタイは8月の処仁城の戦いで流れ矢に当たって戦死してしまい、この時残存軍をまとめて退却を果たしたのがテゲ・コルチであった。
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