須賀川二階堂氏
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文安元年(1444年)頃、鎌倉から二階堂為氏が須賀川に下向し、命令に従わなくなった須賀川代官二階堂治部大輔を討ち、須賀川城に入ったという。この為氏が須賀川二階堂氏の初代当主といわれている。現存する須賀川二階堂氏の系図の多くは後世に作成されたものであり、為氏以前がどの家系につながるかは判然としない。 須賀川二階堂氏は鎌倉府の時期には三河守系と遠江守系の二つの系統があったようで、戦国期につながるのは足利義政から御内書を下された二階堂藤寿の遠江守系で、二階堂貞藤(備中家)の兄・時藤の養子であった二階堂成藤の子孫と推定される。ただ、藤寿は現存する二階堂氏の系図には名前が見当たらず、為氏との関係は定かでない。 天文11年(1542年)に勃発した天文の乱と呼ばれる伊達氏の内訌(ないこう)に端を発した大乱では、伊達稙宗の娘婿二階堂照行(輝行とも)は稙宗方となっている。 永禄年間(1558年から1570年)になると、度々蘆名氏に攻められ、二階堂盛義は息子を人質として送り講和した。 盛義の死後当主となった二階堂行親は早世し、その跡は盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる阿南の方(大乗院)が継いでいた。そのため政宗も幾度となく降伏を薦めたが、阿南の方はこれを頑強に拒否。天正17年(1589年)10月26日政宗に攻められて、須賀川城は落城した。阿南の方はその後政宗を嫌って甥の岩城常隆を頼り、常隆の死後は佐竹義宣の元に身を寄せた。佐竹氏が出羽に移封されると病のため須賀川に留まることになり、1602年に62歳で没したという。
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行朝(伊勢家) — 行親 — 行光 — 行永 — 行宗 — 行続 — 為氏 — 行光 — 行詮 — 晴行 — 輝行 — 盛義(『系図纂要』) 二階堂為氏(為藤、寿丸、盛重)(?年 - 1464年) … 次郎、遠江、茂山樹英、須賀川城主、『系図纂要』では行続(行嗣)の子、長禄寺所蔵「二階堂藤原系図」では行秋(筑前家・光貞の子)の孫、須賀川市普応寺の寺伝では式部大輔為治の子 二階堂行光(?年 - 1477年) … 山城、嘉山道教 二階堂行詮(宗続?)(?年 - 1497年) … 山城、青林茂公 二階堂行景(?年 - 1504年) … 太郎左衛門、瑞山昌公 二階堂晴行(?年 - 1542年) … 続義、信濃行直、遠江、喜山常公、将軍足利義晴より偏諱を賜う。 二階堂輝行(照行)(?年 - 1564年) … 弾正、信濃行秀、秀山義公、将軍足利義輝より偏諱を賜い、駿河輝行とも表記する。 二階堂盛義(?年 - 1581年) … 遠江、信濃行盛、松山藤公 二階堂行親(盛行) (1570年 - 1585年)… 信濃二郎行親 蘆名盛隆 … 盛義の子、蘆名氏に養子入り 【一門】 矢田野盛秀 … 『系図纂要』では為氏の兄弟、室町幕府鎌倉府政所執事の二階堂盛秀とは別人か 矢田野義正 矢田野行義 矢田野行政 矢田野行正 保土原行有 保土原行藤 保土原重行 浜尾行泰 浜尾盛泰 浜尾泰親 浜尾宗泰 【家臣】 遠藤勝重(?年 - 1589年) … 天正17年(1589年)10月、伊達氏の須賀川城攻めで奮戦するも戦死 須田盛秀(1530年 - 1625年)… 天正17年(1589年)10月、伊達氏の須賀川城攻めで奮戦。落城後、常陸に落ち延び佐竹氏に仕える 矢部義政 … 天正17年(1589年)10月、伊達氏の須賀川城攻めに内応。戦後、伊達氏に仕える 守屋俊重 … 天正17年(1589年)10月、伊達氏の須賀川城攻めに内応。戦後、伊達氏に仕える (以上を二階堂四天王という) 須田秀広 須田頼隆 須田照秀 須田永秀 須田秀行 守屋重清 遠藤壱岐守(但馬守) 泉田行雄 塩田政繁 大久保資近
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