順天時報時代
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渡欧中の1911年(明治44年)、北京において順天時報(中国語版)社長上野岩太郎が退任することになったが、日本公使館は陸良を後任に推すことでまとまったため、イタリア大使林権助から話を受け、9月帰国し、11月北京に着任した。 就任時の社説では民間交流による日中親交を主張しつつも、1914年(大正3年)交詢社での講演においては、日本が欧米に対抗できる国力を付けるまで中国の領土保全を名目に多くの日本人を中国に移住させ、実権を握ることを提案している。 1915年(大正4年)頃腎結核のため帰国したが、順天堂病院で阿久津三郎の手術を受けて快復し、北京に戻った。 1915年(大正4年)日本が袁世凱の北京政府に対し対華21カ条要求を提出すると、これを強く支持し、政府が態度を軟化させないよう中島真雄と共に在北京大使日置益に圧力をかけ、帰国した中島を介して交渉の模様を逐一日本に発信した。 袁世凱が中華帝国建国を計画した際にも、順天時報を挙げて反対した。 1917年(大正6年)段祺瑞政権を援助した西原借款(英語版)に憤慨して順天時報社長を辞職し、時事新報理事に転じた。
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