革命の前夜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 10:13 UTC 版)
詳細は「人民の意志」および「ru:Pervomartovtsy」を参照 1825年にアレクサンドル1世が崩御した。彼の子は全て夭折していたため、弟のニコライ1世が継いだ。すると立憲君主制を求めてデカブリストの乱が起こる。ニコライ1世はこれを厳しく弾圧し、以後皇帝は極端すぎる保守・絶対政治を行った。ニコライ1世も近代化と積極的な対外進出を目指したが、志半ばで1855年に崩御した。跡を継いだアレクサンドル2世は近代化の妨げとなっていた農奴制を解放(農奴解放令)して近代化を進めるも、ポーランドでの反乱や後継者の早世で失意に陥り、最期は1881年に没落した貴族階級のポーランド人で人民の意志党員イグナツィ・フリニェヴィエツキ(英語版)によるテロルで暗殺された。 暗殺事件後に跡を継いだアレクサンドル3世は、保守政治はなおも続けるも急速な工業化を推進してロシアの近代化を軌道に乗せた。 1894年に跡を継いだニコライ2世は臣下の発言に意思をゆだねるところがあり、先代のような指導力はなかった。日露戦争では日本に完敗し、この戦争中に起こったロシア第一革命で絶対君主制から立憲君主制へ移行することを余儀なくされた。 だが立憲政治は名ばかりで実態が伴わず、貴族や地主らによる保守政治がなおも続いた。その中で行われたピョートル・ストルイピンの反動政治はロマノフ朝から知識人や国民を離反させ、反体制グループが台頭する一端を成した。1914年からは第一次世界大戦に参加し、それにより国民生活はますます困窮した。そして1917年、ロシア革命で君主制そのものが打倒されてロマノフ朝は崩壊した。 2007年の世論調査でロマノフ朝の復活に賛成の国民が37%、反対が7%と君主制支持が多くなってきている。それはロシアの深刻な格差社会が原因であるともいわれる。
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