陳霸先の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/04 05:35 UTC 版)
545年5月、陳霸先と新たに交州刺史に任じられた楊瞟、定州刺史蕭勃らが朱䳒県と蘇瀝江の河口において李賁を破り、彼が立て籠もった嘉寧城を包囲した。546年1月梁軍が嘉寧城を攻略したが、李賁は屈獠の洞蛮族の地に逃げおおせた。546年9月、李賁は2万人の兵を率いて典澈湖一帯に拠り、軍船を建造した。陳霸先は一軍を指揮して、夜陰に紛れて川の水を湖に流し込んだうえで攻め込んだ。李賁はたちまち敗れ、ふたたび屈獠洞に逃亡した。 548年に李賁が死去した後、その兄の李天宝は九真郡に逃れて梁への抵抗を続けた。彼は2万人の兵を集めて徳州に侵攻し、そこから北上して愛州を攻めたが、陳霸先に撃破された。李天宝は愛州の上游に撤退し、自ら「桃郎王」を称し、国号を「野能」と改めた。また李賁の部下だった趙光復は辺境の沼地に拠り、「趙越王」(もしくは「夜沢王」)と名乗った。梁で侯景の乱が起き国が乱れると、陳霸先は軍を率いて北へ帰り、侯景を破った。彼は後に陳を建国することになるが、彼が南方を離れたことで、交州近辺に南朝の勢力が及ばなくなり、前李朝が龍編県を取り戻した。555年に李天宝が病死すると、趙光復と、李賁の部下だった李仏子が遺領を分割した。その後、二人は敵対関係となり、557年に李仏子が趙光復を破った。最終的に両者は、君臣洲を境として、以北を李仏子が、以南を趙光復が治めることで合意した。571年に趙光復が没したので、李仏子はその遺領を併呑し、全李朝を再統一した。彼は峰州を根拠地とした。
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